2012年3月30日金曜日

障害者を利用して健康被害・低すぎる工賃で働かせる企業

 
Once upon a time 1969

 私たちは、このろうあ者の事故と事件や働く障害者の問題を障害者集会で何度も訴えた。
 でも、残念なことに障害児研究をしている大学の先生や学習会に参加している人々から「働けるだけましやで」「仕事にも就けない障害者のほうがもっと深刻や」などなどと言われ、落ちこむことが多くあった。


「ちがうのや 障害者みんなに共通することや。働いている人にも」
と言い続けました。


         施設に子供を預けている一保護者からの訴え

 障害者の働く問題が、授産施設でも深刻な問題としてあることが、1975年12月の京都府議会本会議で杉本源一議員によって採り上げられた。
 少し長くなるが、その時の京都府議会議事録抜粋して掲載します。

 なお、議会議事録には施設の名詞などは残されていますが、一部をイニシャルで、読みやすくするため見出しを入れるのでご承知ください。


 私は城陽市にある社会福祉法人A学園に起きた事件を中心に、京都府の社会福祉対策について質問をします。

 去る11月10日、この施設に子供を預けている一保護者から、私に次のような訴えがありました。

シンナー中毒はないと言うが  シンナーの臭いが強く、紫色をしたヘドロが

「11月9日保護者会があって、そのときこの学園に預けている娘が作業しているところを他の保護者とともに見せてもらった。
 作業場にはクリーニングの立派な機械が据えられていたが、シンナーの強い臭いが鼻をつき、その周囲にはシンナーと油で汚れたウエスが数十本のドラムかんに詰め込まれ、倉庫にはシンナーの1斗かんがたくさん置いてあった。
 精神薄弱者の園生をこのようなところで作業させるのは問題がある。
 京都府は一体どのような指導をしているのか、調査して善処してほしい」


こういうものでありました。

 11月12日、T園長に会い実情を聞くとともに、園長の案内で作業場を見せてもらいました。
 保護者の強い訴えにあったとおりで、シンナーの臭いが強く、紫色をしたヘドロがごてごてと地面に捨てられたままになっておりました。
 園長の説明によりますと


「この施設は授産施設として京都府の認可を得て設立されたもので、洗たく作業については株式会社MとA学園が契約をし、今年の2月から運転を始めたもので、毎月必要な経費として30万円をMから学園へ納めてもらい、園生には1カ月1人3000円を工賃として支払ってきた。
 5~6月頃にてんかん発作を起こす園生が出たので、ユニチカの専門家に公害の調査をしてもらったが、人体には影響はないとのことだった」


と話していました。

   12人に肝臓機能障害など身体に異常が発生した

 作業は、油で汚れたウエスをクリーニングするもので、そのときシンナーが使われております。
 重大なことは、この作業に従事していた園生45名のうち12名にてんかんに似た症状や肝臓機能障害など、身体に異常をきたしたものが発生したということであります。

 民労部長、あなたはこのような事実を知っていたのですか。
 私はこれは重大な事件だと思います。
 驚いたことに、作業能率を低下させないためといって、学園の近所にあるB病院の精神科の軽度の患者を園生と一緒に作業させていた事実であります。


   企業ペースで障害者を働かせるのは  人道上許せない行為

 株式会社Mの従業員とB病院の患者とA学園の園生が入りまじって作業するというこのような作業形態は、不適当であります。
 収容されている園生が精神薄弱者であることにつけ入って企業ペースの作業が行われていたとしたら、これは人道上許せない行為であります。
 一体このような作業が適切なものかどうか、計画の当初から慎重に考えられるべき問題でありますし、その危険性は当然予測されたことであります。


2012年3月28日水曜日

指を切断する痛みと遊興費


Once upon a time 1969

  細川汀著「健康で安全に働くための基礎」を読む度に労働安全衛生の基礎知識の重要性と1969年にあったあることを想い出す。

 細川汀著「健康で安全に働くための基礎」の 4 ミスするのが人間 ー 守られるいのちと健康 ーの項目で次のような事が書かれている。

 機械にもさまざまなものがある。
 プレスのような物を潰したりおさえる機械は特に危険である。
 両手で物を入れて、足でペダルを踏むとプレスが落ちてくる。
 非常に速く手足を交互に動かしていると、ついまちがって同時に動かしてしまうこともある。
 その途端プレスで手を潰してしまう。


