2012年8月31日金曜日

今度は、自由があるが仲間はなし 哀しく 逃げて

 
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 おさえられてはいたけど、仲間がいた。
 自分と同じ障害の仲間が。
 天は我に二物を与えず。
 これホントですネ。

 中学校では、自由がなかったが仲間がいた。
 今度は、自由があるが仲間はなし。
 でも、1人の方が楽だった。

    こっけいでなんだか哀しくも思え

 とにかく自由なんです。
 誰も私が耳が不自由なんてこと知らない。
 誰もかもがみんな当り前の顔をしている。
 その中に、耳の聞こえない異端児がいる。
 なんだか、こっけいでなんだか哀しくも思えた。
 しかし…毎日が緊張の連続だった。
 やはり耳が聞こえないって、ホンマに不便だなあ。
 私、耳、聞こえんのだなあ。
 はっきり思い知らされた。
 
  なぐさめる者もなし。
 わかってくれる者もなし。

 一番つらく恐かった。
 ビクビクしたり、オドオドしたりするようになった。

  
                         何を恐がってるの なんで

 わかってる。
 耳が聞こえない、それだけなのに。
 もっとしっかりしなさいよ。
 身体が思うように動かない。
 なんで。何を恐がってるの。


 私、耳、聞こえへんって言ったらおしまいでしょ。
 なんて言えないの。
 大丈夫。
 誰も気づいてないから。
 落ちつきなさいよ。
 自分で言い聞かせるしかなかった。


                  全てがイヤだった

 いや、それよりも…第一に、暗い学校がイヤだった。

 

  暗い教室で勉強するのがイヤだった。
 全てがイヤだった。

 なんで、暗いところで明かりをつけて勉せなあかんの。
 なぜ暗い道を自転車でこがなあかんの。

 山城へ行って勉強するのがバカらしくなった。
 友達もいない。
 ましてや、耳も聞こえん。
 バカらし。


     なんでもかんでも
       耳のことを書いた

 自分がなさけない。
 入学式の時に感じた不安はこのことだったのか…


 それから山城をよくサボルようになった。
 私は逃げていた。
 今、思うと、なんでもないことでくよくよ考えていたな。


 考えすぎだったな、まあ、友達も同じようなもんだったって。

 慣れてなかったからかもね。

 初めて授業を受けるときプロフィールみたいなものを書けって紙を各教科の先生から渡された。
 必ず、私は難聴のコトを書いた。

 耳の聞こえない者がいるってことを少しでも頭の中に入れてくれるために。
 なんでもかんでも、耳のことを書いた。

 現国のプリントでも、感想を書いてって言われても、最後のすみに、耳、聞こえませんので……、って書きおきしたりした。

 とにかく、いるってことを頭の中に入れてほしかった。
 方法はそれしか思いつかなかった。
 アホだネー一。
 先生もいい人で、よくしてくれました。

 やはり、耳が聞こえないっていう問題は、つきまとってくる。
 いろいろ考えさせられる。

 でも、そんなに、中学校の時みたいに、いつもいつもってことなかった。

 

 ある日、フトていう具合。

    みんなが
 誰もかもが
 同じ生活だった
        とは言えない

 普通の人とちがった4年間だったか?
 そうかも知れない。


 知れないが、健聴者も、みんなが誰もかもが同じ生活だったとは言えない。

 やはり、人それぞれ。

 十人十色の生活だったと思う。
 

 ただ、私の場合、耳が聞こえない不便だった時もあったなという生活だった。
 

 そうかも知れません。
                 (つづく)


                                       Esperanza
 

2012年8月30日木曜日

今までおさえてきたものが、一挙に爆発したような開放感


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


           あらゆる先生あらゆる友達に感謝をこめて

 突然、先生に作文を書いてくれと言われた。
 聴覚障害の山城生活4年間を書いてくれと。


 耳が聞こえないので、普通の人とちょっとちがった4年間だったろうか、と先生は思ってるのだろうか。
 昔、ここにいた聴覚障害の先輩たちにも書いてくれって言ったのだろうか。
 そして、その先輩たちも書いたのだろうか。

 書いた作文を先生はどうするのだろう。
 コピーして、みんなに配る。
 又、今後の聴覚の研究に使うのかも……。
 参考として……。

 まあ、くだらないことだが、私はイロイロイロ…と考えた。

 確かに書くコト、ひき受けたケド、イヤ前言撤回!やっぱり書かんとくわ。
 自分の人生やろ。
   関係ないじゃん。
 卒業できたからそれでいいやないの、と実は言おうと思ったが……、OKを言ったとたん目をきらきらさせて

「ホントか、そうか、書いてくれるのか、」

って先生に言われたので……
何も言えなくなった。


                 ふと私は思いだした難聴学級のこと

 初めは書く気なかった。
 口先だけってコト。
 まあ、紙だけもらっといて、あとは知らん顔してよと思ってた。


 ふと私は思いだした。O幼稚園のこと。
 D小学校・N中学校のこと。

 そして、初めて山城に入った時のこと。

 なんのための山城だったのか。
 ただ高校卒の学歴をもらうために通ってきただけのものだったのか……。

 入学式は、空が暗くなる頃から始まった。

 昼間とちがうせいか、なんだか、みんな生気がないように見えた。
 帰り道がひどく暗くさびし気だったのを今でも覚えている。
 まさか、4年間続けられるとは夢にも思っていなかった。

 1学年で耳の聞こえない人は私1人だった……?
 中学校までは、耳の聞こえない者同士が集まってやってきたので、お互いわかり合っていたので、なぐさめ合い、時には励まし合ってきたが、これからは、1人。


 どっちかっていうと、不安ではあったが気が楽だった。

        この時が来るのを 楽しみに待っていたような気が

 この時が来るのを、私は楽しみに待っていたような気がした。
 

  まるで、開放感。

 今までおさえてきたものが、一挙に爆発したような気持ちがした。

 やっと自由がつかめたっていう感じ……
  なぜ……。

 今まで難聴教室という特別の組織の部屋に耳の聞こえない者同士がまとめられ、閉じこめられた?!
 つまり、おさえつけられていた。

 「え一っそんなことないですよ。」

って先生言うかも知れない。
 でも、そう感じてたの。
 他の人とちがった扱い。
 人はみな特別な扱いと言うの。
 確かに耳は悪いですよ。
 ゆっくり言わんとわからん時もあるよ。
 でも、そんな、毎日、毎日、耳が聞こえんのです。

 悪いんや。ゆっくり言ってもらわんとわからへん。
 なんぼ言ってもらわんとわからへんって考えなくてもいいじゃない。

     まあ、とにかく、自然に

「あ、私、耳、聞こえへんのやわ。ゆっくり言ってもらわんとなあっ」
て思いだしていたいのですよ。

 それを先生は

「あんたは耳聞こえへんの」
「えっ別に考えなくてもいい?」
「そんな、あきません」
「考えなあかんのですよ!!」
「ええあんたらは耳聞こえへんし、どういうふうに聞こえへんのか、ようわからへんけど、とにかく耳聞こえへんのや〃みんなとちがいます」
「ええ、ちがうんや」
「なんぼ言うてもあんたらわからへんし、それに口大きく開けなあかんから疲れるわ。口がひきつるやんか」
とまあ、よう言いました。

 つまり、耳が聞こえんことを、ず一と頭に入れて生活せよ。ってことなんです。
 まあ、頭には入れてますよ。
 でも別に、耳が聞こえんって考えんでもいいやんか。

 普通にしていて

「あっ耳、聞こえんな。やっぱ気イつけよ。」

ってポッて思いだしたらそれでいいやんか。

        なんでも耳だよ  だんだんめいわくになっちゃう

 あきませんって言う頭のかたい先生が多かった。

「あんたらは、耳、ワルイからああしなさい。あんた、耳が不自由やろ。そしたらあっちに行っといで。」

 なんでも耳だよ。
 第一に耳なんですわ。
 まあ、よくやってくれるのはありがたいですけどね、だんだんめいわくになっちゃうんですよ。


 ああしても大丈夫ってちゅ一のに、あかんやて……。
 これこそありがためいわくや。
 な一んて。
 


 まあ、いろいろおさえつけられまして?!

