2012年1月31日火曜日

ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな


Once upon a time 1969

 選挙管理委員会も予測できなかった大人数の中の立会演説会。
 初めてのろうあ者の参加・手話通訳保障。
 そのような中で立会演説会は始まった。


 間近に見る候補者の表情、しぐさ
     に対してろうあ者は非常に敏感

 会場には、丹後各地から1時間、2時間以上かけてろうあ者が集まった。
 生まれて初めて見る立会演説会。未就学のろうあ者もそうでないろうあ者も参加している。


 そのろうあ者に候補者の演説内容が通じるように、手話通訳者は、手話を大きくし、出来るだけ身振り表現からくる手話もとりいれながら手話通訳した。
 さいわいなことに、ろうあ者席に座っているろうあ者の人々は一目で見渡せる。
 そのため、ひとりひとりのろうあ者の独自の特徴ある手話表現は一瞬にして分かった。
 そのことを思考しながら手話通訳したが、ろうあ者は、手話通訳に真剣な眼差しを注ぎ込んだ。
 同時に、候補者の表情、しぐさも、ろうあ者の視界に入る絶好の席だった。
 候補者の表情、しぐさ、に対してろうあ者は非常に敏感だった。
 もうひとつ他の立会演説会の参加者には見えない、次の候補者が舞台裏で待っている様子もろうあ者席から見えた。


   何もかも、初めてであり
  ろうあ者にとって非常にうれしいことだった、と

 何もかも、初めてでありながら、演説している候補者、次の候補者を直接間近に見ることは、ろうあ者にとって非常にうれしいことだった、とあとから感動の声が寄せられた。
 この立会演説会で、一番手話通訳が難しかったのは、現職の京都府知事蜷川虎三氏であった。
 この時候補者として演説したことは、のちのち手話通訳者の中で論議された。


 現職の京都府知事蜷川虎三氏は、比喩が多く、その比喩に多くの意味合いが籠められていた。

ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな
を瞬時にどのように手話通訳するか

 立会演説会の当日、現職の京都府知事蜷川虎三氏は、次のような演説をした。

 
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな そのようなふるさとになるように、努力してまいりたいと思います。」
という丹後地方の人々が、ふるさとを離れることなくふるさとで仕事が出来、ふるさとで暮らしていけるようにするようにするのが京都府知事の仕事であるという演説内容であった。

  「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
 この演説を聞いたとたん、手話通訳者は、候補者の演説は、石川啄木の有名な短歌にかけていることをとっさに判断し、過疎化する丹後をいつまでも守りたいというような意味が込められていることを理解して手話通訳をすることが求められる。

 「生まれた」「ところ」=ふるさと 「山」・「向かう」
     「感情が次第に高ぶる」「うれしい」「ありがとう」

 だが、参加したろうあ者にほとんどは石川啄木の短歌も知らないことは充分推定されたが、立会演説会の手話通訳者には、手話通訳の「速答」が求められた。
 


 この時の手話通訳者は、
 「生まれた」「ところ」=ふるさと 「山」・「向かう」「感情が次第に高ぶる」(当時の京都の手話表現にあった。)「うれしい」「ありがとう」・「意味同じ(当時の京都の手話表現にあった。)」「生まれた」「ところ」「いつまでも」「続く」「よう」「努力」「したい」
 と手話通訳した。

   「なるほど、」「そうなん」「そうだ」などのろうあ者の反応


 この「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな。」という演説を石川啄木の短歌に込められた心情と候補者の心情とその演説の趣旨を、とっさに表現できること、しかも同時通訳することは至難の業を必要としたが、手話通訳の高度な手練(スキル)が求められた。
 会場にいたろうあ者は、「なるほど、」「そうなん」「そうだ」などの反応があったので、手話通訳が充分出来たことの手応えを感じることが出来たが、非常に難しい手話通訳であった。

 ただ、「ふるさと」「山」「向かう」「言うこと」「ない」などのことで参加したろうあ者に手話通訳したとはとうてい言えないし、そんのようなことはろうあ者のための手話通訳でない、と考えていた京都の手話通訳者にとっても歴史に残る手話通訳であった。

        マイクを引きちぎった候補者と信じられない出来事

 立会演説会がすすんで、信じられない事件が起きた。
 ある候補者が、「こんなマイクは必要ない」と演壇のマイクを引きちぎり、演説をはじめた。

 満員の体育館、第一会場、第二会場の人々は、候補者が何を演説しているのかまったく分からなくなってしまった。
 だが、手話通訳者の位置は、候補者の近くであり、候補者の演説はマイクやスピーカーがなくても聞こえた。


 一瞬、手話通訳者はとまどったが、聞こえることを受けて手話通訳を続けたが、このことが満員の体育館に居た人々に信じられない影響を及ぼすことになる。

2012年1月29日日曜日

体育館の床を揺り動かす大拍手がろうあ者に送られ はじまった立会演説会


Once upon a time 1969

 手話通訳保障がされ、ろうあ者が立会演説会に参加出来る保障がされたのは、京都府知事選挙の立会演説会からであった。

        一番難しい手話通訳がもとめられる地域

 立会演説会は、京都府下の北部からはじまり、南部まで縦断する。
 そして、京都市内の大有権者の地域で終わるものであった。
 第1回の立会演説会は、丹後(現在の京丹後市)のM小学校の体育館で行われた。
 丹後地方(当時)のろうあ者は、未就学だったろうあ者が圧倒的に多く、手話というより身振り、手振りでのコミニケーションであったし、かって裕福な家に生まれたろうあ者は、戦前の手話でコミニケーションにをしていた。
 コミニケーション方法は、あまりにも大きな違いがあり、手話通訳をすることは一番困難な地域でもあった。
 なぜなら、Aさんに通じても、Bさんには通じないということなどなどが多々あったからである。