 ある工場で11人の労働者が10年間に30本の指を潰していた。
 1人は両手の2本の指しか残っていなかった。

 これを防ぐには……

のプレス機のことでは、苦い苦い思いが残っている。

   プレス機で指を切断したことで会社と交渉したけれど

 ある日。
 一人のろうあ者が、ろうあ者相談員のところにやってきた。


  仕事の最中にプレス機を操作して、薬指の第二関節を切断してしまったと血がにじみ出た包帯を見せた。
 すぐ手話通訳をしていた私とともに会社に行くことになった。

 会社は治療するなどのことが充分でなかったこと。

 労働災害保険の申請をして充分治療が出来るようにろうあ者を休ませることを約束した。
 ろうあ者もそれでいいと言うことだった。


 ところが、そのろうあ者は休業中にパチンコ、ばくちばかりしていたようであった。
 私たちは、まったくそのことを知らなかった。





 二度目の労働災害はわざとだったとは

 数ヶ月経ってまたそのろうあ者がやってきた。
 今度は、小指をプレス機で切断した。

 手続きは会社がしてくれているので今は休業中だからヒマなので遊びに来たという話だった。
 私たちは、二度もプレス機で指を切断したことに驚いて転職などの話をした。

 でも、そのろうあ者は、ぜんぜん話にのってこなかった。
 


 この段階で、私たちは彼の状況を把握しておくべきだったのだが、そこまで思い至らなかった。

 指も関節ごとに少しずつ切ると痛すぎるが あとで遊べる

 再び数ヶ月すると、またプレス機で指を切断したといって遊びに来た。
 私たちは、これは大変だ、と思い会社と話をしようと言うと、そのろうあ者は絶対来てくれるな、と言う。


 指が切り刻まれていることを黙っておられるか、とみんなが言うと、そのろうあ者はぽつりぽつりと次のような話をしだした。


 労働災害を受けていると休んでいてもお金が出る。補償金も出る。
 そのお金で、パチンコやギャンブルをしていた。
 お金がなくなつて労災補償の期間が過ぎると仕事に行って、「わざと」プレス機で指が切れるようにして労災補償と補償金をもらうようにしているから、ジャマしないでくれ。


というのである。
 指も関節ごとに少しずつ切れるようにしている。
 切った時は非常に痛いが、あとの楽しみがあるとさえ言い続けた。
 
  すべての指が切断されて 残った手のひらだけが

 私たちは必死になってそのことを止めるように説得したが、それから遊びにも来なくなった。
 


 それからどれくらいの日数が経ったのか思い出せないが、ある日再び遊びに来たら、親指と人差し指が無くなっていて手話で話しているようだが、手のひらだけが動いているだけだった。

 ほかのろうあ者から聞くと、彼が人差し指と親指を切断すると補償金額が大きいと知って親指、人差し指の順番でわざと切断していって遊興したとのことだった。


 結局、彼はすべての指を切り落として姿を消してしまった。

 労働災害を防ぐこと、労災補償を受けることの意味を最初から話しておかなかったことが悔やまれてならない。



 
 

2012年3月26日月曜日

後藤勝美さんへの オマージュ hommage


Once upon a time 1969






後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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2012年3月18日日曜日

後藤勝美さんの絶筆  障害を「障がい」とする意味は


Once upon a time 1969

行政用語 障害を「障がい」とする意味は

           東海聴覚障害者連盟相談役 後藤 勝美

 私の住む岐阜市や岐阜県の福祉課が、課名を「障がい福祉課」に変えた。
 「障害」は「障がい」と公文書に記すそうだ。


 この動きは5、6年前から始まり、岐阜市の調査では、県内8市町、全国でも7道県、4指定市、7中核市に広がる。メディアでも目にするようになった。

 なぜ、急いで「害」を平仮名に?
 そして、なぜ広まるのか。
 なぜ「害」がいけないのか。

 役所に尋ねると、害は悪いイメージがする、負の面を感じる、不快感等がその理由だという。

 果たしてそうだろうか。


 聴覚障害者である私も、「障害」や「障害者」の表記は必ずしも適切とは思っていない。

 障害や障壁に立ち向かう精神を表すような、よい言葉がないかと思う。

 だが、まだ日本語には適切、的確な言葉がない。

 かつて「障礙」「障碍」という言葉がとりざたされたことがある。
 だが、この字も「さまたげる」という意味で適切とは言い難い。
 この社会には、あらゆる面で不便、不自由を強いられている人がいる。
 例えば、目の見えない人は道に物が置かれているために自由に安心して歩けない。
 耳の不自由な人は手話通訳が有料で困っている。
 車いすの人はいつでもどこにもスムーズに行くことができない……。

 マスコミはよく「障害を乗り終えて」と書くが、障害に「負けない」のであって、「乗り越える」のは、ほぼ不可能に近い。

 こうした問題は、社会環境や政策的不備で起きている不自由さであり、それこそが「障害」なのである。

 言い換えれば、そういう人は「社会的被害者」と言えるし、「害」にはその意味が含まれている。

 この被害を取り除いていくことが必要なのだ。

 単なる言語上の問題ではない。

 「害」を平仮名に変えたところで、前述の社会的被害は何一つ変わるわけではない。

 それどころか、その被害をあいまいにし、あげくの果てに「害がなくなった」という風潮を広める危惧を覚える。

 この変更を、障害者を最も理解すべき福祉課が決めた経緯にも、疑問を感じている。

 県や市に尋ねたところ、変更すべきだという意見は、一部の市民からの提案だったという。

 障害者団体の中には反対意見もあったが、当事者の意見を聞いたり議論したりすることに、十分な時間や手間はかけられなかった。

「不快に思う人が1人でもいれば」ということだけでは変更の理由にはならない。

 そんなことよりも「害」を取り除く具体的な施策の方がずっと大事だ。
 これは行政も障害者も万人の共通した認識だろう。

 私は、障がい者にあらず、障害者である――。

 この世に障害が感じられなくなる日まで、言い続けたい。

                   2009年1月23日 朝日新聞朝刊「私の視点」欄

 「障がい者」考で、社会に一石を投じます。
 「障害者」のままでも良いのに、これを同音の「障がい者」と表記されるのは、変ではないでしょうか。
 何も言わないのは、いろいろと問題がありますし、この際、私が投稿することにしました。