 なかなか、自分の思いが通せなかったんです。

 先生の言うことも正しかったケド、耳の聞こえない本人の言い分も通してホシかった。                 
                                                                              ( つづく )


                                                    Esperanza
 

2012年8月29日水曜日

言葉が不足しているため  ついつい暴力をふるった自分へ


 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 いろいろあったけど やっぱり好き
           努力すればよくわかるようになって
 
私は高校受験に失敗ばかりしたので、中学校の先生は心配していました。
 けれど山城高校定時制に入れたので、中学校の先生は、


「よかったね、おめでとう。」
「高校に入ったら人に負けないように努力して勉強をして下さい。」


と言われました。

 入学式で、みんなを見ると知らない人ばかり。
 自己紹介をしてもらい新しい友達ができるようになりました。

 クラス担任は、女の先生で、古典を教えてもらいました。
 授業はプリントだけで勉強したり、説明があったり、努力すればよくわかるようになっていました。
 また、H.R.もたのしく、色々なことをする中で友達をつくることができました。


 高校への通学は、毎日4時すぎに自転車に乗って登校し、授業が終わってすぐ帰っても10時すぎ。

 「早く帰りなさい」と親に言われても、友人との話はたのしく、つい遅くなってしまいました。

  自分がやってバカにされると困るという気持ちがあったけど

 夏休みにクラスの人とキャンプへ行った時友人が「M君、班長になって……」と言うのです。
 自分がやってバカにされると困るという気持ちがありましたが、自分でやろうと気持ちをかためてやってみると、みんなが私のことを認めてくれました。

 それが、多くの友人をつくることのキッカケになりました。
 
   なぐってしまった    一言いったらすむのに


 2学期になってから、体育の授業でサッカーをやりました。
 私が一生懸命走っているとK君が、私の足をわざとけってきたのです。
(私はそう思えたもので……)授業が終わって、きっとK君が私にあやまるだろうと思っていたのに、K君は私にあやまりませんでした。

 そのため、教室へ帰ってからK君をなぐってしまいました。

「なんでけったんや」

と私が一言いったらすんでいたのに、K君をなぐってしまった。

 そのため先生から厳しく注意され、反省文を書きました。
 私は、高校はきびしいなあ……と思いました。

   自分の意志を通じさせるため 知らず知らずに暴力を

 小学校から中学校まで難聴学級で学んできましたが、その時の生活は、毎日が

「たたいたり、どなったり、物をなげたり」

で意志を通じ合っていました。

 そのこともあったのか、私は、自分の言っていることが相手には聞きとれずにいることを考えない、自分の意志を通じ合うため、手をだして(暴力)しまったのです。

 2年生になって、大学生協とパン屋にアルバイトに行くようになり、楽しい思い出がたくさん出来ました。
 サンドイッチを作らせてもらったり、サラダも作ったり、クリスマスには残ったパンを家へどっさり持って帰り、近所に配って歩いたり……。


    良く知ってほしいと思う気持ちと言葉が不足している自分

 でも3年生になって、またOさんをたたいてしまう事件をつくってしまいました。

 良く知ってほしいと思う気持ちと、言葉が不足している自分。
 つい相手の言いなりになるが、手がでてしまう………
 もっと言葉を覚えて話し上手にならないと…


と強く反省しました。

    色々とあったけれど 夜勉強することがイヤでなかった

 4年生になって、歯科技工士になろうと思ったりしましたが、食品衛生専門学校入学がすんなりと決まり「ホッ」としました。

 色々とあったけれど、夜勉強することがイヤでなかったし、私はやっぱり山城高校の定時制が好きです。

                                                                                






                                        Esperanza
 

わかりやすい授業 笑い転げる授業ととも


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 山城高校定時制の「楽しい学校 わかる授業」という私たちの取り組みは、すべての山城高校定時制何らかの影響を与えた。
 聴覚障害生徒を受け入れた教育制度ではじまった山城高校の教育は、やがてすての障害のある生徒を含め(包括)た教育へと広がっていく。
 それには、わけがあるが、以降順次説明していきたい。


  その前に、山城高校定時制の聴覚障害生徒達が卒業前に「自分たちの卒業論文」として書き記したことを2,3紹介しておきたい。


 早く友達ができたが
  すぐ私たちに対する理解が少ないことがわかった時は
     どうしようもない気持ちに

 この山城高校定時制に入学して,もう4年が過ぎ,卒業式を迎えることになりました。
 定時制に入った時、果たして

「4年間やっていけるのだろうか、又、友達はたくさんできるのか」

と思いつづけたけれど、意外と早く友達ができたが、すぐ私たちに対する理解が少ないことがわかった時は、どうしようもない気持ちになりました。
 そして、これからどうやっていけばいいのだろうと、思ったこともあったし、学校へ行くのがいやになった時もありました。
 しかしここで学校をやめれば,自分が負け犬になってしまうと思い、苦しい時も、つらい時も、「何糞、負けるものか」と思い、一所懸命、学校に出てきました。

 2年生になり、選択科目の授業で、やっと何もかも話し合える友達ができたときは、うれしかった。
 今日までやってきて本当によかったなあと思いました。
 必修クラブでバドミントンをT君とやっていると選択科目の授業で一緒に学んでいるK君が、その友達のY君を連れてきて、4人でダブルスの試合をやったこともありました。
 その時、又1人友達 出来たんだと思うと、うれしくなりました。
 この2人のうち1人が3年生の時、クラスが一緒になって、今まで一緒だったT君とはクラスが別々になってしまいましたが、1年、2年と一緒に学んだ女友達もいました。


             一緒に給食を食べに行かないか

 少しうれしいやら悲しいやらわからなくなり席にすわっていると、なんと、バドミントンを一緒にやったY君がいるではないか。
  しかも席は隣合わせで、まさに何が何だかわからないほど、うれしかった。
 そして授業が終わり、給食の時、Y君が、


「一緒に給食を食べに行かないか。」

と誘ってくれた時、私は

「このY君こそ、共に学び、共に行動をする奴なんだ」

と思って

「うん、行こう」

と返事しました。

 1年、2年の時は,私は給食をあまり食べに行かず、教室に閉じこもっていました。
 Y君に誘われて今まで教室に閉じこもっていた自分の行動範囲が広くなり、気分もさわやかになってきました。
 それから、必修クラブのバドミントン部をY君のいる卓球部にかえ、Y君とは共に学び共に行動をした友達となってきました。


 Y君との出会いがなかったら、私は孤独な毎日を送り、それに絶えられなくなって、この定時制を中退していただろうと思います。
 Y君と出会い、共に卓球をやって汗を流したこと。
 とにかくクラブをやってきて毎日の学校生活が楽しくなったことは、私にとって本当にうれしさの連続の日々でした。

 さて、総体(定時制通信制総合体育大会)の1カ月ほど前にY君が、

「人数が少ないから卓球の団体戦が組めないので、君もやらないか」

と私を誘ったが,断りきれず、やるだけやるとのことでやってみることになりました。
 次の日から練習に次ぐ練習の日々で苦しかったけれど、練習のあとはいい気持ちが残りました。

  もう一度クラブをやろう
 とうとう試合の日。
 一所懸命やったけど、やっぱり1位になれず、も団体戦は市内2位。
  その後なぜかしばらくは必修クラブだけ出て、課外クラブの方は出なくなりました。

 2学期の終わり頃のスケー一ト教室の帰り、Y君が、1人でうろうろしている私のそばに来て、

「もう一度クラブをやろう。」

と誘ってくれました。
 私はさっそく次の日からクラブに顔を出しましたが、Y君はよろこんで迎えてくれました。

 4年生のクラス替えの日。
 又Y君と同じクラスに決まったけれど、1年から3年まで共に学んできた女友達とは,クラスが別々になり、本当につらかった。

 とにかく私は4年生になっても卓球を続けていた。
 4月に部員がふえてよかったと思いました。


 なぜならば、私たちが卒業した後,クラブはどうなるのだろうかと思っていたところだったからだ。

出会いが,高校生活をこんなに思い出深いものにしてくれた

 途中で何回も、学校をやめようと思ったこともあったけれどY君や卓球部だけが私の心の支えであったように思われます。
 試合のたびに他校の人たちと交流ができるし、友達もできました。

 私にとって卓球は、なによりも生きがいを感じたスポーツだったろう。
 Y君と出会い,いろいろなことが頭の中に思い出されてくる。

 試験が近づくと2人で勉強したこと。
  修学旅行のこと。ドライブに行ったこと。
 そのほかいろいろなことがあった。

 苦しいこともあったし、楽しいこともあった。
 Y君との出会いが,高校生活をこんなに思い出深いものにしてくれたのです。
 もっと早くY君のような友人と出会い、卓球部と出会えていたら、悲しい思い、つらい思い、悲しい思い……などしなくてよかったのにと思うこの頃です。

 4年間定時制で学んできて、たくさんの友達との出会い、良き先生方との出会い、わかりやすい授業。
 笑いころげる授業。

 本当に4年間学んできて、本当によかったと思います。

                                                                                      Esperanza

2012年8月27日月曜日

ことばで言わなくても、キラキラ輝く目や生き生きした笑顔が話している


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 教える、学ぶ、教育要求を聞く、などのこと私たち教師の努めでもあるし、直接説関わる教科もちろん、出来るだけ幅広くいろいろな研究会に出て学習していた。
 この時期、障害児学級のあるお母さんから教職員の機関誌に投稿された文章から、いろいろなことを学び、考えたので、1970年代初めのあるお母さんの文章を紹介させていただく。
 

  障害児学級の生徒である前に
 その学校の生徒のひとりひとりであるということを

 現在、私たちの子どもは、小学校の障害児学級に通学しています。
 その中で、私たちがいちばん大事に考えていかなければならないことがあります。


 それは、私たちの子どもは、その学級の生徒である前に、その学校の生徒のひとりひとりであるということです。


 ところが、実際には、親にとって学校の門は、遠慮がちに通う学級への通用門のように感じられることが多いのです。

  持つことが出来ないのでしょうか
           行ってみたい、きいてみたい、という希望すら


 ある学校では、こんなことをききました。

 音楽鑑賞(オーケストラの生演奏)の会があった時、その学校の先生(普通学級担任)は

「希望校だけがいく会です。静かにできない子どもは、ほかの子どもの邪魔になるから、行かないでください。」

と、いっしょに行くことを拒否されました。

 行ってみたい、きいてみたい、という希望すら、この子どもたちは持つことができないのでしょうか?
 学校とは……。
 教育とは……。


 勉強のできる子どもや、いわゆる.将来世の中で役にたつ子どもだけのためにのみあるものなのでしょうか?

