教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
A先生たちは、小学校や中学校の先生が共に学習する機会をつくると共に他府県に出向き交流・学習を積む重ねていく。
また地域の夏のとりくみとして「祭り」を復興させ定着させていく。
否定的な子どもの見方の中から
「肯定的な見方」を見いだす
そういう中で、「今の子は……」という子どもに対する否定的見方を家庭、地域、社会の状況の中で考え合う取り組みもすすめる。
ようは、否定的な子どもの見方の中から「肯定的な見方」を見いだす取り組みを進めていったのである。
京都北部の冬は雪深い。
その雪をかき分けて体育館一杯になる人々が集まり、
学校・家庭・地域がひとつのかたまりになって 地域ぐるみの子育ての道を歩きはじめましょう
ということが確認されていく。
これらの取り組みは、町の教育長をも唸らせた。
定年まであと1年で無理強いさせた異動の主は今
ここで解説したのは、ほんの一部に過ぎないが雪深い町で体育館一杯になる町民が集まり子どもたちのことを考え、子どもたちのいい面を伸ばそう、自分たちの若い頃と違って地域産業が崩壊してきている。
そのことと子どもたちの将来を重ね合わせて町民が考えはじめたことは、「殺人意外なんでもある」と言われた中学校をも徐々に変わっていくことになる。
何よりも、町民の子どもたちに対する温かい眼差しは、反発する子どもたちを暖かくくるんでいった。
A先生。定年まであと1年。
「荒れた中学校」が徐々に変わってきているにもかかわらず、突然の異動。
今度は、小学校へ。
そして1年間で退職。
でもA先生はひるむことはなかった。
亡くなるまで、幼児教育をはじめさまざまな地域の取り組みに積極的に参加し続ける。
もちろん障害児教育の取り組みは、亡くなられるまでその手を休ませることはなかった。
障害児教育と普通教育の基礎は同じ
解説が非常に長くなってしまったが、学校が荒れて、いじめ暴力が横行するとき、直接的にそれに立ち向かいつつも地域の住民と共に教育を考える輪を広めていくことは、「遠回り」であるが結果的に問題を解決していくことになるのだと言うことをA先生は身を挺して後世に知らせたように思えてならない。
今日、学校における暴力やいじめ、体罰の名の下の暴力などなどがマスコミで採り上げられ、いくつかのマニュアルが出されている。
だが、これらのマニュアルで本当に学校における暴力やいじめ、体罰の名の下の暴力などなどがなくすことが出来ると言えるだろうか。
A先生が取り組んだ「荒れた中学校」から希望の持てる中学校、いそいそと喜んで行ける中学校づくりは、すべて否定されてしまっている。
いや、否定した人々が、教育委員会に抜擢され「いじめ・暴力をなくすマニュアル」を作成しているのである。
ここには、子どもたちを思う精(たましい)がない。
教育は口先だけで出来るものではない。
また、障害児教育と普通教育の基礎は同じであり、それは相互交流できるものなのだ。
その上に、独自的課題とより専門性が必要なのだとA先生たち京都の障害児教育の先駆者は、物静かに語っている。
それぞれの分野を他と切り離し、細分化の上に細分化して、特定の子どもたちだけの教育を論じている人々に、A先生たちは、
すべての子どもにひとしく教育を
と語っているように思えてならない。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
A先生は、N町教育研究会の会長になった。
この研究会は、町の幼稚園・保育園・小学校・中学校の教職員が会員であった。
C中学校の荒廃をなくすことは、この研究会に参加する教職員との豊かな一貫性を形成することで欠かすことの出来ないものであると考えていた。
教職員が自主的に参加出来る研究会とする
同時にこの研究会を実りあるものにすることは、N町の子どもたちの豊かな形成を創るものであると考えた。