  皆様からのご意見をお待ちしております。

 これが、私への最後のメールであったが、今だ涙なしに読めない。

 あれから3年経った。

 みなさんのご意見を故後藤勝美さんへお寄せください。

 ご意見をこのブログに掲載して、後藤勝美さんに捧げたいと思います。

 こころからおねがいします。



後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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2012年3月16日金曜日

後藤勝美さんの文章が 勝手に「障害者」を「障がい者」に


Once upon a time 1969

                                       「 健康教育概論 - 生きる権利の認識 - 野尻與市著 」より続き


  息吹きをみせる「健康」は

 このような見方をしない限り,少なくとも現在の医学・技術をもってしては健康たりえない人びとにとって、憲法25条1項がいくら「健康」を権利と認めても、それは絵に描いた餅にすぎなく、そうでなくても軽視されがちなこの条文は、一そう空しい存在になってしまうであろう。
 この条文が本当にその息吹きをみせるのは,「健康」そのものにこだわらずに、つまり
「健康の如何にかかわらず」
ということで、もっとはっきりいえば、
まず

「不健康者が文化的な生活を送る権利を有する」
という形で、私たちのものになったときのことであろう。
 私たちはいま、ここで述べたような人たちにも健康の押し売りをしているとしたら、彼らにとってそんな残酷なことはないであろう。
 また逆に、押し売りしても甲斐がないからと、放置することも、それはまさに切り捨てであり、やはりこの上ない残酷なことといわねばなるまい。


8 「健康な生命」と「健康でない生命」

 前に記した「公衆衛生」のなかで、私が力づけられた文章に、都立大学・唄孝一氏の次のものがある。
 氏はいう。


 「それ(健康権)は基本的に、生命権の下位観念であるべきである。
 生命概念から遊離した健康観念のひとり歩きは危険である。
 このことは、二つのととを意味する。

 一つには「健康な生命」も「健康でない生命」も、生命としては絶対的に平等であり、前者が後者の上位に位するものではないということである。

 二つには,しかし一つの生命にとってはつねに「健康でない」状態を脱して「健康な」状態への上昇を志向し健康を要求する権利が与えられているぺきである。
 健康でも不健康でもどちらでもいいというのではない。
 以上の二つの理論の関係を正しくとらえることが必要である」と。


 唄氏はさらに次のようにもいっている。

「ここで非常にむずかしいのは、この健康ということを言い過ぎると、なにか「健康でない生命」よりも、「健康な生命」のほうが価値があるという議論に結びつく危険も一方で持っているわけです。
 そういう発想から健康でない生命は健康な生命に向上するべきであると外在的に上から判断を加えることになり、衛生警察的な意味での公衆衛生といったようなふうになってしまうおそれがある。……むしろ健康な生命も健康でない生命も完全に生命としては平等であるという命題をはっきり基礎にすえなければならない。

 その意味で健康と生命を区別しながら、あくまで生命ということでもう一回統一するという視点がなければいけないのではないか」

 これは,前項において述べたことの、まさに法学的表現といえるものである。
 このような考え方は常識でなければならない、とする私見は、唄氏のこれらの言によってこの上なく力づけられた。

 しかし、残念なことに、学校保健といわれる領域では、少なくとも公式には、このようなことは論議されなかったといってよい。
 「体力づくり」には問題点をみつけるが、「健康づくり」になるとホイホイとさそいの手にのってしまう、というのが学校教育における場合の実態といってよい。
 そして、それがエスカレートすると、次のように恐るべき「強さのクラス分け」さえ行なわれるようになるのである。
 このクラス分けは、大塚正八郎氏よるものであるが、氏は、健康の定義には

「生活のどの場でどんな作業ができるか、という体や心の「強さ」の概念を考慮する必要がある」

とし、その強さを

「A、陸海空のどこでも、どんな作業  にも耐えられる。
 B、陸と海で普通の作業ができる。
 C、陸上で普通の作業ができる。
 D、日常の仕事も一人ではでぎない(薄弱、病弱、有症者)。
 E、病人」

の5段階に分類、そして「これを性、年令などの要素によって健康度を測定する」と述ぺているのである。

 ここには、健康でない場合は役立ずだから切り捨て、健康な楊合はより健康にして陸海空軍要員にという発想、すなわち「健康な生命」の方が「健康でない生命」よりも価値があるという発想があり、しかも、そのような立場で行なわれる学校での健康についての教育(もちろん管理も含めて差支えない)は、医学的・健康至上主義的「保健」教育に、いとも容易に変貌する可能性があることを知らねばならない。