 先生から「おはようさん」と声をかけてもらうこともうれしいです。
 手をつないでくださることもありがたいです。


 けれども、障害児やその親たちのほんとうに願っているのは、できるできない、で、区別や差別をしないでほしいことです。

 すべてを話してくれた
 キラキラ輝く目や生き生きした笑顔の数々の写真

 特殊学級の子どもは集団行動がとれないから、臨海学習には連れていかない。
 この子らに手をとられて、普通学級の子どもに手がまわらないようなことがあっては困る。
 特殊な子どもの扱い方を知らんから、よう指導せん。ーこんな声に対して、私たち親は、


「うちの子も、臨海学習に連れていってほしい。」

という強い要求を学校に出しました。
 先生方は、最初、親が要求を出したことや障害の重い子どもの臨海学習参加ということに対して、たいへんとまどわれたそうですが、いく度か職員協議をする中で、

「障害児学級の子どもを除外して行なう学校行事があってはならない。学校体制の中で、障害児学級のことを考えていこう」

という姿勢で、親たちの要求にこたえてくださいました。

 海の色、塩っぱい味、足もとをすくう砂、キャンプファイヤー、お友だちといっしょに寝た大きなかやの中……。

 普通学級のお友だちや先生方とともにすごした三日間。
 それは、この子たちにとって、どんなにすばらしかったことでしょう!
 ことばで言わなくても、キラキラ輝く目や生き生きした笑顔を数々の写真の中に見つけたとき、私たちは、すべてを知ることができました。

  I子ちゃんだって
    自分でやってみたいことがいっぱいあると思いますよ


 I子ちゃんは、自分ひとりでは何もできない子ども、と言われてきました。

 おかあさんも、何もかもI子ちゃんの手や足の代りをして、それが彼女への最大の愛情だと思っていました。
 あるとき、担任の先生からこう言われました。


「子どもって、期待されていると感じたら、がんばるものですよ。」

 そのとき、おかあさんには、I子ちゃんに期待する、ということが、よくわかりませんでした。

「I子ちゃんだって、自分でやってみたいことが、いっぱいあると思いますよ。」

 I子ちゃんのおかあさんは、ハッとしした。

 今まで、おかあさんがI子ちゃんにとって良かれと思ってしたことはたくさんあっても、1子ちゃんが何を要求しているかなんて、思ってもみなかったことだからです。

 たとえば、I子ちゃんが家でしかおしっこできない子どもだと思いこんでいたおかあさんは、遠足のときになると、前日から、I子ちゃんの大好きなお茶を減らしてでも、おしっこをもらさないように気を配りました。

 それが、母親の愛情であり義務だと思っていたのです。
 ところが、I子ちゃんは、ほんとは、自分がしたくなったときにどこのおべんじょででもおしっこができるようになりたかったのです。
 今までI子ちゃんの伸びようとする芽をつみとってたのが、ほかでもない自分自身だったと気づいたおかあさんは、それから、I子ちゃんの要求に、いっしょうけんめい耳をかたむけるようになりました。

   何百回となく出たり入ったり 床にすわったり
       便器をさわったりのトイレめぐり

 そうして始まったのがトイレめぐりです。

 あちこちのトイレを何百回となく出たり入ったり、床にすわったり、便器をさわったり、入口が二つあること(男女の別)を知ったりする中で、I子ちゃんは、どんなお便所ででも、おしっこのできる子どもになっていきました。
「表へとびだすからといって、教室に鍵をかけないで〃」

「ひとりで食べられないからといって、食物を機械的に口の中へ押しこまないで〃」

「みんなと遊べないからといって、ひとりぼっちにしないで〃」

 子どもだって、いつもいつも同じ所にいたくないと思います。

 そこから、どんどん歩きだしたり、走ったりしたいにちがいないのです。

 こんな、子どもの要求を正しく受けとめて、地域や学校の子どものひとりとして、いろいろな学習活動に参加させようと心をくだいてくださる先生方や職員の方々、そして学校ーこれこそ、私たちの願っていることなのです。

 そんな中でこそ、対等平等のほんとうの意味や、子どもたちの教育の権利を守ることの大切さを、みんなのものにしていけるのだと思います。


                                                                   Esperanza
 

卒業して数年経って自分のファイルを見せてくれた卒業生の喜び


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


         ざら紙を購入する予算がなくなった

 「ざら紙を購入する予算がなくなった。」「先生、了解してくれないでしょうかねぇ」と事務部長が言ってきた。

 「例年なら1年もつざら紙購入予算が1学期でなくなってしまった。」と言う。
 当時、全日制と定時制は学校予算の配分をめぐって話し合いを重ねそれぞれの予算内で執行していた。
 今回は、全日制の了解をもらって予算を回してもらってもざら紙を購入出来ないほどになって来たというのである。

  上質紙にしてほしい それならもっと鮮明に印刷できるし
 夜の教室では生徒も見やすいし書きやすい

 私たちは、あらためて手作り教材のプリントが各教科、国語、社会、理科、数学、外国語、保健、選択教科などで広範に作られていることを知った。

 でも、すべての教師が、プリントをつくっていたわけではない。
 高校なのにそこまでする必要はない、と断固反対する先生は「プリントなんで紙のむだ遣い。やめたらいい」と言いだした。

 だが、理科や社会などの先生からは、写真や図形を作成したり、引用したりしていたが、当時の印刷機でざら紙を印刷すると黒くしか写らなかった。

 そのため当時高価だったコピーや写真を引き伸ばして授業中に生徒に見せたりしていた。


「ざら紙より上質紙にしてほしい。」「それなら、もっと鮮明に印刷できるし、夜の教室では、生徒も見やすいし、書きやすい。」
と言う声が強かった。

  へー先生もいろいろ考えて苦労してはるんですなあぁ

 そこで、この際みんな金を出し合って上質紙を共同購入しないか、と呼びかけた。
 思う以上に多くの教師から賛同が得られて、京都市内を駆け巡って上質紙の卸問屋と交渉して大量の上質紙を買った。

 卸問屋の人々は、
「学校でこんな上質紙を大量に買うことは初めて。何につかいはるんです。」
と聞いてきた。
 状況を説明すると

「へー先生もいろいろ考えて苦労してはるんですなあぁ」
と感心して、大幅にまけてくれた。
 この上質紙は早速使われた。
 
     こんな上等な紙 使わせてもらっていいの

「先生、ものすごく見やすいわ」
「今まで、のざら紙はすぐ破けたけど、消でゴム消しても破けへん」
「こんな上等な紙、使わせてもらっていいの」
「夏、暑くて汗が落ちたらしわくちゃになってたけど、今度の紙は何ともないなあ」


とすごく喜んだ。
 当時、教師は知らなかったが、返してもらったプリントを自分でファイルして、帰宅して、何度も勉強していた生徒が真新しいきれいな紙をファイルする時に感動したことをあとできいた。
 


 そればかりか、返してもらったプリントを何度も書き加えて勉強していたが、上質紙は何度書き加えても破れなかってうれしかったとのこと。

 さらに1年生のプリントは4年生になると変色したが、上質紙はそうでなかった、と卒業して数年経って自分のファイルを見せてくれた時には、教師自身が感動した。
  聴覚障害生徒は「わかる、わかる」と言いだした

 この頃になると、

「聴覚障害生徒たちは、聞こえているのか、聞こえていないのかわからない」
「健聴生徒のことを考えて授業をすると、聴覚障害生徒がさわぐ。聴覚障害生徒のことを考えて授業をすすめると、健聴生がさわぐ。」
「一体、どっちのために授業をすればいいのか。」
「もともと、日本語も充分でないのに教えること自体不可能なことなんだ」


と言う意見は出なくなっていた。

 聴覚障害生徒は、「わかる、わかる」と言いだし、健聴生徒は、聴覚障害生徒が先生の話が聞き取れてないと思うと、自然にプリントを指さして、ここを今やっているんだ、と知らせていた。

 授業から聴覚障害生徒と健聴生徒が、友人になり出してきたのである。



    今のおれ

 俺は始め大さんのようになりたい
 と思っていた


 俺は貧乏がいやだった
 大さんは毎日パリッとして学校にやってくる
 大さんのお父さんは町会議員で
 大さんは大学へもいくと言う


 けれど大さんは
 「お母ちゃんお金おくれ」と
 今日も映画を見に出て行く
 そしてのろろんと毎日を送ってい  る


 だから俺はやっぱり
 今の俺でよかったと思う

 今の 今の俺でーー

                       山城高校定時制生徒会文芸部「まど」より


                                          Esperanza
 

2012年8月24日金曜日

それぞれの得意分野で 大胆な教育実践が

 
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
          定時制の先生はすごく勉強しはりますね

 「この頃、定時制の先生はすごく勉強しはりますね。」

 「なんで。」
 「全日制の先生と比べて定時制の先生のほうがはるかに少ないのに、難しい本を次から次へと注文してきはるからです。
 うちの本屋は、山城高校と近くの小さな大学と、まあ、小学校の先生の本の注文でなんとか、どうにか、こうにか本屋が成り立ってますけれど、定時制の先生の本の注文が飛び抜けて多くなってきたんです。」