そのためA先生は、それまで各学校が費用を分担するなどの官製の研究会を取りやめ、各教職員が自主的に参加出来る研究会とするため規約などや従来の慣習をすべて改めることを提案し、全員の了承を得ることが出来た。
このことは、関係者しか知らないけれど今の京都では、○○研究会がたくさんある。
その研究会の費用は、ほとんどがわずかな学校負担でまかなわれていて、研究会を一回開くためにも研究会の会長(絶対校長でないといけない)の了承と教育委員会の承認を得なければならない。また、その時講師や研究内容はすべてチエックされ、時には却下される。
さらに研究会に参加するためには、各学校の管理職の承認と詳細な事後報告が必要とされ、事後報告がいちいちチエックされることも少なくない。
これらの研究会の現実を根底から改められたのである。
教職員が自由に参加出来、自由に発言される場が保障されたのである。
幼児期・学童期・思春期の発達を考える連続した講座
N町の研究会では、まず発達講座が開かれた。
保育所・幼稚園・小学校・中学校の全教職員対象に科学的な発達を学ぶために、幼児期・学童期・思春期の発達を考える連続した講座が開かれた。
このことは、教職員が子どもの発達の筋道を系統的に学び、自分たちの考えを再学習して、地域や父母に話しかけ正しい子供観や発達観を広めて行くことになった。
さらに、保育所・幼稚園・小学校・中学校と父母、地域を結ぶ教育を考える力を形成することにもなった。そして、各保育所・幼稚園・小学校・中学校でも月二回の研究会が開かれるようになっていく。
学ぼう。学んだことを広めよう。そしてふたたび学びなおそう、という取り組みがはじまったのである。
保育所・幼稚園・小学校・中学校の
「壁」を取り除いた長期間論議
そして、子どもたちの生活実態やその意識調査が取り組まれた。
調査のための作成書に長期間論議をつくし、子どもたちの実態を科学的・総合的にとらえることが考えられた。
この調査のための作成書に長期間論議をつくしたことが、それまであった保育所・幼稚園・小学校・中学校の「壁」を取り除き、それぞれの違いと一致することが確認されていった。
子どもたちの生活実態やその意識調査は、研究会やPTA、「子育て集会」などで報告され、町民に結果報告すると同時に町民ぐるみで子どもたちの事を考える渦が形成されていった。
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
日本のほとんどの人々は、学校教育を受けたことがある。
その場合、自分が受けた教育から考えたり、自分が教えた教育から考えたりする傾向が強い。
ようは、一人称なのである。
一人称で語られないのが 教育
だが、学校での教育は、一人称では語れない。
いじめや体罰問題が浮上するといつも一人称で語られている。
著名な教育学者までが。そのため著名な教育学者の抽象論では、問題をどうなくし、どう解決するかが「見えて」来ない。
そのため教育現場の現状を熟知しない「新しい教育評論家」が出てきて、単純な方法論で説明する。
その方が解りやすいと共感が生まれる。
この日本の現状からA先生の「殺人以外は何でもある中学校」という取り組みを見て欲しくはない。
基礎集団づくりと学校再生の展望
このブログで後々、障害児教育と普通教育の共通基盤とそれぞれの専門性を述べるが、学校での教育(学校だけではないが)は、集団が学ぶ場として捉え、その集団構成に血流を流す取り組みの具体的展開がA先生たちのの教育実践であったと考えている。
聞き慣れない用語もあるが、あえてA先生たちが使っていた言葉で説明して行きたい。
A先生たちは、教職員集団づくりの基本は、教職員それぞれの活動の基礎となる基礎集団づくりでと考えた。
そして、「学年会」を基礎集団と確認した。
教育労働の特質を整理して「教育労働は集団労働である」、と確認してきたが、その認識を育て合いながら集団労働としての教育活動を展開する上で必要な基礎集団づくりを進めたのである。
実践の悩みや喜びを語り合い、疑問を出し合い
その基礎集団では日常実践の悩みや喜びを語り合い、疑問を出し合い学習を深め、教育論議をし、お互いに実践的統一を計りつつ支え合い、育ち合う関係を発展させていく場でもあるとした。