 この文章が頭によぎった時、後藤さんの言いたいことと同じだと思った。
  著者の言う

障害者については、障害のある子どもをすべて非健康者として扱うことは大きな差別であり、まちがいです。すぺての子どもの人権を尊重する立場から考えれば、わかることです、という発言がある。
 これは心情としてはわかるが、健康をそれこそ人権の立場から考えるときは、決して正しくはないのである。
 なぜなら、もしこの人たちの状態を健康と認めるとすると、憲法25条1項にうたわれている「健康」の中身が大きく後退し、その人たちは「健康」であるということで巧みに処理される可能性があるからである。


という心情と健康権の問題を理性的に整理しておかないと、憲法の健康保障が巧みに利用されてしまう。
 後藤さんもそう直感したのではないか、と思った。


 その後、新聞社の全国版から、後藤さんに「障害者」と「障がい者」についての原稿依頼が来たとのメールがあった。
 新聞社側は、後藤さんの原稿を一方的に書き替えたことの謝罪と後藤さんの意見を全国に知らせたいということであった。
 
 後藤さんは、考えたあげく、その依頼を受けて私の意見も含めて多くの人から意見を聞いて、推敲に推敲を重ねていた。


 だが、それは後藤さんの絶筆になるとは夢に思っていなかった。

 明日23日の朝刊に掲載されます、のメールがあったが、その文章を見るのはずーっと後になった。



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2012年3月14日水曜日

後藤勝美さん の文章が「障害者を障がい者」に書き替えられていた

Once upon a time 1969

 2008年に後藤さんからメールが来た。
 ある新聞社から依頼されて原稿を送ったら、「障害者と書いたのにすべて障がい者」と書き換えられていた。


   自分が「障がい者」と書いたように読まれることへの怒り

 自分が書いたと新聞に掲載されているのに、自分が「障がい者」と書いたように読まれる。

 なによりも、表現の自由を大切にする新聞社が、勝手に文章表現を変えていいのか。
 近頃は「障がい者」とひらがなにしているが、ひらがなにしたから変わるものでもないし、自分は障害者だと思っているし、そう思うから障害者と書いたのにとのメールだった。


 私も、その頃やたらカタカナ文字が横行したり、一斉に何の説明もなく「障がい者」と書き替えられていることに関して、疑問を抱いていたのでかなりの意見交換をした。
 以下長くなるが、掲載したい。

心の中を駆け巡った
   「健康教育概論 - 生きる権利の認識 -」

 後藤さんからのメールを読んだ時に、私が健康とは、ということで学んでいる時にT養護教諭からすすめられた「健康教育概論 - 生きる権利の認識 - 野尻與市著 医療図書出版(1974年8月)」の文章が心の中を駆け巡っていた。

  T養護教諭は、保健室で健康教育を取り組んでいるが、「 健康教育概論 - 生きる権利の認識 - 野尻與市著 」が一番のテキストになると言いきっていた。
 それを聞いて、その本を何度も読んだが、後藤さんのメールをもらった時思い浮かんだ部分だけ紹介する。


  健康たりえない人にとって「健康」とは何か
    - 憲法25条1項の問題 一

 現在の日本において、高令者・障害者の数が増えているのは周知のとおりである。
 ここで問題なのは,この人たちを「健康」といえるかということである。


 「老人には老人なりの健康がある」

と言われてきた。

 老人にみる生理学的解剖学的変化はまさに退行性のものであって、決して正しい意味での健康な状態ではない、と私は信じている。
 また、障害者については、

 「不具者すなわち障害のある子どもをすべて非健康者として扱うことは大きな差別であり、まちがいです。すぺての子どもの人権を尊重する立場から考えれば、わかることです」

という発言がある。

 これは心情としてはわかるが、健康をそれこそ人権の立場から考えるときは、決して正しくはないのである。
 なぜなら、もしこの人たちの状態を健康と認めるとすると,憲法25条1項にうたわれている「健康」の中身が大きく後退し、その人たちは「健康」であるということで巧みに処理される可能性があるからである。


自分たちは「健康」ではないというはっきりした自覚に立って
 だから健康を可能な限り自分のものにする権利がある と

 私はこの25条1項の「健康」というのは、

「健康の状態に如何にかかわらず」

と読むべきであり、更に、

「健康を障害している人はその障害を克服する権利を有する」

を付加すべきものと思っている。

 この私の見解によれば、いま述べたように、この人たちを健康とみなすことには賛成できないのである。
 彼らの権利としての健康を取り戻したいという当然の要求は、自分を「健康」であると認める限り,筋の通らないものになるではないか。