 電話一本で本を取り寄せてくれ、学校の教師の机の上に本を置いて給料日に集金に来てくれる本屋のおばさんの話だった。
 また、定時制の先生の注文する本が専門的でややこしくて必死で電話を聞くけれど、


「先生も大変ですね。こんなに本を買って給料大丈夫なんですか。」

とまで心配してくれた。

 I先生の話を聞いて、みんな参考書だけでなく「専門書」を次から次へと注文して基礎勉強はじめたことが分かった。
 でも、専門書は非常に高い。
 本屋さんが心配してくれるのも無理ないなぁ、と思うほどだった。


      化学実験の爆発で 今のように髪の毛がなくなった

 その頃、生徒の中である噂が広がりはじめた。

「化学の先生。ものすごく勉強熱心で、化学実験中に安全装置をきちんとしてなかったから、爆発して今のように髪の毛がなくなったんやって。」

「安全。先生の注意きちんと聞かんとあかん、言うてはったけどほんまやわ。髪の毛なくなったら困るしな」

などの話が生徒中の中で広まった。
 そこで、ある先生が化学の先生に

「あんなウソで 生徒をたぶらかしたらあかんやん」

と言うと

「冗談冗談。このツルツル、ピカピカした頭のてっぺん見せて、先生のうそとホントウを見抜くことが大事や。
 でも、安全な実験。安全は、いのちに関わる重大問題やつて説明するがな。」


と答えてきた。

  残り少ない髪の毛を愛しく刈り上げてくれる

 あとで、生徒が大笑いして、またまた学校中の生徒の中に話が広がりだした。

 「あの先生、若い時からツルツル、ピカピカした頭やったんやって。」

 「でも、今の奥さんは、人は外見じゃないわ、と言って結婚してくれたそうや。」

  「今は、奥さんが残り少ない髪の毛を愛しく刈り上げてくれるので、うれしいし、散髪代も入らないし一挙両得やって言ってはったけど、一挙両得って何のこと」

と国語の先生に質問が来て職員室のみんなが知ってしまうと言う事件も起きた。

         この歌には 矛盾がある おかしいとこがある 何か

 これに懲りず高知出身の化学の先生は、

「土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た よさこい よさこい」

と化学の授業で歌い出した。
 生徒は、これ化学の授業やのに、なんでそんな歌を歌っているのかとわいわいがやがやなった時、


「この歌には 矛盾がある。」「おかしいとこがある。何か。」

と言う問題のプリントが配られた。
 生徒はびっくり。


「おかしいって、先生がおかしなことを歌うから」

などの答えを書く生徒がいたが、ほとんどが頭を抱えてしまったらしい。

 化学の先生は、矛盾を気づかせる。そこから化学の芽が育つのだ、と言っていたけれど教職員の中では「また、高知自慢がはじまっただけやないか」などの意見が多かった。

 ともかく、教師は深く学習して、それぞれの得意分野で英語のI先生のような「小さなテレビ番組表」を考え初め、大胆な教育実践をはじめた。


山城高校定時制生徒会文芸部「夜学生の詩」改題「まど」21号より

                                     父へ

 お父さん
 生まれて初めて一緒に暮らしました
 とてもうれしいはずなのに
 少しもうれしくありません


 お父さん
 私にはあなたの考えが
 少しもわかりません
 高くそびえ立つ山にききました
 茜色の夕日にもたずねてみました
 けれどみんななにも
 教えてくれませんでした


 お父さん
 わかりません
 なにもかもわかりません
 17才の万月が
 お父さんと私の間に厚い壁を作ったのですね


 お父さん
 教えてください
 父性愛とは--


    
                                                                                                                                 Esperanza

 

2012年8月22日水曜日

「鎧」「兜」を脱ぎ捨てた授業から


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  教職員が英語のI先生から、二つのことを学び、論議したのは

 まず第一に、授業をしていても理解が出来ていないことがありありわかる。

 そんな生徒のところに行って、休み時間少し教室に残ってくれない、授業のことで少し説明したいので。
 とか、放課後時間つくってくれかなあ。授業のことで補習をしたいのやけど、などなど言うと生徒の表情が急変し、俯いたままなにも答えなくなる。

 次の日から学校に来なくなったり、自分の授業だけはすべて欠席すると言うことがたくさんあり、悩んでいた。

 I先生の話を聞いて、

 生徒自らの学ぼうとする要求。
 自分自身への自分の評価の高まり。
  少しずつ学ぶ喜びを知って行く姿。


このことから、生徒たちのことと思って補習時間を作ろうとしたことの可否を教師として問いかけてみよう、という反省が産まれた。

   納得したようで納得させられた思春期に

 ある先生は、生徒の家を順々に家庭訪問しながら、特に「来なくなったり」「呼びかけた先生の授業だけ欠席した」ことを婉曲に聞いたりした。

 するとあるお母さんが、こんな話をしだした。

「うちの子は、それなりに一生懸命授業を聞いているようなんですが、成績が悪い。」

「そこで、教科の先生や担任の先生が補習授業を受けるかと聞いてくださった。
 でも、本当はいやだったんですが、ウン、と言わないと許してもらえない雰囲気だったそうです。
 先生は、うちの子が納得したと思って、放課後や休み時間、時には、授業が無いときも補習授業をしてくださった。
 でも、うちの子は先生の気持ちからますます離れていたのです。」


「この時間は友達と遊んだり、話をしたりする一番楽しい時間。先生は時間を割いてくださるのはわかるけど、友達関係がだんだん崩れてひとりぽっちになってしまったんです。」

「やーい。お前だけ特別教えてもらっていいなあ。俺なんかほったらかしやぞ」
とか言われて、いじめられる、ことが多くなって次第に学校に行かなくなったんです。

「うちの子には進学塾に行かせるお金を持たせてやることなんてとても出来なかったし……」 

 教師がよかれと思っていることでも、生徒にとっては脅迫

 この話を聞いた若い先生は、非常なショックを受けて第2回目のI先生から学ぶ学習会で

「どうしたらいいでしょう。」
「教師がよかれと思っていることでも、生徒にとっては先生が時には脅迫しているとさえ思える時があるんですね。」


と提起した。

 別の教師からは、もっと強烈な話があった。

「お前はあほやから なんぼ勉強しても意味が無い。学校に来るな。みんなのジャマだ。」

と徹底的に言われてきた。

 そのため、先生が補習のようなことを言ってくると、素直に受け取れなくなって逆に自分のあほさ加減を晒そうとしていると思い込んでしまっているのではないか。

      思春期の微妙な時期に 大きな痛手を受けて

 先生がより教えようとしても学校に来なくなった生徒やその教科だけ休むようになった生徒の中学校から送られてきた書類を見るとほとんど「怠学傾向」となっている。との報告がされた。

 中学校という思春期の微妙な時期に、大きな痛手を受けてたのが、学校に来なくなった生徒やその教科だけ休むようになった生徒であることがわかってきた。

 休み時間少し教室に残ってくれない、授業のことで少し説明したいので、とか、放課後時間つくってくれかなあ、授業のことで補習をしたいのやけど、などなど言うことは一切やめよう。

 生徒自身から、

「先生ここわからんから教えてって言うまで待とう」
「いつまで待っても言ってこなかったらどうするの」
「それは、私たち教師の実践が悪かったからだ。もう一度、教育実践を交流して考えて見よう。」

 今まで、教師になるためにと教えらて来た「鎧」「兜」を脱ぎ捨てることが要求されることだった。

 猛勉強と基礎学習しないことには
    I先生のような教育方法は出来ない

 第2番目のことは、I先生がことなげに説明し、実践している小さなプリントは実は充分学習しつくした後で削ぎ落とした英語の基礎を創造して作成されていることはI先生から学習したすべての教師には解っていたことだった。

 猛勉強と基礎学習しないことには、I先生のような教育方法は出来ない。
 ほとんどの教師が、頭を抱えた。

1953年10月27日 山城高校定時制生徒会文芸部「夜学生の詩第3号」より

        ある一日の記

  二度目に起こされたその時は
 ねむたかったよ ずいぶん眠たかったよ
 まくらもとには 昨夜の本が
 一昨日と同じページのままで
 あくびをしていたよ


 朝飯を流し込んだその時は
 その味は分からなかったよ
 何故って
 時計とにらめっこ乍ら流し込んだから
  何故って
 職場を遅刻したら
 それだけ減収になるんだから


 職場には 死んだような光の
 蛍光灯に照らされて
 鉛が灰色に光っていたよ
  そしてその下で やせた印刷工達が
 黙々と手を動かしていたよ
 そして私の 疲れ果てた手も


 五時五十分になっても
 私は鉛の冷たい光に包まれていたよ
 しばられた飼い犬が
 外飯を求めてもがくように
 うつつにサイレンを聞きながら


 この手を止めれば
 明日のパン代はどうなるんだね
 この手を止めなければ
 今日の授業はどうなるんだね  
 

  雇主の眼を逃れるように
 私は登校したんだよ
 だのに掲示板には
 「休講」と書いた紙切れが
 淋しく秋風にひらめいていたよ


                                                                             Esperanza

 