 この場合は、以前のブログで「同じ」という手話表現の説明したが、参加するろうあ者の手話表現や手話の認識状況に合わせるとこの「同じ」という手話表現をより多く使わなければならなかった。
 しかし、このことを繰り返していると候補者の演説が終わり、次の候補者の演説がはじまっても手話通訳しているという結果になる。
 候補者の演説が終われば、手話通訳も終わるようにしなければならないという手話通訳者としては、非常に難しい手話通訳が求めらることになる。


 2011年11月〘違いを強調し、極限まで考えるよりも「同じ」で一致すれば「違い」が解ってくる 参照〙

  ろうあ者の参政権保障の第一歩を確実なものにしなければ

 私たちは、前日から京都市内を出て宿泊。
 宿泊先で丹後地方のろうあ者の生活やコミニケーションの特徴を再学習して入念な打ち合わせを行った。
 ろうあ者にとっても、手話通訳者にとってもこの第一回目の立会演説会がキチンと終了し、ろうあ者の参政権保障の第一歩を確実なものにしなければ、今後の立会演説会の保障が見込めなくなるという緊張感に包まれていた。
 立会演説会当日。

 数時間早く会場に行き、手話通訳者の位置やろうあ者の席を確認し準備した。
 ろうあ協会の役員もその時間帯に一番列車とバスや徒歩で会場にたどり着いて、早く来るろうあ者をろうあ者席に誘導していた。

 初めて立会演説会に来たろうあ者は、自分たちの席が準備されていることに驚き、ためらい、ためらいしながら席についた。

聞こえる人の席は一杯だけど、本当にここでいいの

 ところが、もっと驚いたことに、そのころM小学校の体育館にぞくぞくと人が集まり、ろうあ者席以外は、ほとんど席は埋めつくされるようになっていた。
 ろうあ者から
「ここの席空いてるけど、座っていていいの?」
「聞こえる人の席は一杯だけど、本当にここでいいの」

との質問が出された。
 ろうあ協会の役員は、

「あとから来るろうあ者の席だから、空けておかないと手話通訳が見えなくなるから……ここのままで。」
と説明した。が、ぞくぞくと来る人は途絶えることがなかった。
 選挙管理委員会から、「席をもっと前に詰めてください」という放送がなされて、体育館はびっしりの人で超満員になった。

 入り口付近の人々は立ったままで、これ以上入れる余地はなかった。
 ろうあ者から、○○さんはもうじき来るのに入れなくなる、どうしよう、という心配が出されたがどうしようもないほどの人が集まっていた。
 そうなると、よけいろうあ者席の空席が目立つ。
 ろうあ者から、

「空いているところに聞こえる人も座ってもらっていいと言ってもらえないか。」
との話があり、選挙管理委員会と話をしたが「いやそのままで結構です。」との返事。

 体育館の床を揺り動かす大拍手が、さらに大きな拍手になった

 体育館以外にも第二会場(放送のみ)、第三会場が設けられた。
 おくれてきたろうあ者は、会場前列まで人垣をかき分けて来ることは、とうてい難しいだろうとみんなが思い込んでいたが、ひとり、また、ひとりとろうあ者がやってきた。
「どうしてこの席までこれたの」
とろうあ者が尋ね続けたが、当のろうあ者本人も首をかしげるばかり。


 立会演説会の時間が来て、選挙管理委員会から立会演説会の注意事項とともに

「この立会演説会には、ろうあ者の方々のため席が設けられており手話通訳が行われます。みなさんの御理解をおねがいします。」

と言ったとたん、体育館は割れんばかりの拍手が鳴り響き、体育館の床が振動するほどだった。

 ろうあ者は、みんなにお礼の頭を下げるとよけいに、拍手が鳴り響いた。
 


2012年1月28日土曜日

日本で初めて、公費による手話通訳保障・ろうあ者のための立会演説会参加の保障がはじまる


Once upon a time 1969


     参政権の保障である立会演説会参加保障

 すでに掲載してきた「ろうあ者の基本的な要求」で、

1,職業選択の自由の保障
 イ、最低賃金制の確立 働くものに必要な賃金を保障する。
 ロ、ろうあ者の職域開発とその能力に必要な賃金を保障する。
 ハ、職場における差別をなくし、労働条件の改善をはかる。
 ニ、官公庁が卆先してろうあ者を採用し、企業への門戸を開く。
 ホ、定年制をなくし、老人を街頭にほおり出さない。


4,参政権の保障
 イ、立合演説会に手話通訳を置く。その他について、ろうあ者が不利な扱いをうけるこ   とのないようにする。
  ロ、議会に手話通訳を配し、必要な時はいつでも傍聴できるようにする。

も大きな前進がはかられる。

 特に、まず、「参政権の保障 イ、立会演説会に手話通訳を置く。その他について、ろうあ者が不利な扱いをうけることのないようにする。」について述べて行きたい。

  当時、立会演説会は、公職選挙法で「複数の候補者が同じ会場で同時刻にやる演説会」のことで、選挙運動の一方法であった。
 選挙に立候補した候補者が一堂に会して行われ、公職選挙法では,衆議院議員,参議院(地方選出)議員および都道府県知事の選挙については選挙管理委員会のもとで立会演説会を行うことを義務づけていた。
 1983年に公職選挙法の「改正」により、立会演説会はなくなってしまったが、1969年以前からろうあ者が立会演説会に参加しても候補者の言っていることが分からず、主権者として、参政権保障の重要な位置づけとして、「立会演説会に手話通訳を置く。その他について、ろうあ者が不利な扱いをうけることのないようにする。」ことが要求されていたのである。

 「ろうあ者が不利な扱いをうけることのないようにする。」
ことが要求された背景には、それまで手話通訳者とともに立会演説会にろうあ者も参加していた。
 会場の片隅で手話通訳を等しての立会演説会に参加していたが、名実ともに候補者と「立会」ではなく、話を聞くだけにとどまり、演壇の候補者の様子や会場の雰囲気も分からなかった。