「荒廃」の唯中であった事もあり、学年会は機能していなかったからである。
学年会の再生と定例化の提案に一部から「学年セクトをつくり出すから…」と反対意見もあったが、
「学年セクトが出るほど学年でまとまり、学年団として学年に責任をもちながら、学年で必要な創造的な独自活動がしてほしい」
そんな思いと論議の中で毎週月曜日(クラブ活動の無い日)を学年会の日として定例化したのである。
学年会では、各学級の状況、各教科指導の状況等、子どもの実態を中心にしつつ、実態に即した独自課題の設定や活動が展開されるようになっていった。
クラスが荒れるのは
担任が悪い 教科担任が悪い のか
「クラスが荒れるのは担任が悪い」
「授業が成立しないのは教科担任が悪い」
と担任の責任とされる見方の中で悩み、元気を失っていた教師を学年として包み込み、学年会として 援助し合いながら取り組みを進める中で相互信頼関係を発展させ、学年教師集団のまとまりの発展によって「荒廃」克服への新たな実践が創り出され「荒廃」克服への展望がつくられたのである。
どんな状況下にあっても基礎集団は破壊されてはならないし、基礎集団の発達が全教職員集団の発達を大きく支えるといえる。
教職員が「集団づくりの主体者である」との認識の深まり
教職員集団づくりは、四月中旬補導委員会の毎日開催、五月段階で学年会の定例化、八月段階で運営委員会の再編強化の提案、更に研究部の再編強化、生指部の再編と活動の強化等、運営体制全体に及ぶ取り組みであった。
しかし、組織づくりが即、民主的教職員集団づくりになるのではない。
子ども観、学校観、教育観等の論議が共に進められ、発展の中で組織づくりがなされなければならないことは言うまでもあるまい。
さらに、個々の教職員が「集団づくりの主体者である」との認識の深まりがなければ、組織づくりと学校づくりと民主的教職員集団づくりの統一はつくり出せない。
それらは職員会議での教育論議を抜きにしては実現しない。
学校の再生を課題として
取り組む中で口角泡をとばす論議
職員会議は教職員の実践上の意志統一を計るのみでなく、学校運営参加への重要な場である。
そこでの教育論議の質と量が教職員の認識を育て、変革し、統一し、確信を生み出すのである。
教育と学校の再生を課題として取り組む中で口角泡をとばす論議が交わされた。
一つの行事の取り組みについても、子どもの現状のとらえ方、発達可能性のとらえ方、指導の展望をどう切り拓くか等々、であった。
C中学校再生への歩みは激しい論議の保障の中で
「発達の主体は子どもである」
「子どもは無限の発達可能性をもっている。」
との子ども観の共通認識の確立にはじまったといえる。
この事を抜きにして荒廃克服の課題も見えず展望も開けない、そんな思いであった。
この子ども観の集団的認識によって「荒廃を克服するのは子ども自身である。」ととらえ、
「自立と自主と自治の力を子どもひとりひとりと集団の中に育てる。」
との方針の確立によって発達保障への実践が生み出されていったのである。
教職員は度重なる論議と、試行的実践の中で自らを変革し、「ピンチはチャンス」の実践的楽天性を生み出し、教職員集団の団結によって、正常化→再生→建設→新しい建設への歩みを確かなものとしたといえよう。 (以下略)
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
A先生たちは、すでに述べてきた状況の中で
すべての子どもにひとしく教育を
を目標に養護学校づくりをすすめ、与謝の海養護学校を設立して行く。
このことの経過は、多くの本で紹介されているが、その長い前史は書かれていないのであえて紹介した。
A先生は与謝の海養護学校を設立した一人として、その後、教頭・校長となっていくがその姿勢は、他の京都の府立学校の校長と抜きんでた違いがあった。
そのため嫌がらせ異動で中学校に行くように京都府教育委員会から命じられた以降の教育実践を紹介する以前にA先生が定年4年目に語った校長論を掲載しておきたい。