2012年8月21日火曜日

なんや おれでも英語出来るやん


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  文字の字数を考えてカッコの大きさを考えて

   英語のI先生の「次の段階へとすすむ」授業は驚かされた。

 小さなプリントに□・△・(   )などが書いてあって、後は英語が書いてある。英語には、日本訳が簡単に書いてある。
「この枠の中に英語を書いて、英語の文章を作ってください。」

と生徒に言う。
 でも最初の頃は、文字の字数を考えてカッコの大きさを考えてあるのがポイントらしかった。

 パズルのように思っていた生徒が ええっ これであってるのか

 生徒は、日本語訳を読んで日本語の組み合わせで文章がわかるので、日本語の順序通りカッコの中に英語を書いていくが、カッコに入らなかったり、空きすぎたりする。
 すると


「先生、このカッコ小さすぎるで」
「大きすぎるで」
「なんでこんな△あるんや。二文字しか書けヘンやんか」

など次々意見が出てくる。

  ここでしめしめ待っていたとばかりに、黒板に英語を書いて、英語は日本語と同じ順序で表現しないことを意味を説明する。
 この時、一番気を使わないと、ここで

「そんなめんどいのいやや」

と生徒が言い出すので、ていねいに英語表現の方法を説明して、あえてカッコの大きさに入る英語も考えて、とヒントを生徒に教える。
 同じワクに入る英語……。生徒は一生懸命考えて、

「出来た」
「けど、これでいいんんかなあ。なんかヘンやけどなあ」

と言いながらもプリントを出す。
 次の時間。プリントを返す。

「ええっ これであってるのか。先生、これ○つけてあるけど、先生のつけ間違いちがうん」
と聞いてくる。
 そこで、英語の順序と日本語の順序がちがうことや、英語表現は、日本語より先に単語がが来る時もあるが、また逆の場合もある。
 △は、二文字や三文字だけれど、それをこういう英語を書くと、このように意味がまったくちがってくる。
 と説明して、また新しいプリントを配る。

 そして、生徒たちの理解状況を見て同じ大きさのワクだけにしたりして、ヒントをなくして、さらにすすめばワクをなくす。

  小さな積み重ねが 結果に多くのことを学ぶ結論を招く

 和訳、英訳の相互がとその変化を次第に知って行くと、生徒の興味は深くなり、

「なんや、おれでも英語出来るやん」

と言い出すようになる。そうすると次の段階にうつる。

とI先生は、1年間のプリントを参加した教職員に広げて見せてくれたが、結局1年間で多くの英語を生徒が書くことになることは一目瞭然だった。

 小さな積み重ねが、結果に多くのことを学ぶ結論を招いたのである。
 教職員は、この段階で二つのことを学び、論議した。

1957年2月6日 山城高校定時制生徒会文芸部「夜学生の詩 19号」より




       母娘

  大きく手短い母の手が
 不器用に私の髪を結っている


 母の手が頭に触れる度に
 くすぐったい様な
 それでいて何かしら
 甘いような気もする  


 出来上がったおかしな
 頭を見て
 二つの顔が鏡の中で
 笑っている










                                                                                         Esperanza

2012年8月20日月曜日

ええ そんなん あり~ とどよめく英語の授業時間


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  中学校と同じことをまた同じようにやらさると感じるだろう

  温厚で紳士で知られるある英語のI先生の話は、次のような事からはじまった。

 ABCも書けない生徒たちにABCを教えても興味を持たないどころか、高校に入ったのに中学校と同じことをまた同じようにやらさると感じるだろう。
 昼の学校生活から夜の学校生活に転化しただけでもとまどうのに、いつまでも中学校時代の「劣等感」を抱かせるわけにはいかない。
 かと言って、英語は英語でアルファベットで成り立っている。

 さあ、どうしたらいいものか、と考えた。

    これだ テレビの番組表だ

 その時、生徒たちが見たいテレビが定時制に来ることで見られなくなったとぼやいていることを聞いた。

 これだ、と思った。

 翌日からその日のテレビ番組表を生徒に配って

「この番組表で、英語だと思われるもの(カタカナ・ひらがな・漢字)に○か線を引いてください。」

と「小さなプリント」にして配った。
 最初、テレビの番組表を食い入るように見ていた生徒の表情は、真剣そのもの。これも見たかったし、あれも見たかったし、と思ったのだろう。
 でも、しばらくすると番組表に○や線を引いて、ぽいと置いて生徒同士でしゃべり出した。
 でも、一生懸命見ながら、○も線も引けない生徒は、じーっとプリントを見たまま。


      「わかれへん」

 その生徒のところに行って、「どれが、英語かな」と聞いてみると「わからへん」と返事したまま俯いてしまう。
 そんな時、「これは」と番組表の文字を指さして聞いてみる。


 「わかれへん」
 「英語かな、日本語かな」
 「英語ちがうかなぁ」
 「それなら、○で囲ってみて」
 「うん。その調子。答えが合っていなくても、これかな、と思うものに○して  みて」 
   「うん」


 こんなことがあってその授業のプリントは集める。
 次の授業に、テレビ番組の英語の部分に○をしてあれば、○。

 合ってなければ?をつけて6/25と名前の上に書いて、プリントの下にひと言コメントを書いて渡したた。

  先生 番組表に25も英語がのってるんか

 返されたプリントを見て生徒の中で、どよめきが起きた。
 英語が得意と思っていた生徒は、

「え、先生。番組表に25も英語がのってるんか。」
「これ?となっているけど、何でや。英語とちゃうん?」

 と言い出す。そこで、和製英語であることを説明すると

「ええ、そんなん。あり~」

「じゃあ。英語では何と言うの」

と聞いてくる。

 ここでしめしめ待っていたとばかりに、黒板に英語を書いて、意味を説明する。

 すると、みんな必死になって返されたプリントにその英語を書き出す。

「チェ、英語ばかりと思ってた。だまされた。」  

と言い出す生徒も出てくる。
  

じーっとプリントを見た生徒は、なぜかにこにこしている。後で聞いたら、今まで○をこんなに多くもらったことは初めてだったとのこと。

 そして、授業を初めて、終わる15分前に再びテレビの番組表のプリントを配る。
 「チエッ、これ見たかったなあ」と言いながら、生徒は2回目になると必死になって番組表を見て印をつけ初め、チャイムが鳴っても「先生、ちょっと待ってもう少しや」と言う生徒が出てくる。
 

  これが、英語のI先生のやり方だった。
 プリントに印をつけている間に一定の援助が必要な生徒や聴覚障害生徒にアドバイスが出来るゆとりが出てくるし、授業も静かになって生徒の目が真剣だ、とハッキリ解って来る。
 そうすれば、次の段階へとすすむ。


1956年7月5日 山城高校定時制生徒会文芸部「夜学生の詩17号」より

     訴え

 ぼくが入学した時
 先生はおっしゃいました


「ここでは昼も夜もない
 みんな同じだ
 だから卒業証書にも
 山城高校卒業とあるだけで
 定時制とは一つも書いてない
 ただ
 時間数の関係で
 三年が四年になっているだけだ」

 

 でも
 僕達は
 本当に山城高校の生徒なんでしょうか

 六時になっても
 運動場も
 体育館も
 中庭も
 みんな昼の生徒に占拠されている
 だから暴力事件が起こって
 停学になる友達が出来るのです

 

 給食のうどんを食べに行ったら
 すうどんしかありません
 いや
 時にはそれも売切れです

 昼の人が帰りによって
 みんな食べて帰るからです
 僕達は
 外へ食べに行くひまはありません
 次の時間に遅れるからです
 九時になっても
 先生のお話を聞いていると
 グーッとおなかが鳴ります


 これでも
 「昼も夜もない
  みんな同じ」なんでしょうか

 

 僕は
 山城高校のママコであっても
 本当の子どもではないような
 気がしてならないのです


それは「小さなプリント」の話からはじまった

 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


私は、聴覚障害生徒の受け入れの時から考え続けていたのです

 「そうでしょうか。私は日本語と英語は違うと思います。」

 「だから、日本語の読み書き、話すが出来ないからと言って、英語が出来ないとは言えないと思うんです。」

 「私は、聴覚障害生徒の受け入れの時から考え続けていたのです。今までの授業でよかったのだろうかと。」

 「だから板書を多く書くなどのことをしていましたが、これは教師からの一方 的な授業の方法でしかない、なんとか、生徒との話し合いをしながらと思いましたが、生徒は今までの英語のいやな思い出があるようで、何も話してくれません。」

   「そこで、この小さなプリントをつくることにして授業を進めるようにしました。
 ほんの少しの時間。10分か15分生徒が少しでも集中してくれたらと思い、毎日、その日に小さなプリントをつくるようにしているのです。」

   「口幅ったいことを言うようですが、生徒たちもほんの少しですが、英語の授業が楽しいと言ってくれています。」

 聴覚障害生徒だけではなく他の生徒にも
   少しはわかる授業が出来るようになったのではないか

 職員会議でほとんど発言されない先生が、凜とした声で話をとうとうとされたのにはみな驚いた。
 そして、先生は、

 「聴覚障害生徒が入学してくれたことで、私自身授業を真剣に考えるようになったし、聴覚障害生徒だけではなく他の生徒にも少しはわかる授業が出来るようになったのではないかと思っています。」