 ひどい場合は、会場の片隅で手話通訳することも会場整備担当者から注意されるということもあった。
 私たちも、主権者として立会演説会に参加出来るべきであり、そのような条件を作るべきであると「ろうあ者の基本的な要求」で明確にされたことは、当然のことであった。

 京都府選挙管理委員会は
 ろうあ者の立会演説会参加保障を十分承知したが

 京都府の幹部交渉以降、京都府民生労働部は、各部、各課とろうあ協会の要求を真剣に検討・協議して縦割り行政の「隙間」を埋めようと必死になった。
 その中で、少なくないろうあ協会の要求が実現した。
 その一つが、「立会演説会に手話通訳を置く。その他について、ろうあ者が不利な扱いをうけることのないようにする。」であった。
 そのことを京都府選挙管理委員会は、十分承知した。
 しかし、公職選挙法に基づく立会演説会の予算には、ろうあ者のための手話通訳保障や障害者の参加のための保障など一切の予算が交付されていなかった。

 障害者が、主権者として、立会演説会に参加することが国の制度ではまったく考えられていず選挙管理委員会も予算化されずにいた。
 障害者の参政権がこのようなことでも否定されていたが、ろうあ協会はろうあ者だけではなく障害者の参加も含めて立会演説会に実質参加出来るようにすべきであるとして、「予算がない」とする京都府選挙管理委員会の言い分を断固として認めなかった。

 京都府選挙管理委員会としては初めての試みと予算の捻出

 そのため立会演説会の責任は、あくまでも京都府選挙管理委員会であるが、「立会演説会に手話通訳を配置し、ろうあ者が不利な扱いをうけることのないようにする。」ために諸費用は、京都府民生労働部の予算から出すことになった。
 このことは、京都府選挙管理委員会としては初めての試みであり、この試みの成果の上に立って障害者が立会演説会にいつでも参加出来るようにしよう、ということが確認された。
 その点で、京都府ろうあ協会としてもこの試みが充分成果を収めるように取り組まれなければならなかった。


 会場
 ろうあ者の席・手話通訳の位置の検討

 立会演説会の会場は、多くの場合小学校などの体育館が使われた。
 参加者が増えると詰め込むことが出来たということもあるが、出来るだけ開催地域の人々が集まりやすい利便性も考えられていた。
 場所によっては、大ホールで行える場合があったが、小学校の体育館の壇上は狭く、手話通訳をどこでするのか。ま

 たろうあ者の座る場所をどこにするのか、などなどの問題が検討されていった。
 手話通訳は2人で交代は、すんなり決まったが問題はろうあ者の座る場所だった。

 この点で、ろうあ協会や手話通訳に意見が求められてきた。

 手話通訳の配置・ろうあ者の席の
    確保を聴衆に説明し、理解を求める

 大ホールでは、正面に向かって候補者の右側。小学校では、壇上が小さいので、正面に向かって右側に手話通訳が見えやすくするため2m四方の手話通訳台を置く。
 ろうあ者は、参加者が集まる正面右側に「ろうあ者席」と明示し、立会演説会がはじまるまで他の人が座らないようにする。
 場所は、手話通訳と候補者が見える前列に数十人分を確保する、というものであった。
 さらに、立会演説会が始まったときに、ろうあ者の人々のために手話通訳が配置されていること、ろうあ者の場所が確保されていることを聴衆に説明し、理解を求める。
 また混乱がないよう選挙管理委委員会の責任者を配置するということであった。


 このようにして、日本で初めて公費による手話通訳保障・ろうあ者のための立会演説会参加の保障がはじまったのである。



障害児者への「予断」と「偏見」の「優生学」一掃の第一歩


Once upon a time 1969

 ビラをまいてすぐ京都府職員組合(当時:略称府職労)から、京都府ろうあ協会と話し合いたいとの申し入れがあった。
 「え、労働組合!と話し合い?」

 「ものすごく大きな労働組合らしいなぁ」
 「労働組合って何する組合?」
 ろうあ協会と労働組合の話し合いなんて過去まったく経験がなかった。
 とまどいつつも、ろうあ協会は、話し合いをすることになった。


  素直な意見に うちとける話し合い

 京都府の幹部と違う雰囲気、でも京都府で働く人。ろうあ者の多くはきょろきょろしながらも話に加わっていった。

 「えっ……私たちが京都府庁でビラをまいたのは……」
ろうあ協会事務局長は、京都府の福祉対策とろうあ者のねがいを説明した。

 府職労からは「手話通訳や手話通訳保障のことは分かるが、その他のことは分っていないので……」と率直な意見が出された。
 そのため雰囲気は逆にうちとけたものとなり、話し合いは和やかにすすんだ。
  
                                                                                     
労働組合がどんなことをする団体かも知らないが、話を聞いてもらえて
お互いの要求が交流できるなら
     それでいいじゃないか

 京都府庁で働く職員としては、住民から出されてくるさまざまな要求を知りたくても、机上の事務作業で、要求の意味や要求が出されてきた背景・実態を充分知りにくく、それでいて直接住民に関する仕事をしなければならないという矛盾も出された。

「なるほど話を聞いてよく解りわかりました。みなさんが私たちの要求を知り、私たちがみなさんの要求を知ることが出来ればこれほど心強いことはない。これからの交渉には、京都府の幹部だけではなく、府職労のみなさんも参加してください。また、参加できるように京都府に要求します。」