 自分たちは「健康」ではないというはっきりした自覚に立って、

「だから健康を可能な限り自分のものにする権利があるのだ」

と、声高く叫ばねばいけないのではあるまいか。


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2012年3月12日月曜日

後藤勝美さん 知ろうとも考えようともしない姿勢が最大のバリアと主張


Once upon a time 1969

 後藤さんとは、画のことだけではなく、障害者の多くの問題を話した。
 例えば、N氏の市会議員が病気・手術で声が出せないということで代読・文章質問しようとしたところそれが断られたという問題を我がこととして取り組んだことが刻々と報告されてきた。

   市民から選ばれた議員が声が出ないとして質問させない

 障害者に優しい街づくり、などときれい事を言うが、市民から選ばれた議員が声が出ないとして質問させないのは、議員を否定するものではないのか、障害者を否定することでもある、と後藤さんは次から次へとメールの報告が来た。

 それらの数あるうちの二つをこれから書いておきたい。

  せめて字幕をつけて欲しいのねがいもむなしく 

 某放送局で毎週、ろうあ者が見る番組がある。日本ろうあ連盟の永く険しい取り組みの中でやっと実現した聴覚障害者のための短い番組である。
 それが終わったあとすぐ、○○美術館という放送がはじまる。


 この番組は、画家としても、芸術を志す後藤さんとしても是非ともみたい番組である。
 そうでなくても、聴覚障害者のための番組が終わり、チャンネルをそのままにしておくと自然と○○美術館が眼に飛び込んでくる。
 でも、この番組は手話通訳もなければ字幕もない。
 後藤さんとしては、画家になる気持ちを堪えていた時から、せめて字幕をつけて欲しいというねがいが強かった。

    喜びもつかの間

 だから25~30年も前から某放送局に○○美術館に何度も何度も字幕を!との要求を全日本ろうあ連盟としても申し入れた。

 番組編成で、新○○美術館という名称が変わる。
 これできっと、字幕がつくという喜びでテレビを見た。

 何ら変わっていなかった。

 ろう者なんぜ見てくれんでもええ!と言う態度で、怒りは消えなかったという。
 
  予算がない 前日録画したものを翌日放映するから無理

 全日本ろうあ連盟の役を降りてもその気持ちは変わらず、いやさらに激しくなった。
 以前、画家でろうあ者だった人の特集を○○美術館が放送した時に、これは字幕がつくだろうと楽しみにしていた。
 だが、付かずに録画して手話通訳してもらったことがある、ことを思いだして視聴者相談センターにFAXした。


 ところが、
1,予算がない。
2,○○美術館は特集番組を作ることが多く、前日録画したものを翌日放映することも多く字幕なんてとても無理。
との返事が来た。

 どうしらいい、どう思う、との問い合わせのメールがやっぎばやに来た。
 その間に、後藤さんは、視聴者相談センターへ一応再質問及び逆質問のファクスを送信した。(B5の用箋三枚)
[○○まるの○○美術館はぼくもファンでした松本竣介の特集のときはビデオにとって友人に聞いてもらって音声を文字に変えてもらった苦労した。
 ○○美術館で字幕を要望しているのに受けとめてもらえないもどかしさと怒りを話しました。そのあと貴放送局関係者からはこっそり教えてくれました。苦情メールやファクスは誰も目を通さないこと、字幕を入力する人がいないことなど。後藤さん、頑張ってください。]
と。


           知ろうとも考えようともしない姿勢が最大のバリア

 その後後藤さんから、
やはり窓口処理で終わっていて、直接責任者には「声」は届いてないんだ。そが現実的問題。
 ようするに放送局のよく使う手の「言い訳」の一つに、見る人が限られている、見る人が少ない、云々レベルでなく(又は次元でもない)ろう者には「見る」以前の問題として「その番組内容が知ること」にバリアがたちはだかっていることを気がついていない。


 いや、知ろうとも考えようともしない姿勢が最大のバリア。
 逆に言えば他のテレビ番組に字幕化がどんどん進んで(?)いるのがなぜなのか?なぜか、○○美術館だけ後廻しの感じだ。加えて回答には「向こう10年かけて~実現を」と言う。一体やる気が本当にあるのか!?と聞きたい。
という返事があった。

   文字放送は可能  上層部に要望を

 この頃、私はDVD手話通訳者のための健康快復体操を作るため、大阪に頻繁に行って元テレビ局関係者との打ち合わせをさいていたので、

「○○美術館に字幕を入れることはそんなに難しいことではなくなっている。費用もかからない。放送には必ず、アナウンサー用の台本を作るので、それをそのまま文字として画面に出してもいいはず。前日撮影しても、放送日に撮影しても文字放送は可能」

と後藤さんに連絡し、視聴者相談センター宛てではなく、もっと違う上層部に要望するように連絡した。

 後藤さんはすぐ行動した。

 そのことを忘れていて、ふっと思いだしてテレビをつけたら新○○美術館は、文字放送していた。
 後藤さん、やったじゃないか、と言いいたかったが、後藤さんはこの世にいななっていた。

 放送局ではすぐ実現できるのに、後藤さんが言っても聞かず、放送局の上層部から言われたら実現する狡さが、哀しくて、残念で、星のない夜空を見上げた日のことが忘れられない。