と話をまとめられたのには、多くの教職員が驚いた。
 聴覚障害生徒も含めたみんなの生徒がわかる授業。
 そんな授業が可能なのだ。
 相矛盾するとばかり思い込んでいたことから教職員は、生徒みんながわかる授業の可能性を考えはじめた。
 そのためには、「小さなプリント」の取り組みを教えてもらおうと言うことになった。
 

 「私のような者の取り組みがお役に立つようなら」

 先生の返事をもらい少なくない教職員が「小さなプリント」のはなしを聞きに集まった。



 1957年3月山城高校定時制生徒会文芸部「夜学生の詩 20号」より

  ひるまのふくろう

  電燈は
  私達夜学生に
  無くてはならない貴いものです


  どんなに暗い電燈でも
  それは大切な 大切な
  肉親であり友達なんです
  


   私達や学生は
  電燈のつかない夜には
    昼間のふくろうと同じです
  目が悪くなるような
  暗い電燈の光でも
  昼間のふくろうよりはましなのです

  

  私達の楽しい楽しい教室に
  眼が痛くなる様な暗い 暗い
  電燈が今夜も忘れずについていました
  どんなに暗い電燈でも
  私達には大切な 大切な勉強をするための
  あかりなのです

 

  停留所前のパチンコ店には
  眼が痛くなるほど明るい 明るい蛍光灯が
  いくつも いくつも ついていました
  今夜もきっと忘れずに
  明るい 明るい蛍光灯がいくつも いくつも
  ついているでしょう


  私達夜学生は
  あの様な 明るい明るい蛍光灯が
  教室にいくつもいくつもともる日を
  目を悪くしながら待っています


      
                                                                                   Esperanza

2012年8月18日土曜日

聴覚障害生徒のことを考えて授業をすすめると健聴生がさわぐと受け入れを返上すべきと強固な主張がでる


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  校舎が薄暗い くぐる校門も薄暗い 教室も薄暗い

 楽しい学校のためには、まず夜の校舎が明るくなければならない。
 そのため、校舎、教室の照度をとり上げた。

 視覚障害や聴覚障害生徒がいるクラスは、学校保健法・施行例など教室の照度を最低基準を2倍としなければならないことなどを調べ、校長・事務長(当時の名称・京都府の出納責任がある。)にその改善をせまった。

 夜。通学してくる校舎が薄暗い。くぐる校門も薄暗い。教室も薄暗い。
 こんなことで、定時制生徒がいそいそと学校にやってこれるとは思えない。

 教職員の要求に、校長も事務長

「そのとうり、つねずねそう思っていた。」と答え京都府教育委員会に行った。

     生きていた  戦時中の学校設置の教室の基準

  帰ってきた校長はしょんぼり。

 「高等学校設置基準では、教室に一灯あればいいとなっていて国からの補助対象は、電球1個分の灯りでいいことになってほとんど国費がつかない。」

 「なんとか、今の蛍光灯を増設して、廊下、校門周辺を明るくしてほしいと京都府教育委員会に要望してきたけれど……」

という回答。

 今、教職員も含めて暗いと思っている校舎につけられている蛍光灯は、京都府の独自予算から出されていることが解った。

 戦時中の学校設置の教室の基準が、1970年代になっても生きていたのである。
 


 戦争体験した教職員の怒りは、収まることはなかった。

       教職員の対立の原因になっていた「わかる授業」

 こられの問題は、その後徐々に改善されていくが、学校の校舎は修理、改善しなければならないところがあまりにも多すぎた。

  すでに書いた部分があるが、「わかる授業」という問題は、山城高校定時制で聴覚障害生徒を受け入れる制度がはじまったとき、から教職員の対立の原因になっていた。

 京都府教育委員会は、聴覚障害生徒の受け入れ時に説明したことばの一つに

「健聴生と同様の授業をやれば良い」

ということがあった。

 でも、入学してきた聴覚障害生徒は、ほかにもさまざまな障害があることや難聴学級などで「かゆいところまで手の届く指導」をしていたので、すべて受け身の授業であった。

 片方でさわぎ5分もいすに座っていられない生徒。
 絶えず出入りを何度も繰り返す生徒。
 熱心に授業に取り組む生徒。


 授業は、大変な状況にあったが、それは別世界のようにとって聴覚障害生徒たちは、先生が何かしてくれるだろう、と授業進行の注意事項などをただポカーンとしていているだけだった。

先生がなにも知らせてくれない 難聴生徒を馬鹿にしている

 後で先生が自分たちだけに特別教えてくれる、と思い込んでなにもしないでいる聴覚障害生徒たちは、

  「先生がなにも知らせてくれないからだ。」
 「難聴生徒を馬鹿にしている、差別している。」


 と騒ぎ出し、親の一部には聴覚障害生徒を受け入れる教育制度は出来ないことが原因だと言う意見がくすぶり始めた

 このような状況だから、当然、授業の進行が解らず怒り出し、先生に言えないで家に帰って親に言い、親から学校に抗議が来るという問題が出てきた。

 健聴生徒のことを考えて授業をすると聴覚障害生徒がさわぐ
 聴覚障害生徒のことを考えて授業をすすめると健聴生がさわぐ


 そのため、もともと聴覚障害生徒の受け入れに反対だった教師は勢いづいて

「京都府教育委員会の言った、健聴生と同様の授業をやれば良い、の話はいい加減だったんだ。」
「聴覚障害生徒たちは、聞こえているのか、聞こえていないのかわからない」
「健聴生徒のことを考えて授業をすると、聴覚障害生徒がさわぐ。聴覚障害生徒のことを考えて授業をすすめると、健聴生がさわぐ。」
「一体、どっちのために授業をすればいいのか。」
「もともと、日本語も充分でないのに教えること自体不可能なことなんだ」

痛烈で全面否定の発言がでた。

 その時、非常に温厚で紳士で知られるある先生が、静かに手を上げて発言を求めた。


                                                                                                                           Esperanza


 

2012年8月17日金曜日

まず「楽しい学校」そして「わかる授業」へ



教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 「楽しい学校 わかる授業」を山城高校定時制の教師たちが言い出し、教職員の中に広がったのは、決議をしたり、強要したものではなかった。
 ごく自然に広がっていったのだがそれにはわけがある。

       激しい論議のはてに 楽しい学校にしよう

 まず「楽しい」ということを第一番することについて、これもまた激しい論議があった。

 学びに来るのが学校だ。
 遊びに来るのが学校か、という意見も飛び出すなかで、和歌山の教育研究集会で蜷川知事が講演した中で京都府下の校長会で言った言葉

「数学の先生が六角形に見えるような学校でなく、朝おきたら、いそいそとね、愛人にあいにいくような楽しい学校にしたら…」

をみんなで噛みしめた。

 何度も述べることになるが、山城高校定時制には本当に多くの問題を抱えた子どもたちがやってくる。

 そんな時、まず一番に大切にしなければならないのか、高校の第一歩と高校の教職員が生徒たちに発する第一声が大事になる。

 入学した生徒の中で一番問題を抱えている生徒(病気・障害・家庭崩壊・いじめなどなど)は、入学式に出てすぐ学校に来なくなことなどがあった。

 家庭訪問して時間をかけてじっくり聴くと、入学生の中の暴走族風の生徒を見ただけで中学時代の経験が甦り学校に行くのが怖くなって行けなくなったり、読み書きが出来ない自分は、
「入学式に参加した生徒よりはるかに劣る。高校に入れてうれしいけれど、……」

「中学校の担任の先生にお前なんか絶対高校に行けるはずがないと言われ続けてきた。入学式にでれただけで、それだけで担任の先生に見返し出来た。」

などなど思いもつかない本音を知ることが出来たからである。

 さらに退学して、復学してくる生徒の中には、ザ・タイガースの人見豊氏(瞳みのる)が復学した理由に

「私は現在、慶応義塾高等学校で中国語の教師をしている。実に中国語との出会いは古く、高校時代に始まる。当時、学校は好きであったが勉強は好きではなかった。」

と書いているが、

「学校は好きであったが勉強は好きではなかった。」

 この言葉は、人見豊氏だけではなく多くの卒業生が言っていた言葉であり、時々家族連れで山城高校定時制を尋ねてくる卒業生がまず言う言葉だった。

     心に沁みる「お袋の味」と生徒に慕われる給食

  山城高校定時制に来ることが楽しい。

 何かひとつ楽しいことがある、それが目的で来る。

 学習は、そこからはじまる。

 授業の前に学校が楽しい、いそいそ来られる学校にしようじゃないか。

 これらの話は、現在ではとても出来ないが当時の職員会議で話された。

 職員会議に出るのは、教師だけでない。
 事務職や給食調理員、栄養士などすべての山城高校定時制の教職員が参加出来る時間に開催した。

 これらの話を聞き入っていた給食調理員さんと栄養士さんは、生徒たちが親元を離れて京都に来て定時制に来ていること、産まれてこのかた両親につくってもらったご飯を食べたことがない生徒などがいることを考えて相談。

 後に「お袋の味」と生徒に慕われる給食を作ってくれた。

 「給食めあて」で学校に来る生徒もいたが、そんな子に調理員さんと栄養士さんは、

「たまには授業もでーや」

と声をかけてくれた。

 これらのことは教職員が思った以上に生徒の心に沁み込んだようだった。

 
                                                                                    Esperanza

2012年8月12日日曜日

いじめ 暴力をなくして安全で平和な学校生活が出来るようにするのは 教育の大前提

   
教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(39)