とろうあ協会事務局長は話をまとめた。

 障害者団体の交渉に京都府の幹部だけではなく、労働組合の代表も参加してもらうようにする、ろうあ協会のみんなは納得したが、驚いたのは府職労の役員だった。
 府職労としてそのような経験もないし、ましてやろうあ協会の交渉に参加するとは前代未聞のことであった。
 労働組合がどんなことをする団体かも知らないろうあ者は、話を聞いてもらえて、お互いの要求が交流できるならそれでいいじゃないか、という素直な発想だった。

ナチスによって暴力的にすすめられた
       「優生学」を一掃する幕開け

 この話し合い以降、京都府では、京都府社会福祉対策協議会事務局長の発言は訂正され、府民向けの冊子とともに各部局で、医療と福祉と教育の正しい連携の方向が模索されていく。
 特に公衆衛生(Public Health 地域社会をとおして国民の健康を保護増進する活動。)担当の衛生部では、各保健所の乳幼児検診や保健衛生指導、保健婦学校などで障害児者の理解と配慮が徹底されていくことになる。
 それは、「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、産まれないようにするのが基本である」というアメリカで生まれ、特にナチスによって暴力的にすすめられた「優生学」を一掃することでもあった。

  ブログ「 2011年10月 先天性・後天性・遺伝・「断種」と親や障害児者の哀しみ」(参照)

  ろうあ者の結婚、出産、育児、教育ということへの「偏見」を打ち砕く大きな一歩を、ろうあ協会とその仲間たちの勇気ある行動が、小さな道から大きな道へと切り拓いた出来事であった。

2012年1月27日金曜日

医学的整備のみで障害者福祉がすすむという考えの幻想と危険


Once upon a time 1969

 真の「発生予防」とはなにか

 沖縄の風疹障害児のことは、新聞・テレビでよくご存じのこととおもいます。
 真の障害者の発生予防は、今日の職場合理化から生まれる労働災害・精神障害・ノイローゼ・交通事故・サリドマイド渦・公害など社会矛盾によって障害者が日々作られているという現実をしっかりと認識し、その根源をうけとめ対策を立て府民のくらしと健康を守っていくことであって、当

の被害者である障害者に対して「子供を生むな」ということになるはずがありません。

 
 医学的体制の整備のみで

   障害者の福祉が実現するかのような幻想の危険

 福対協事務局のこのような立場は、「障害者は作られている」という今日の社会矛盾を告発することも、「障害者の人権が守られていない」という現実を直視することもせず、単に医学的体制の整備のみで障害者の福祉が実現するかのような幻想上に今後立っていく危険を示しています。
 それは、真の障害者の要求をすりかえ障害者がつくられているということを肯定していくものです。私たちは福対協事務局のこのような誤った姿勢を正し、

「身体障害者の方がたにも本当に生きがいのある地方自治を実現することを約束します。」(府議会での蜷川知事の答弁)

という府政の政策を実現していくためにも、私たちろうあ者の要求がもっともっと正しくくみ上げられなければならないと思っています。

    私たちの要求

 私たちは、当面次のような要求を持っています。

1,ろうあ者のための手話通訳を制度化せよ
2,手話通訳の養成を
3,京都ろうあセンターの事業に行政は責任を持て
4,教育をうけられないろうあ者に生活訓練を
5,ろうあ老人・ろうあ婦人が安心して働ける場を
6,ろうあ者の社会教育を一層発展させよ



  京都府職員の皆さん

 私たちろうあ者を含めた障害者政策の推進は、社会課だけでなく、全京都府職員の皆さんの理解と援助によってこそ、発展するものであることを痛感しております。
 京都府が、私たちの切実な要求に答え真の障害者施策を推進するために、みなさんの御理解とご支援を訴えます。
 このことにより、蜷川知事の意図された福対協の立場が明らかになることと、期待しております。



 わずか9日の間に
読み書きも充分出来ないろうあ者も含めて連日深夜の論議から

京都府幹部との交渉から明るみになった

「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、産まれないようにするのが基本である」



ことへのろうあ協会の意見であった。

 わずか9日の間に読み書きも充分出来ないろうあ者も含めて連日深夜の論議が繰り返されて、1969年9月7日の深夜からガリ版刷りされたビラ。
 みんなの思いが込められていた。
 

 このような努力の中で、聞こえる人々に自分たちの思いを知らせること、このような表現でいいのか、いやこのような表現がいい、と繰り返し、繰り返し相談しながら「みんなのビラ」が作り上げらたれてきたのである。

 読み書きをこのような中で獲得してきたろうあ者は少なくない。
 文字は、自分たちの気持ちや要求を表現するのだと知ったろうあ者の読み書きの獲得には目を見張るものがあった。

 残ったビラを「何度も、何度も」写して文字を覚えたろうあ者も少なくなかった。 
 文字の獲得と同時に自分たちの思いを現す喜びを獲得していった。


障害者政策の推進は
 全京都府職員の皆さんの理解と援助によってこそ、発展する

 よく、手話通訳やろうあ者福祉は京都だから出来たのだ、と他府県の人から言われることが多い。また、現代の京都の人でもそう言い切る。
 だが、その人々はろうあ者が次の世代やろうあ者だけのことではなく障害者全体のことを考えていたこと。
 どれだけ勇気をふるって京都府庁前でビラをまいたか。
 また会社を遅刻したことを理由に薄給から、それでもまだ賃金カットされた、大幅な収入減それでも行動したことを知る人は少ない。



 私たちろうあ者を含めた障害者政策の推進は、全京都府職員の皆さんの理解と援助によってこそ、発展するものであることを痛感しております。京都府が、私たちの切実な要求に答え真の障害者施策を推進するために、みなさんの御理解とご支援を訴えます。