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2012年3月9日金曜日

後藤勝美さんと「負の遺産展」


Once upon a time 1969

 すでに、「名も知られていないが  非凡な芸術作品を世に」のところで、後藤さんのメールのやりとりで、次のような事を書いた。

 ろうあ協会の中で共感する人がなく、落胆している後藤さんに、ひとつの提案をした。後藤さんの画が売れて、お金が貯まったら一緒にろうあ者の「芸術作品集」を作ろう。出版しよう。もう亡くなったろうあ者も多くいるが、その人たちへの尊敬の念も込めて、世に問おうではないか、と。後藤さんは、大いに歓迎してくれて、それから彼の書いた画がどれくらい、いくらで売れたか、のメールが次から次へと送られてきた。
 第1集が作れるかも、と思っていた時、後藤さんはとんでもない、ことを言い出した。


          非常な不安感に包まれたが

 とんでもない、ことを言い出した、と書いたが、最初後藤さんから送られてきたメールを読んだ時の第一印象で今は深く反省している。

 メールの内容は、「平和行脚をしたい。」という事であった。
 じぶんの画で、全国の人々に平和の大切さを訴えたい。それが、平和行脚の内容だった。

 私は、後藤さんの趣旨には大いに賛成だが、正直に言って画が売れなくなって、ろうあ者の「芸術作品集」が作れなくなる後藤さんも私も強くねがったろうあ者の「芸術作品集」は、永遠にこの世に広めることは出来なくなることも心配だ、と率直にメールを送った。

 しばらくして、それでも「平和行脚をしたい。」という返事とともに、売れる絵と売れない絵の二本立てで……と結局、少なくない芸術家がそうせざるを得ない道を後藤さんは、選択してきた。
 それでも、執ように「後藤さんのことだから、売れない絵に傾注する。ああ、ろうあ者の芸術作品集は断念か」「でも、絶対、平和行脚の画の中に長崎を入れて欲しい。その時は、一緒に行こう。」と返事した。

 この頃、後藤さんが生命の終わりのカウントダウンを計算して、書きたかった画を描き続けたい、という気持ちを感じて非常な不安感に包まれた。

          アイシュビッツをどう描くのか

 
 アイシュビッツに行く。
 そのメールが送られてきたのは、数日してからだった。
 私は、あまり知られていない、アイシュビッツのこと。第二次世界大戦中、アメリカが、日系アメリカ人を強制的に収容所に入れたこと。その日系アメリカ人から志願兵がでて、最前線に赴いたこと。日系アメリカ兵がユダヤ人強制収容所を「解放」した時のこと。などなど知るうることをメールした。
 同時に、後藤さんが、アイシュビッツをどう描くのか、も注視した。


  「負の遺産展」と名付けての「平和の全国行脚」

 しばらくして「負の遺産展」と名付けて、「平和の全国行脚をしたい」という返事が来た。
 ユネスコにちなんだ名称であることもよく解ったが、絶対、日本も描いて欲しいところがあると強調した。


 ポーランドから帰国して、すぐ、後藤さんは、「負の遺産展の全国行脚」をはじめた。各地で、展示されるから見に来て欲しい、と何度も連絡が来た。
 やっと、N県で全国の手話通訳者が集う場所で、「負の遺産展」も開かれたので、見に行くことが出来た。
   わずかに残った頭の毛をなでて「こんなもの」と

 会うそうそう、「ちょっと一服してくるから受付頼むわ」と後藤さんは、すたこらとどこかへ行ってしまった。

  昼休み時間。
 手話通訳者が会場から出てきたが、「負の遺産展」を見る人もほとんどいなく、通りすぎるだけだった。
 私は、飛騨高山で、後藤さんの画の前で佇み、涙した人とのあまりにも大きな違いに驚き、手話通訳者の考えや感性はどうなっているのか、と心配になった。

 戻ってきた、後藤さんにそのことを言うとニヤッと笑い、わずかに残った頭の毛をなでて「こんなもの」と言った。

 俺が覚悟して平和行脚をしているのを解っているだろう、という意味はすぐわかった。

  あまりにも 残酷すぎるから

 やっと、後藤さんのアイシュビッツの画をみることが出来て、一通りみて、質問した。

「なぜ、ガス室だけが色鮮やかなの」
っと、すると後藤さんからは、
「あまりにも、残酷すぎるから逆に色づけしたのだ」
という返事が返ってきた。




 たしかに、そうだった。


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2012年3月7日水曜日

後藤勝美さんとI LOVE コミニケーション 中学生・高校生のための手話テキスト


Once upon a time 1969

  前述したアイラブパンフ運動( 正式には、 IアイLOVEラブコミニケーション 手話通訳制度化のためにのパンフを多くの人々に買ってもらい、添付されたハガキに手話通訳制度について賛成・反対・どちらともいえない の意見を求めるものであった。
  パンフは、130万部普及し、全国すべての人々から500万字以上の意見が寄せられた。反対はほとんどなかった。 )に寄せられた全国の人々の声。
 特に、中学生や高校生の意見をもとに 「 I LOVE コミにケーション 中学生・高校生のための手話テキスト」を作成した。
 このテキストには、手話表現についてのイラストは掲載したが、読んで考えるようにテキストを作成した。