2011年10月に明るみになった
 滋賀県大津市の中学校
  いじめによる自殺という悲痛な事件の原因は
  真剣に解明されているだろうか

 2012年夏になって、2011年10月に、滋賀県大津市の中学校で2年生の男子生徒がいじめが原因で自殺をしたことが大きな話題になっている。

 その真相は、まだまだあきらかにされていないが、いじめの内容や学校・教育委員会などの対応が明るみになり、波紋は広がる一方である。


  聴覚障害姉妹へのしつような体罰をしたとされる
 講師をやめさせることで問題を隠した教育行政の重大責任は

 だがこの問題をめぐって2011年6月に明るみに出た次の事件との関連で問題がふれられていないのはどうしてなのか理解に苦しむ。
 20011年6月に次のような趣旨の報道がなされた。

 大津市立中学校で特別支援学級を受け持つ講師が、学級に通う姉妹に体罰を繰り返していたとして、大津北署は10月19日、傷害と暴行の疑いで、元臨時講師を逮捕した。

 逮捕容疑は2009年1月から昨年11月にかけ、中学校の教室で女子生徒=大津市=の頭を殴ったり、尻や首を蹴るなどした上、ペンで手や太ももを突いて軽傷を負わせた疑い。女子生徒の妹に対しても昨年6月から今年5月、太ももを蹴るなどの暴行を加えた疑い。

 同署によると、岩佐容疑者は08年4月から今年6月まで同中学校の臨時講師として勤務していたが、耳が不自由な姉妹が手話や筆談での意思疎通しかできず、唇の動きで授業の内容が理解できないことを不満に思っていたという。

 県教委は今年6月、同容疑者を減給10分の1(3カ月)の懲戒処分にしている。

 すでに依願退職している。

聴覚障害生徒たちの基礎知識がまったくない
         講師に特別支援(難聴)学級を担任させて


 この報道は、非常な問題を含んでいる。

 体罰が許されないのはもちろん、体罰の方法にもあまりにも多くの問題がある。

 しかも、その前提となる聴覚障害生徒たちの基礎知識のまったくない教師に学級を担任させていること。

 その教師は、臨時講師であると言うこと。

 聴覚障害のある生徒たちの学級担任をさせるのに何の基礎知識も持たない臨時講師を担任させている校長・大津市教育委員会・滋賀県教育委員会の重大責任と反省はなく、臨時講師を処分させて退職願を出させてことをすませ教育委員会は何の責任もとっていない。

 教育委員会はこの問題の背景や教師だけの責任でないなど多くの問題を事前に充分知りながら、出されていた意見も無視して「見て見ぬふり」をして、積極的にことの問題解決にあたず、教師個人の責任にして、処分する時は機敏であったことなどなどに多くの批判がある。

 このことは、「耳が不自由な姉妹」が負った精神的肉体的苦痛への援助。

  体罰をしたとだけ決めつけられた教師の状況や話や苦悩を思いやるどころか充分聞く配慮もない。
 さらに問題からの教訓とこれからの聴覚障害教育への方向もなくなく、教師のみの責任追及だけをして教育行政がふたをしている。

 すなわち問題をすべて臨時講師の責任にして教育行政の本来の責任を放棄していたことの証ではないだろうか。

 校長・教育委員会は、体罰問題を云々する以前に教師の責任だけでない多くの問題があることを充分承知していた。


 でもそれを隠し、教師個人の責任にしていたという批判が広がっている。

 このような責任逃れの「体質」と教師個人に責任を追及することと、大津市の中学校で2年生の男子生徒がいじめが原因で自殺をしたこととまったく同一線上のこととして考えるべきではないだろうか。


 頬にぴたぴたとあてられたドス(小刀)にもひるまず

 2012年7月28日土曜日のブログで「いじめや暴力は絶対許さないとする教職員の固い決意と聴覚障害教育の発展」とあえて書いたのは、暴力やいじめが横行する学校では、聴覚障害教育が成立しないばかりか、教育そのものが成り立たなくなるという意味で書いた。

 京都の定時制高校の少なくない学校では、生徒が暴れたり、いじめたり、教職員や生徒に暴力をふるううと「それは生徒指導の問題」として取り扱われてきた。
 だが、山城高校定時制では、そういうことは全教職員、全生徒の問題として考えてきた。

  そして、教師間の激しい論議が行われ、あらゆる配慮をしつつ、よくないことはよくない、と徹底的に生徒に教えてきた。

 このことで、聴覚障害生徒も決して例外にすることはなかった

 現在、インクルージョン・特別支援教育を人権教育だとして声高に叫ぶ教育行政は、少なくない教職員の努力やそれぞれの学校の実情を考慮しないことがあまりにも多い。

 後に書くかもしれないが、暴力をふるう生徒を身を挺して止めていた時、ひたひたと頬に冷たいものがあたる。見るとそれはドスドス(小刀)だったこともあった。
 暴力団を学校に呼び入れて、暴力をふるう生徒の行動をなかったことにしようとしたからである。

 だが、警察に連絡しつつも教職員は命がけで生徒の暴力をやめさせ、暴力をふるわれている生徒を守ったこともあった。



 この時、いの一番に現場から逃げ出した教師が、のちに校長になった。

 こんな教育現場のことを教職員は、今語らなければならないのではないかと思う。

  教育の大前提 
 いじめ、暴力をなくして安全で平和な学校生活が出来る

 
 いじめ・暴力、いじめ・暴力をなくす、ということは、生徒・教職員を守ると言うことであり、いじめ、暴力をなくして安全で平和な学校生活が出来るようにするのは、教育の大前提である。
 でも、このことがしばしば見失られている。

 そのことを放置して、いくら優れた聴覚障害教育をしていると言ったり、言われても、それらは根底的に否定されるべきだろう。

 今回は、連載から少し離れたかも知れないが、あえて、掲載しておきたい。


2012年8月9日木曜日

すべての生徒が解る授業の創造をめざして

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(38)

      ろう学校高等部の病休講師の依頼が

 京都ろう学校から山城高校定時制の教師にきわめて短期間であるが、聾学校から高等部の病休の先生の講師としてろう学校で授業をしてくらないかとの依頼があった。
 短期間の臨時講師が見つからないで困っているからというのがその理由だった。


 校長も定時制の主事(当時の名称)も、ろう学校との連携のために短期間でも講師を引きつけたら良い。京都府教育委員会へ手続きは、管理職がするからという話だった。

    どこでもいい。教えたいと思うところから教えたら

 そこで、昼はろう学校で、夜は高山城高校の夜間定時制課程で教えるという経験をしたが、驚いたことがひとつあった。

  病休に入られた先生が、教科のどこまで教えられていたのか、どのような方法でやっていたのか、と常識なことを聞くと

「どこでもいい。教えたいと思うところから教えたらいい。」
「でも、生徒にしたら突然来た講師が、前に習ったことと同じことを授業でしているとなると気の毒だ。」
「だから、どこまで教えたのか知らせてほしい。」

と言うと
「どこまでとか、何を教えるか、とかそんなことはないからともかく授業してくれさえしたら言い。」

として言うだけだった。

      同一の教科を同時期に障害児学校と山城高校定時制で

 そのためやむを得ず、同一の教科を同時期に障害児学校と山城高校定時制の授業を教えることとなった。

 その頃は、私が教えていた山城高校定時制ではほぼ全員の教師が、

「楽しい学校 わかる授業」

という目標を掲げ、それぞれの教師がそれぞれの方法で「わかる授業」を追求していたからである。

 学力の著しい差異のある生徒に対して、一律的にある水準を決めて、それに合わせて「わかる授業」を展開していたのではなかった。

読み書きが出来ない生徒がいるのは
       あたりまえという中での授業の創造

 読み書きが出来ない生徒はもちろん、小学校や中学校の通えてない生徒やあらゆる病気や障害のある生徒たちに「わかる授業」を展開するのは並大抵のことではなかった。
 さらに再入学してくる成人の生徒、教師より年上の生徒、暴走族で大けがをしたり、暴力団の手下の生徒などあらゆる年齢、職種(?)、無職の生徒の授業を教えるためのてだてをしていた。

         山城高校定時制方式のプリント

 そのため多くの教師が「手作り教材」を毎時間作成して、それを基に授業をすすめていた。
 いわゆる「山城高校定時制方式のプリント」である。


 このことの経過は、以降少し詳しく述べたいが、ともかく「手作り教材」を携えてろう学校の授業に臨んだ。


特に「山城高校定時制方式のプリント」は、字ばかりのものでは最初から生徒が拒否反応を起こすので、先生がたはイラストを入れたり、短編私の初恋なども「山城高校定時制方式のプリント」に入れたりしていた。

 
 単なるプリントではなく
生徒を変え 教師も変えるプリント


  読み書きが出来ない生徒は、プリントのイラストを楽しみにしていた。
 それは、イラストを写す楽しみの時間であったからである。

 しかし、いつしか授業に集中するようになり、プリントの答えは書けないけれど、プリントの文字のすき間に同じ文字を書き写すようになり、多くの時間がかかったが卒業する頃になるとプリントの問いにきちんとした答えを書けるようになって教師を驚かせた。