とみんなの考えがまとまったことは、それまでのろうあ者の取組が結実された結果だとも言える。

 このビラが、京都府全体に与えた影響は非常に大きかった。

2012年1月24日火曜日

ひとつひとつに思いを込めて ひとりひとりの京都府職員に思いをたくす


Once upon a time 1969

人々が陽炎に見える早朝 ぞくぞく集まるろうあ者
 
 秋口と言っても京都の9月は大地から熱が立ち込める。

 その熱が朝になっても消えることはない。
 人々が陽炎に見える早朝。
 集合時間よりも1時間以上も早く続々とろうあ者かが京都府庁に集まってきた。


 それぞれ、4カ所に別れて、ろうあ協会のビラをもつ。

 「生きがいのある障害者の暮らしをきずくために 障害者の要求にこたえた京都府政をさらに発展させよう。社団法人京都府ろうあ協会」

というタイトルの京都府職員みなさんへというビラである。



    不安で眠れず、複雑な気持ちは共通
           真剣だったが初めての経験

 夜を徹して印刷されたビラは、1500枚を超えインキも充分乾ききっていなかった。
 各4カ所では、それぞれビラの中身が説明された。ウンウン、ソウソウ、みんな満足していた。
 集まったのはろうあ協会役員だけでない。

 主婦、青年、そして遅刻すると賃金カット、皆勤手当ゼロを覚悟したろうあ者があまりにも多かった。

「遅刻したらお金減るやんか。」
「カマヘン、カマヘン」
「遅刻認められたん?」
「課長がカンカンになっている様子やったけど、今日はマカせて。」


 みんな真剣だったが初めての経験。
 不安で眠れず、複雑な気持ちは、共通していた。


  初めてのビラまき ひとつひとつに思いを込めて
     ひとりひとりの職員に

 
 京都府職員は、府庁の正門からやってくるとは限らない。

 4カ所の入り口から入ってくると事前の調査で分かっていた。
 ひとり、ふたり、と京都府職員が京都府庁にやってくる。
 ろうあ者は必死になって駆け寄り、受け取ってもらえると大喜びした。
 「あー読んでくれている。」
たちまちろうあ者は笑顔になった。


 続々とやってくる府職員に、だれひとり渡せないことがあってはいけないとろうあ者は必死だった。
 どどっとおしよせる府職員。
 必死になって頭を下げてビラを手渡すろうあ者。
 一度、府庁に入った職員が駆け込んできた。

 「もっとください、出張に出ていない人にも渡しますから」
との申し入れだった。
 ろうあ者は、手話で合図をしながら大喜び。
 時間はあっという間に去り、みんなは仕事場に駆け出していった。


  私たちにとって見すごすことの出来ない
    誤った差別的見解の表明をうけた

 1969年9月8日の出来事であった。

 ビラには次のような事が書かれていた。

 私たちは、8月30日。
 京都府社会課を中心とした福祉関係者との交渉を持ちました。
 その目的は、今度、私たちの努力と京都市の援助によって発足の運びとなった、京都ろうあセンターの運営に関し、府の責任と方針を明確にし、併せて、私たちの日常の生活に欠くことのできない、手話通訳制度の確立をはかるものでした。
 蜷川知事は、基本的に私たちの要求を支持しておられます。
 このことによってよって私たちは、府の積極的な姿勢を期待しておりました。


 しかし、社会課の解答は、私たちの要求について京都府社会福祉対策協議会の答申待ちという、誠意のないものであるだけでなく、福対協事務局長から次のような私たちにとって見すごすことの出来ない誤った差別的見解の表明をうけました。

  社会福祉対策協議会の問題点

 蜷川知事は、身体障害者対策の確立をはかるために、京都府社会福祉対策協議会を設置されました。
 これは、私たちにとって大切な要求を反映させる拠点として評価しております。
 しかし、府交渉の席上で、当の福対協の事務局は、私たちの切実な要求の答えて、
「障害児者の発生予防を重視する」
という発言を行いました。


 これでは、身体障害者に対する社会保障が十分にととのっていない今の状況と社会的偏見と、結婚してもまだ親の経済的援助にたよらねば生活していけない低賃金の中で、自分の希望で子供を生むことすら出来ないろうあ者の悲痛な要求に対して、

「その通り子供を生まさせない対策を考えている」
という冷酷な答えになりかねません。

                                                                                                ( つづく )


                





2012年1月23日月曜日

障害者は産むな これが障害者福祉の基本


Once upon a time 1969

 交渉でろうあ者の青年が発言した買い物のはなしは、すべてがそうではなかった。
 現在では、食材を買うのにスパーに行けばすべての値段表示がされている。
 そのため買ったものはすべてレジに表示され、レシートが渡される。
 青年が発言した当時は、ほとんどが小売りだった。
 野菜、魚、肉、果物などなどすべてが小売店舗で買うため、店の人とのコミニケーションで困るという発言である。


 店の人と話もすることもなく
コミニケーションは不要になったが 失われた人間のふれ合い

 店の人は、買いに来た人が聞こえない人だと知ったら、身振り手振りではなしもしてくれたし、書いてもくれたし、煮物焼き物などの料理方法も、「こうすりゃおいしい」と教えてくれたりした。
 


  「おいしい」「500円」などの簡単な手話も覚えて、次第に店や商店街に溶け込んでいったろうあ者も少なくない。
 また肉をさばく、魚をさばくなどの仕事をしていたろうあ者もいた。その店に行けば、ろうあ者同士などの場合は、特に目方を多めに入れてくれたりしていた。
 今日では、店の人と話もすることもなくコミニケーションは不要だが、それは逆に人間のふれ合いをなくしてしまっている。