 特に、アイラブパンフ運動の説明で各地を飛び回っていた時、N市でアイラブパンフに書かれている

「家にいるよりも、ろうあ者同士で行く喫茶店のほうが楽しい」-あるろうあ者は、こんな胸のうちを明かしてくれました。父母、兄弟姉妹の話していることがわからず
一家の楽しいだんらんにもとけこめないで、一人さびしい思いをしているろうあ者は少なくありません。」
の記述に対してろうあ者の妹をもつ姉から「この部分は誤解を受ける」「私たちは、どれだけ妹のことに対して考えているか……」と大泣きして、記述の改訂を求められてきた。
 当時、パンフ作成は、事実上3人の合議による責任で、増刷の都度訂正を行ってきた。
 そこで、N市でのろうあ者の妹をもつ姉からの提起をしたが、全日ろう連代表からは、「大半は書かれていることが事実としてある。」
とされ、受け入れられなかった。
 そのため「 I LOVE コミにケーション 中学生・高校生のための手話テキスト」で、次のような項目を入れた。



 またろう学校に通う友子のと健一の意見の「すれ違い」を、友子はろう学校の先輩を訪ねること。健一は地元手話サークルに入って未就学のろうあ者とろうあ協会の役員とのコミニケーションを知ること。

 そして、お互いの誤解をといて、話し合うところはあえて、ことばを入れずに考えたり、みんなと意見交換するようにテキストを創った。

 これらは、それまでの手話テキストとはまったく違ったものであったため、多くの批判が、後藤さんだけは、「いい、これがいい。」と言ってくれて確信が持てた。
 「いい、これがいい。」
 後藤さんの言ったことは、彼の作品を見てますます、そのことばの重みを感じるようになって行った。


後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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2012年3月5日月曜日

後藤勝美さんへ ほんのりした暖かさとゆったりした気持ちの中から、少しずつぼちぼちすすもか


Once upon a time 1969

 後藤さんから来た手紙にこのような返事を書いたことがある。(概略)

お手紙ありがとうございました。後藤さんが、集会の時のスローガンを書いておられるときから、味のある時で感心していました。
 私にとって忘れられないのは、「岐阜の手話」です。
 あの手話の絵を見たときから、手話とは何かが、心を込められて書かれていることに感動しました。

 後藤さんの顔と似てもにつかない(すいません!失礼!)あの手話イラスト。
 私は、全日ろう連があのような手話の本を出して欲しいと思いました。「わたしたの手話」は、味気ない。手話とは、あんな表現でないだろうと思います。
 まるで最近流行のコンピュータ手話みたいなものがあり、私は非常な反発を感じていました。


 重症な病気でどうしようもないとき、全日ろう連出版委員会で、「中学生、高校生向きの手話テキスト」を作成す話が出てきたとき、私は、二度と立ち上がれないだろうと感じていましたので、今までろうあ者の人々から学んだ手話の精神を「中・高生テキストに込めたい」と思うようになりました。

 漫画本、脚本、を買いあさりながら、しかもアイラブパンフ運動に寄せられた全国の人々の声
(アイラブパンフの意見集約集は、各県から寄せられて人々の年齢順ですべて掲載していました。だから、その県の意見を順番に読むと、一番若い人から一番高齢な人々の意見が順に読めるようにしていました。時代をくぐりぬけたひとびとが、どのように考えているかを分かるように整理しました。)
の中から、小学生や中学生や高校生の意見を重点的に分析に、彼らがなにを求め、手話になにを求めているのか、聞こえない人々をどのように考えているのかを考え抜きました。

 A県の中学生から「聞こえない両親の元で育ち、母を亡くしてからアイラブパンフを読んだ感想」が寄せられ、手話は命と知ったと書かれていました。
 この言葉は、中高生テキストの中に組み込ませてもらいました。





友子という聾学校の生徒。健一という高校生の聞こえる生徒。
 その二人が少しばかり諍いを起こす。

 その二人がそれを考えるために、健一は未就学のろうあ者のことを知り、友子は聞こえない先輩を訪ねる。
 このようなストリーは、私が手話を学んだなかから、いや、ろうあ者の人々から学んだ神髄を、若い人々に伝えていこうとしたからです。

 そういうことは随所にちりばめながら、話したり、考えたり、手話を学んだりとする中で、時代の若者へのメーツセージを作成したつもりでした。


 でも、サブテキストを作成するまでもなく、あの本の完成とともに奈落の底に落ち込む一方の病状になってしましました。



 こころ和む、暖かい手話を通した人間愛を手話を学ぶ中で、教えてもらいましたが、今は手話すら出来ない身体になってしまいました。

 でも、後藤さんの絵は、私のように身も心もずたずたになった人間に、暖かい、こころ休まるものを贈ってくれます。
 どの絵を見ても、私は大好きです。
 お金を貯めて、後藤さんの絵を書類だらけで雑然とした机の上に置いて、こころを休める決意をししています。