 教師間では、「山城高校定時制方式のプリント」は、単なるプリントではなく生徒を変え、教師も変えるプリントであることが確認されるまで多くの月日がかかった。

 ハッと気がついた 
  ろう学校高等部生徒の矢継ぎ早の質問と生徒同士の討論

 でも、教師の準備と授業後の生徒ひとりひとりのプリントを読みとる仕事はかぎりない時間がもとめられた。
 私の場合は、出来るだけ写真や図面を入れたプリントをつくった。


 ろう学校では、山城高校定時制の授業で使っていた「焼き畑農業」をとりあげた。
 山地の森林や草を燃やして栽培する話をはじめると、ろう学校高等部の生徒から次々質問が出てきた。

 「山地を燃やした人が焼け死ぬ」
 「平らなところでなで畑を作らないのか」
 「なぜ、山を焼くの」
 「焼くのはナゼ」
 「怖くてそんな畑ようつくらん。」
 「焼いた後にどんなことするの」
 「何をつくるの」
 「稲も作る。ウソやー。水がないのにナゼ稲がつくれるの」
 「作った米は、私らが食べている米と同じ?」
 「一度食べてみたいなあ」


 次から次への質問と、生徒同士の意見のやりとりであっという間に授業時間がすぎた。
 定時制での授業の3分の一もすすまなかった。


 この時、ハッと気が付いて山城高校定時制の教職員の教育研究の場で問題を提起した。
 「もっと、生徒同士の意見を出し、生徒同士が論議し合う授業が必要ではないか」と。



2012年8月8日水曜日

机上の「空論」と苦悩の中から生みだしたすべての生徒がわかる教科教育


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(37)

  集団の中の生徒の発達にふれられない
 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン・特別支援教育

  金沢で学習した聴覚障害生徒たちと健聴生徒は、費用の点もあり白川郷の合掌造りを見ながら帰京した。

 そしてめいめい書き綴った感想文を記録されて山城高校に報告された。
 翌年は、埼玉の集会にさらに多くの聴覚障害生徒と健聴生徒が参加したが、この時、新幹線が大幅に遅れ(特急料金は障害者割引の対象にならかった。)特急料金の払い戻しがあり、誰言うとなしに


「この費用で印刷して記録を残し、自分たちが学んだことをもっと多くの人々に知ってもらおう」

ということになり、冊子を印刷して報告書を配布したら、お金を出して買ってくれる人がいて、毎年の集会は印刷した冊子を出すことが出来るようになった。

 この中で、多くの聴覚障害生徒と健聴生徒が友に学び大きな成長を遂げた。インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン、ましてや特別支援教育はこれらのことに関わることを一切ふれていない。

 教育における集団のことを。

 教科指導を「いわゆる学習障害」への理解の欠落に
  すり替える論理はその後の子どもたちに大きな影を落とす

 最近「発達障害(アスペルガー症候群、学習障害等)のある児童・青年の教育相談と学習指導のあり方について」という「いわゆる学習障害」の学会報告を読んでいて非常に驚いたことがある。

 事例報告後の質疑応答で、学校教員の男性から、

「教科指導について、学校へのアドバイスをどのように行っているのか?」

という質問に対して

 報告者からは、中学や高校では教科指導についてアドバイスを行っていくことはまだまだ難しい現状があり、実際には個別の配慮をいかに行っていくかは各教科の担任によるところが大きいといった回答。

 さらに、学校全体として障害の認識がされながらなかなか対応がされない要因として、「LD=障害=できない子」といった教師が抱く子どもの障害像と実際の子どもの実像が結びついていないといった点や、「しんどい子どもは他にもいる」といったような発達障害に対する理解のなさが背景にあるという意見が出された。

 「中学や高校では教科指導についてアドバイスを行っていくことはまだまだ難しい現状」
 「 個別の配慮をいかに行っていくかは各教科の担任によるところが大きい」  「LD=障害=できない子といった教師が抱く子どもの障害像と実際の子どもの実像が結びついていないといった点や、しんどい子どもは他にもいるといったような発達障害に対する理解のなさが背景にある」


と報告され、教科指導についてのアドバイスが出来ないのに「発達障害(アスペルガー症候群、学習障害等)のある児童・青年の教育相談と学習指導のあり方について」というテーマなのに「学習指導のアドバイス」が出来ないまま学会報告とされているのである。

  教科指導に対する実践提起が出来ない
     研究者の破綻とすり替え

 そして、教科担任次第、他にも「しんどい子どもがいる」として「いわゆる発達障害児の理解のなさ」が教科指導でも現れて「いわゆる発達障害」の子どもが蔑ろにされていると言いたいようである。
 ここでは、教科指導に対する実践提起が出来ない報告者の未熟さを「いわゆる発達障害」の理解の欠落があるとする教科担任の努力義務にすり替えられているだけでしかないと言えよう。

 その一方、別項で、
 学習困難(学習障害)の特徴として、学習困難には、さまざまな理由による学習不振、低学力などがあります。

 知的理解に遅れはないのに、著しい学習困難があり、読みや書きなどの基礎となっている認知的諸能力に弱さがある場合を学習障害、読み書き・計算障害といいます。

 通常の学習方法、繰り返し反復学習は、かえって有害な場合が多く見られます。

などなどを書いているのだから、本当に学校で学ぶ生徒たちの中にいる「いわゆる発達障害」の子どもたちの事を真に理解しているかどうか極めて疑わしい。

 教育は実践の科学であり 机上の「空論」でない

 
 もっとハッキリ書けば、

「教科指導について、学校へのアドバイスをどのように行っているのか?」
に対して、応えることが出来る実践と研究がないばかりか、机上の「空論」とも言えるとも思える。
 

 現在、このようなことが平然と言われ、ある特定の特異な子どもたちだけの理解を強調することは、生徒の学習権を認めないだけでなく、必要以上に生徒間の対立といじめ、教師間の対立、学校に対する不信を煽り立てるだけのことでしかないと言える。
 そして、問題が生じたら、そういう指導をした研究者の責任はとらず、責任を教師に転嫁するのである。

 山城高校ではじまった聴覚障害生徒と共に学ぶ教育は、以上述べたような考えや方法ではとっくに崩落していただろう。

 ただでさえ難しい教科指導を障害のある子どもたちと共に学ぶ方法を模索する取り組みは、特に山城高校定時制では激烈な論議と弛まない取り組みが必要であった。

 聴覚障害生徒の理解だけでは、問題は解決しなかった。

 ましてやしんどい子どもどころか、深刻な問題を抱えた生徒たちが圧倒的に多い中で、教科は大きな変革と教科の意味と生徒を変える源泉として考えられた。

2012年8月4日土曜日

石けんの香りと自分では言えないスッキリしたさわやかな格別さがあった


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(36)

 「実は一日目の夜は、僕にとっていやなほど落ちつきと冷静さを失っていたように思う。

 それは入浴への誘いに応じられない、自分の精神的苦悩があったからだろうか。

 お寺に着いた後すぐ集まりがあり、今後の予定を報告されて、男子は銭湯へ行くことになっていた。

 その時から意識していたと思う。

 皆に知られまいと平静に振るまっていたが、その時、内心の僕は、銭湯なんて物心覚えてからほんの一度きりも入ったことがない。

 高校進学までは、養護学校の寄宿舎にずうっといた関係で、肢体障害をもつ友人としか風呂に入った経験がない。
 自分自身、小児まひによる肢体障害でびっこをひいていることに健康な人間に対して常に引け目と恥しさを感じている。

 それで高校の修学旅行の大浴場なんて知らない。

 だから今だって、全然気がない、そう思った。

 しかし、銭湯に行こうともしない自分に仲間は、当然のように自然に誘ってくれるが、その入りたくない自分が、歯がゆくてたまらない。

 仮病を使ったつもりはないが、旅の疲れと、頭痛を理由に断わった。

 二日目の夜が来て、今日も銭湯があるわけだが、入らなければならない義務はない。

 しかし今日は昨日と違っていた。

 もうこれ以上仲間の誘いを拒むことに耐えられない。

 自分が挫折するだけ。

 仲間とのかかわりは、僕にいたわりと同情の気持でしか接してくれず、せっかくの友情もあだになってしまうだろうと悟った。
 だからF先生の『ここの(お寺の)風呂(一人用)に入らないか?』という勧告もすげなく断わった。

 今、僕は仲間を裏切ってしまったことに肩身がせまい思いがしてならない。

 すまない。

 仲間のしたことは、それが思いやりなのだなあと思った。

 僕は、銭湯に行くことにぐずぐずしながら応じた。

 不安と恥しさを隠しきれずに生まれて初めての銭湯へ行った。

 銭湯の更衣場で仲間は、自分が補装具をはずしかけているのを好奇心で見る。

 仕方がない。

 そこで色々と仲間から手をかしてくれたことに何もできなかった自分。

 入浴後の気分は、石けんの香りと自分では言えないスッキリしたさわやかな格別さがあった。

 そのことをだれかに打ち明けたいと思い、F先生やM君らと肩を並べながらお寺への帰路に着いた。」

 スッキリとしたさわやかさは、仲間の自然な誘いに答えられたからであろう。

 健康な人に対するひけ目、恥しさそれは当然のごとく障害者に持たされてきたのである。

 これを少しずつのり切ってゆこうとする動きが山城高校の生徒たちので「スッキリ」と芽ばえ、拡がってきた。