 障害者福祉の対策は、障害者が産まない
       障害者が産まれないようにするのが
                 基本と府幹部

 京都府の幹部との交渉は、まだまだ続きがある。
 交渉の中で府の幹部が、


「京都府の総合的な対策を確立するため、京都府社会福祉対策協議会なる知事の諮問機関が作られている。」

 その事務局長が、

「障害者福祉の対策は、障害者が産まれないよう、産まれないようにするのが基本である」

と主張。
 そのため会場は騒然となった。

 机をたたくろうあ者はや泣き出すろうあ者。
 苦しかった過去を振り返って俯くろうあ者など終始が着かなくなってしまった。

結婚に大反対されて、それでも結婚して生まれた子どもがこの子だ
 この子を産んだのが間違いというのか

 ろうあ者は大声を出して手話で発言したが、声が「鮮明」でないため手話通訳者はろうあ者の声のトーンに合わせて大声を出しながら手話通訳した。

「私たちに対する、あやまった偏見を助長するものだ。」
「障害者は結婚するなというのか。」
「私は、結婚に大反対されて、それでも結婚して生まれた子どもがこの子だ。この子を産んだのが間違いというのか。」
「この子が産まれてうれしいし、喜んでいる。そうじゃないというの。」
「障害のある人がナゼ産まれるのかという社会的背景をまったくぬきにしている。」
「障害児者が産まれなかったら、産まれないようにしたら社会福祉は不必要になると言うことなのか。」
「障害者が生きる喜びを持てるようにして、そのことをもっと社会に知らしていかなければならないのではないか。」
「そういうことを京都府がしてこそ、障害者と多くの府民が手をつなげる。それを分断するようなことを京都府がするのか。」
「知事は、ろうあ者のみなさんが本当に生きがいのある社会にするようこれはお約束すると言ったではないか。」
「あなたたちに言うようなことで、生きがいなんてどうして出るの。」
                                                      「生きがいと、産むな、と言うことはまったく対立する。」

抗議の嵐が交渉の会場に吹き荒れた。

   京都府幹部に駆け寄り詰め寄るろうあ者の怒り

 京都府の幹部は、青ざめて俯いたまま。
 ろうあ者は、次から次へと手を挙げ発言し、発言はとどまることはなかった。

 騒然とした状況のママで交渉は時間切れとなったが、引き上げる京都府の幹部にろうあ者は詰め寄って、幹部は「帰らせてください。」ばかりを言った。

 ろうあ者の怒りは収まることはなかったが、会場の後片付けは冷静にいつものように京都府職員と一緒に行った。


 ろうあ協会役員は、ことの重大性を感じ、その後ろうあセンターに集まり深夜を越す論議が続き、一つの行動をすることで一致した。




2012年1月22日日曜日

手話通訳よ休め 私の話が分かりますか?


Once upon a time 1969

 京都府民生労働部との交渉は、ろうあ協会の役員ばかりか会員も大喜びの結果を産んだ。
 それまで、行政に直接意見を言うということがなかったため、直接言えた、と言うことはろうあ者の中で大きな波紋をおこし、その波紋は広がり続けた。
 行政とのやりとりは、簡単なものではない。

 とうていもの言えないと思い込んでいたのが、3人の手話通訳者の手話通訳保障で可能になった。

  聞こえる人 ⇔ ろうあ者 というコミニケーションが可能に

 言いたいことが言えるのだ、と言う喜び、同時に何かわけの分からないことを言っていた京都府の幹部の表情が変わった。
 私たちの言っていることが、誤魔化しを射貫いた。
 この時の交渉は、あとあと語り継がれることになるが、もっとみんなの心驚かせる京都府との交渉がはじまる。


 1960年代は、1000人以上の人々が集まるさまざまな集会にろうあ者も参加していたし、手話通訳も会場で手話通訳をしていた。
 でも、3人体制の手話通訳保障は、それまでの手話通訳を塗り替えることとなった。

 なぜなら、それまでは、聞こえる人 ⇒ ろうあ者 ・ろうあ者 ⇒ 聞こえる人 という手話通訳だったものが 聞こえる人 ⇔ ろうあ者 というコミニケーションが可能になったからである。


しかも、ろうあ者が圧倒的に多数の中での交渉。

 力を合わせれば、力の強い行政をはねのけ自分たちの要求が言えるようになる。
 この、言った要求が本当に実現されるようにしたい。
 どうしたらいいのか、などの意見がろうあ協会の役員への問い合わせとなったし、京都ろうあセンターにやってくるろうあ者のほとんどは、「交渉・よい(交渉はよかった)」と言った。


    「手話通訳をやめてほしい。」と突然言い出した青年

 さて、第二回目の府の幹部との交渉は、第一回とは大きく異なった。
 その間、何度も役員レベルでのはなしをという申し出でを断ったろうあ協会は、府の幹部がやってくる前に集まっていたろう者と意見交換をしていた。
 交渉がはじまっても、府の幹部の話し方は、以前と大きく異なっていた。
 争点が、手話通訳の設置についての問題になった時に、一人のろうあ者の青年が立ち上がり、

「手話通訳をやめてほしい。」
と突然言い出した。
 3人の手話通訳者に、自分が言うこと(手話で)を手話通訳しないでほしい、と言うことだった。
 その場に居たろうあ者もキョトンとしてしまった。
  手話通訳者もあっけにとられた。
 しかし、青年の言い分を聞いて手話通訳をしないことになった。


「課長さん、私の言っていること分かりますか。」
    「分かりますか。」「どうです。分かりますか。」

 青年は、

「私たちが街で買い物をする時、値段が書いていない場合、これいくらですか、と聞くことが非常に難しく、ましてや聞こえる人のように値切ったり、おまけしてもらったりすることはあまりない。」
「ろうあ者の中には、そういうことを聞けないためにいつもお札を出して、おつりでいくらかを計算して知るようにしている。」
「だから、いつも小銭だらけになってしまう。」
「働いている時も、聞こえる人と充分はなしが出来ず、給料が低すぎても分からないままでいる。」
「課長さん、私の言っていること分かりますか。」
「分かりますか。」
「どうです。分かりますか。」