校長だけで出来ることはない
編集部から「校長、その苦労と働きがい」のテーマをいただいた。
苦労がなかったといえば嘘となろうが、正直言って「あんな苦労した、こんな苦労した」といえる思いは残っていない。
「いそがしいと言うことはそれだけ仕事している証だ。」とか「どうしてもやらなあかんのやったら、楽しみながら仕事することや」なんて言ってきたからであろうか、たしかに次から次と色々と取り組んだとは思う。
しかし、どちらにしても「校長」と言う立場で一人で出来た事ではない。
それは校長だから出来ること、校長にも出来ること、校長だから出来ないこと、がある。
しかし、校長だけで出来ることはないのではないか、それは、教育の仕事は、校長を含む教職員の集団労働によって成立すると考えてきたからである。
きびしい仕事を楽しみながら取り組み
共に成功の喜びを味わう事が出来る
ここに報告した取り組みも、その時々の状況の中で、協議ー合意ー実践の流れを大切にしながら、きびしい仕事を楽しみながら取り組み共に成果を確かめ、成功の喜びを共に味わう事が出来た経験の報告である。
働きがいもこれらの報告の中にあると思っている。
今日、きびしい諸状況があるが、きびしさ故に見えてくる真実や原理、原則を大切にし、きびしさを越える実践、きびしさ故に創り出すことの出来る新しい連帯や実践の創出が求められる。
子どもの発達を保障する以外の何ものにも屈せず
教育の論理をもとに、子どもの発達を保障する以外の何ものにも屈せず、どんなまわり道もいとわぬ粘り強さと、真理・真実以外何ものをもおそれぬ大胆さ、そんなしたたかさをもった、実践・研究・運動の新たなる創造が、今、求められている。
とA先生は、まとめの部分で文章を終えている。
そして、編集部から与えられたテーマ
「校長、その苦労と働きがい」
を
「教職員と共に歩んだ学校づくり地域づくり」
とテーマを変えている。
このA先生の姿勢を貫いた管理職は少ない。
教職員組合や障害児教育を熱く語っていた教職員が、管理職になったとたん教育委員会の言いなりになり、「教職員と共に歩んだ学校づくり地域づくり」を全面的に否定し、教職員や地域の人々に分断を持ち込んできた。
そしてA先生をはじめ京都の障害児教育をすすめてきた人々の個人情報を歪めて教育委員会に報告するなど数知れないほどの信じがたい出来事が現在まで進行してきている。
それを教育委員会は歓迎し、それを基に教職員の異動や待遇を変更してきた。
どのような教育実践上の成果が得られているかは別にして。
A先生の「嫌がらせ異動」「退職を迫る異動」に
対する実践的回答
文章が長くなったがお許しいただいて、教師になって、その全生涯のほとんど障害児教育につぎ込んできたA夫先生を普通学校に転勤させれば、A夫先生は何らの教育的取り組みが出来ないで自ら退職をするだろうという京都府教育委員会の思惑があった。
これに対してA先生は、次のような普通校での実践と実積を次々と実現して、その事実を京都府教育委員会へ「回答」している。
以下そのことの一部を概略的に少し説明を加えて紹介したい。
なぜなら、障害児教育と普通教育は別立てでないことをA先生は身を挺して証明してきたからである。
殺人以外何でもあります、と言われた
中学校校長になって
中学校教育の経験がまったくないA先生は、「荒廃」状況真っただ中のC中学校に着任した。
それまでは、C中学校の「荒廃」状況は外にいて聞くのみであった、とのこと。
そのためA先生は、先ず着任し、実態をしっかつ見る事からはじめよう、そしてその上で、何をすべきか、何が出来るかを考えよう、と腹をきめての着任という。
C中学校に着任してまず、生活指導部長が、「殺人以外何でもあります。」と言うように毎日の様に問題がおこり生指部長も担任もその対応に追われていた。
そんな状況をみる中で、A先生は、学校づくりの第一歩は、教職員集団づくりである、と……考える。
それは、教職員集団の集団的力量の質(発展)が、教育活動の質(発展)を決める(規定する)と考えたからである。