 
 「与平小屋」いいですね。行ってみたい、です。でも、絵から伝わってくるものがありますし……今はリハビリに努めます。
 本当にありがとうございました。

 後藤さんの絵は、ほんのりした暖かさとゆったりした気持ちの中から、少しずつぼちぼちすすもか、という気持ちを与えてくれます。

 ありがとうございます。

 これらのことを契機に後藤さんは、福祉分野の画を描くことになる。
 最初は、自由に書きたいと非常な抵抗あるメールが来たが、保育・医療・施設・学校などの画が描かれ、絵はがきや本に掲載されていった。

 もちろん、人物はどこにも描かれていないが、使い古された保育園のイスの画に子どもたちの生き生きした姿と思い出が詰め込まれたような印象を受けた。

 人間を描かず人間を描く

 後藤さんにつくづく感嘆した。

後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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2012年3月2日金曜日

名も知られていないが  非凡な芸術作品を世に


Once upon a time 1969

 後藤勝美さんから画集「眠りから醒めて」が贈られてから、何万というメールのやりとりをした。

 その中ですでき「眠りから醒めて   賛成しかねる ありえない デフ・アートなるもの」の項で、後藤さんが

「耳の聴こえない者(あえて言えば手話をコミュニケーション手段とする者)をろう者と言うが、これを英語にして"デフ・アート"なるものが流行って来ている。
 これについても私は賛成しかねる。
 そんなものは、ありえないと思うのだ。」


と書いていることをあきらかにした。

 ろう文化なるものはない 文化の中のろうあ者とは言える

 これらの問題では、かなり意見交換交換を行った。
 近年、何の根拠もなく、何の理由もなくさかんに「ろう文化」を振りかざす人がいる。
 そういう人ほどろうあ者の芸術活動に無頓着であり、過去、日本の文化の中でろうあ者の果たしてきたことを調べようとしない。
 このことは、「無名」とされてきたろうあ者の役割を否定するものである、という点で後藤さんと意見が一致した。


            ろうあ者の 歴史的遺産を世に

 後藤さんは、後藤さんなりに必死になって全日本ろうあ連盟などからろうあ者の文化活動でもある芸術を世に出そうと提案していた。

 衣服・彫刻・家具・陶器・絵画・楽器・精密機器などなどあらゆる分野で非凡な才能を発揮したろうあ者が数多くいる。
 その人たちは、この世に何ら知られることなく世を去って行った。

 だが、その作品は、ろうあ者としての悲痛な叫びあ上げることなく作り上げられてきた。
 この歴史的遺産を世に問い、残したい。

 眠りから醒めた、後藤さんの切なる願いだった。



 柳行李に見いだした美

 私も、全国各地を回った時、少なくない作品がろうあ者の手で作られていることを数多く知っていたから諸手を挙げて賛成した。
 

 長野県に行った時だった。
  「柳行李」(やなぎごうり)をかって作っていたろうあ者に出会った。


 柳行李は、昔は、どの家にもあったがそれをろうあ者の人たちが作ってもいたということは知らなかった。
 多湿な日本の風土の中で衣類入れにも使われていた柳行李は、現代風に言うならば有害物質を含まない、エコ製品と言ってもよいだろう。

 かって作られていた柳行李の原材料は、あそこに放置されたまま育っている「コリヤナギ」と教えてもらった時は、非常に驚いた。
 「コリヤナギ」から柳行李を作る過程は、大変なもので、昔はすべて手作業で編んでいた。

 そのためその編み方を見たら誰が編んだのかも解るという。
 

 何気なく見ていた古びた柳行李に「美」を感じた。
 それから、いくつかのろうあ者が作った柳行李を見せてもらったが、たしかに、微妙なところに大変な工夫がされている。


        ろうあ者の「芸術作品集」を作ろう

 ろうあ者のはそのような仕事しかなかった。
 だから、必死になって、ていねいに、ていねいに作り続けて、それを売って子どもたちを育ててきた、というろうあ者の顔が今でも浮かんでくる。

 「 特に昔のままのひなびた漁村、漁港が好きである。
  こういう場所は、時代の流れか、めっぽう少なくなった。さびしい限りだ。

 もう一つは、無人化した古い工場とか、スラム風の板張り或はトタン張りの下町などにも、あちこち旅しては捜して描く。」

と書いている後藤さんと共鳴する気持ちがあった。

 ろうあ協会の中で共感する人がなく、落胆している後藤さんに、ひとつの提案をした。

 後藤さんの画が売れて、お金が貯まったら一緒にろうあ者の「芸術作品集」を作ろう。
 出版しよう。


 もう亡くなったろうあ者も多くいるが、その人たちへの尊敬の念も込めて、世に問おうではないか、と。

           とんでもない、と思ったが

 後藤さんは、大いに歓迎してくれて、それから彼の書いた画がどれくらい、いくらで売れたか、のメールが次から次へと送られてきた。

 第1集が作れるかも、と思っていた時、後藤さんはとんでもない、ことを言い出した。


後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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