と手話で話しかけた。
 課長や府の幹部は、自分たちに何かを言っていることは分かっても、何を言っているのか分からずポカーンとしたままだった。

そして青年は、

「手話通訳を始めてください。」
「私が、今、言ったことがあなたたちに分かりましたか。」
「あなたたちは、分からないでしょう。」
「京都府と私たちがはなしをする時、手話通訳がなければ京都府と話が出来ないのです。そうでしょ。」
「手話通訳が必要なんです。」
「私たちは、いつもあなたたちが今、私の話が分からなかった状況にいつも置かれているのですよ。」


と言い切った。
 京都府の幹部は、その話を聞いてただうなずくしかなかった。


「ドンドンするのは止めてください。」と言ってきた
   管理人さんから学んだことを行動に

 その青年が、そのような方法で京都府の幹部に迫ったのには、訳があった。
 U市の公民館で府との交渉を話している時に、ろうあ者同士のはなしが熱を帯びてきた。
 「俺の話を聞いてくれ!」
とみんなに注目してもらうためにろうあ者は、しばしば机をドンドンとたたいたり、床をドンドンと鳴らしてその振動でみんなをふりむかせたりしていた。
 一人でも気がつくと、両手を上下に振って、OOさんを指さして注目させるやり方だった。


 ところが、公民館の管理人さんがやってきて、「ドンドンするのは止めてください。」と言ってきた。それほどみんなの意見は熱を帯びていた。

と、その時、

「そうだ!これだ。」
「公民館を貸りるだけでも大変だったのにこれでは、貸してもらえなくなる。」
「私たちは、聞こえないからあまり気にしていなかったけど、机をたたいたりすると聞こえる人にはうるさいと言うことを忘れていた。」
「だから、私たちが気兼ねなく集えるセンターが必要なんだ。」
「公民館の管理人さんにも私たちがわざと、ドンドンとしていたことでないことを知ってもらうためにも手話通訳が必要なんだ。」


 
という話になった。

 だから、手話通訳をやめてもらって逆に私たちの気持ちを知ってもらおうということでまとまったらしかった。

 さまざまなところから学び、工夫をすることで要求の内容を知ってもらおうと
考えも湧き出てきたのである。


 青年の「手話通訳をやめてほしい。」は、京都府の幹部を充分理解させたことは、あとあとになって分かってくる。

誠実な訴えと行動が 逃げばかり考える行政の言い分を崩落させた


Once upon a time 1969

 手話通訳の3名配置と言うことは、ろうあ者の手話通訳保障として画期的な出来事であった。
 それまでは、聞こえる側が言う、ろうあ者側が言う、というやりとりの往復であったが、

エキサイトした場合。
ただただ時間つぶしをして事を済まそうとする場合。
だけでなく論点がそれていった場合などなど素早く対応することが出来るようになったからである。
 ようは、ろうあ者の主張を保障する手話通訳配置として重要な意味合いがあった。
 今日、手話通訳を情報保障とする言い方をする人々があるが、
そこには、
ダレのための
ナンのため
包み隠さず情報が開示されているのかどうか
は問題にされず、コレコレコノコトを言った、という「アリバイ情報」が多いように思える。
 あくまでもろうあ者の言いたいことがキチント言える保障。
 それが手話通訳保障であると京都の手話通訳者の中では徹底されていた時代があった。

 こころから喜ぶと同時に
     府としても出来るだけ援助をしてまいりたい

 ろうあ協会役員が和紙に包まれた知事の祝辞が書かれた文章を広げ、読んだ。

「皆さんがつくられた京都ろうあセンターにこころから喜ぶと同時に、府としても出来るだけ援助をしてまいりたいと……」

と知事の今年開かれたろうあ者新年大会に寄せられた祝辞にハッキリ書かれているではないか、

京都府の担当幹部は、
「知事が京都ろうあセンターの必要を認め援助すると言っているのに担当部・課はそれを認めないというのか。」
「京都府議会本会議場で手話通訳が議場内ですることを認められた。」
「その手話通訳をしたのは、京都府職員ではないか。」
「京都府議会は、手話通訳の必要を認めたというのに担当部・課は必要ないというのか。」


 京都府の幹部は、驚きの表情と矢継ぎ早の追求の前で黙り込んでしまった。
 まさか、こんなところで知事の祝辞が出されるとは思ってもいなかった、驚いたばかりではなく、重大な部・課の責任を感じていたからである。


     剥がれ落ちた言い分と逃げと詫び

 当時、京都府知事は知事宛の手紙や文章をほとんど読んでいた。
 祝辞などは、担当課、すなわち今回の場合は、民生労働部社会課が起案し、課長も目を通した上で知事の決裁がおりていた。
 知事はこのような祝辞に対してもしばしば筆を入れ、訂正するのが常だったためろうあ協会の言っていることに対してまったく否定できなかった。
 そればかりか、あの祝辞の最初は、担当課である私が「起案」したものである、と言えば、


 「団体としてなされていることは充分承知していますが、団体がなされることで行政といたしましては……」
「善処していますが、とうてい出来かけることではないので……」
「言われていることはそうのとおりですが……」


と言っていたことがすべてウソになる。
 いいかげんに事を済まそうとしていたことがすべて明るみに出る。
 この場合、行政はひたすら逃げの手を打つ。
 その方法は、黙ると言うことしかなかった。



   雪崩のごとく手話が舞飛ぶ訴えと手話通訳

 交渉の場は、一転してろうあ者の表情が生き生きして、次から次へと要求が出されるになった。

 その度、そうや、そうだ、とうなづいたろうあ者は、それなら私も言いたいことがあると雪崩のごとく手話が舞飛んだ。

 3人の手話通訳者は、それぞれのろうあ者を同時にそれぞれ手話通訳したため会場は、要求の声も飛び交い、京都府民生労働部・課は、ひたすら
「お話をおうかがいをして、部・課で検討させてください。」
と平身低頭の姿勢に変わった。