与謝の海養護学校づくりの中で
「学校は、憲法・教育基本法の理念に基づき、子どもの発達要求、父母の教育要求、地域の教育要求、教職員のしごとの要求、行政の要求(民主的)を統一的に実現する場である」
と整理していた。
だから、学校をつくるためには上から言われたことを素直に聞くだけであったり、自らすすんで考えない教職員ではなく、どうしても自覚的民主的な教職員集団の形成は欠かせない、と考えた。
全教職員が学校運営に主体的に参加し 個々の教職員の持ち味や創意を生かす。
そのためには、民主的な教職員集団の形成の上で必要な組織の民主的整備と民主的運営と習熟が必要である。
すなわち、全教職員が学校運営に主体的に参加し、教育活動はもとより各々の任務を果たし合い、個々の教職員の持ち味や創意を生かしつつ、全体としてのまとまりとしての集団的力量の発揮が出来る条件をどう創るかということであった。
( つづく )
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
( 解説 )
1957年から1958年にかけて、教育委員は選挙で撰ばれるという教育委員公選制だった。
それが、行政の長が任命するという教育委員任命制度に変えられた。
そのもとで,教員にたいする勤務評定が強行された。
生徒たちの たとえようもない哀しみと屈辱
さらに、1961 年から1964 年まで4年間全国学力テストが実施された。
そのため都道府県の少なくない地域では、学力テストの対象生徒を特殊学級を除いたり、各クラスの「できの悪い生徒」とされる子どもたちは、先生から学力テストの日には学校に来なくていい、と言われて学校を休まされた。
また、逆に特殊学級が急増して、成績のいい生徒が集められ学力テストで高得点を得るために「特別授業」が行われるようになったりした。
都道府県が、市町村が、学校が「学力日本一」「高成績」のために奔走した中で授業についていけ行けない生徒や障害生徒は、たとえようもない哀しみと屈辱を与えられた。
教育による差別と選別。
A先生が、勤務評定反対で言い続けていたことが地域の人々に具体的あからさまに突きつけられた。
うちの子は、学校にも行けないじゃないですか
この頃にはすでにA先生には、固い固い決意が形成されていた。
勤務評定反対の時に、地域のあらゆる人々と話し合った。
その時、
「先生の言われることはよく解りますが、うちの子は、学校にも行けないじゃないですか。」
と就学猶予免除で学校に行けない子どものお母さんの切実な言葉だった。
「すべての子どもたちにひとしく教育を保障しなけばならない。」
「特別学級」の子どもたちだけを考えていてはいけない。
A先生は、地域の特別学級の子どもたちや保護者や学校に行けていない保護者に呼びかけて、遠足や運動会や学習会をはじめてみんなが一緒になって
すべての子どもたちがひとしく学べる
ことを模索しつつ、その展望を切り拓いていく。
想像できない努力の中で産まれた喜び
それは、今日言われるような「特別ニーズ」の取り組みであったかも知れないが、「特別ニーズ」を言う人々が思うような「軽々な取り組み」であったとは思えない。
絶望と生死。
血の涙と血の汗。
岩に身をぶつけて岩を砕く行動。
そのようにして、少しずつ、すこしずつ道を切り拓いていったと言うほうが適切かも知れない。
いやもっと、想像を超えたものがあっただろう。
その中から喜びが産まれてきた。
教育の方針や方法を
決して多数決で決めたり 押しつけない
同時にA先生の胸に去来していたことは、
「教職員の中で、教育の方針や方法を決して多数決で決めたり、押しつけてはならない。時間をかけて充分な話し合いをつくして合意形成するが、それでも合意が成立しなかったとしてもいい。話合ったことは、必ず教育に生かされる」
と言うことであった。
このことは、勤評をめぐるM小学校の教職員の話し合いの中で教訓化されたことであった。
このA先生の信条は、つい最近解ったことであった。
( つづく )