 「今回は、ここまでで終わらせてください。」

と言う京都府の幹部に対して、

「じゃ、次回はいつ。時間も考えてほしい。残業しないと生活できないからはじめるのを遅くしてほしい。」
「次回は、もっと広い場所で、手話通訳も3人は絶対配置するようにしてほしい。」


というろうあ者の「声」えに押されて、京都府の幹部は、
「そのようにします。」
と言うことになった。
 いつものことだが、交渉が終わると京都府の幹部はすぐ帰り、記録をメモしていた京都府職員が会場整理をしはじめた。
 ところが、ほとんどのろうあ者が残って机イスの整理から掃除まですべてをあっという間に仕上げて、ひとりひとり職員に頭を下げ、手話で簡単な合図を送って帰った。


 京都府職員の顔を見ているだけでも、感激と新しい世界がはじまることが予測できた。

  事実そうだった。



 

2012年1月20日金曜日

苦境に立たされた時の新しい知恵と真実で行政を追い詰める着想


Once upon a time 1969

     何とろうあ者の多いことか


  京都府ろうあ協会はじまって以来の140名を超す大規模な京都府との交渉。
 京都府の幹部は、その人数の多さだけでなく、作業服のママやってくるろうあ者や家族ぐるみでやってくるろうあ者の様子を間近に見て非常に驚いたようである。
 Oさんが、初めてろう学校を見学した時の気持ちのように、何とろうあ者の多いことかと思った、とのちのち打ち明けられた。

 机上での仕事で、ろうあ者の人数は把握しているものの実際に出会うとまったく違う印象をもつのはごくごく自然なことだったが。

   ろうあ者の目は、手話通訳に釘付けに

 手話通訳者は京都府の責任で2人のベテランが配置され、それぞれ京都府の幹部のながずくえの側に立ち手話通訳された。

 140名余のろうあ者の目は、手話通訳に釘付けになった。

 だが、真剣な眼差しに映ったのは、社会課長の「団体の自主的活動に対して京都府としては……」の繰り返し。
 ことばを手話通訳する場合は、ことばのごまかしはあまり効かない。


 「分かった振り」をしていることは手話の上では一目瞭然

例えば、
「団体としてなされていることは充分承知していますが、団体がなされることで行政といたしましては……」
「善処していますが、とうてい出来かけることではないので……」
「言われていることはそうのとおりですが……」


など決まり切った行政の言い方がある。
「承知しています が 」
「善処しています が 」
「そうのとおりです が 」

の「が」は手話では、「けれど」に置き換えられる。
 すなわち、「手のひらをくつがえす手話」のとうり「先に言ったことが、くつがえす、」ことになる。
 「分かった振り」をしていることは手話の上では一目瞭然になる。





京都府が同じことばかり繰り返し言っているんやで。
   ことばで、ごまかしとる

  ろうあ者の中に京都府に対する少なくない信頼があったため

「どうも手話通訳がまちがって通訳しているのではないか」
「いや、京都で一番信頼する手話通訳者の二人がそんなことをするはずがない。」
「あれは、京都府が同じことばかり繰り返し言っているんやで。ことばで、ごまかしとるんや」


という手話のざわめきが次第に多くなった。
 そこで、ろうあ協会役員から


「京都府が言う、聞く、答えると言うのは平等ではない。」
「私たちが、主張している時に、京都府がはなしを遮ることがある。それならば、もう一人手話通訳をわれわれの側につくようにしてほしい。」


という申し入れがされた。
 京都府がろうあ協会のはなしを遮るなら、私たちにもはなしを遮ることが出来るようにすべきであって、今のままではただ同じことの繰り返しのはなしをされるだけになる。
と言うのがろうあ協会の主張であった。
 このことは、京都府もすんなり認めて、約140人を超える会場に3人の手話通訳者が配置され、手話通訳が行われたが、京都府の幹部のの回答中にはなしを遮り、ろうあ協会側の主張が出来るようにされた。


  知事の祝辞に書かていたことは

 それでも京都府の幹部は、相変わらず、
 「団体がなされることで行政といたしましては……」を繰り返したが、その時、「ちょっと待ってください。」とろうあ協会から回答を遮る話が出された。


「あなたたちは、京都府を代表していっておられるのですね。それは、知事も同じ考えと言うことですか。」
「もちろんです。」


「では、ここに今年のろうあ者新年大会に寄せられた知事の祝辞があります。それを読ませていただきます。」

とろうあ協会役員が和紙に包まれた知事の祝辞が書かれた文章を広げ、読みはじめた。

2012年1月19日木曜日

くすぶっていた火種から 火花が飛びはじめた


Once upon a time 1969

 焼肉をつつく中で新しい勇気に火がついた

「ろうあ協会役員交渉や話し合いだけではダメなんだ。みんなと一緒に京都府や京都市と交渉しようではないか。」
「みんなの知恵と力も借りよう。」
「みんなに、行政の言っていることを直接知ってもらおう。」


と言うことで意見がまとまった。
 その時、ナゼか、炭化しかけた焼肉があっという間に平らげられ、のれんをくぐって帰る時のみんなの表情は明るかった。


     事態を甘く見ていた京都府の幹部は簡単に承諾

 それからは、二つの困難が待ち受けていた。
 一つは行政。


 それまで、部や課の隅っこで話していたのが、大きな会議室をようにしてほしいというろうあ協会の要求。
 なにもそこまでしなくても、部屋を借りるのは大変だ。
 庁舎では限られる。
 場所を借りるのにはお金がかかるなどなど言っていたが、まさか大事にはなるとは思ってはいなかった。
 結局、まあ、どこか大きな部屋でも借りようか、となり、ろうあ協会の話し合いは、会議室を借りると回答されてきた。

「ひえっ、役所に言ってもかまへんの」

 行政は、それですんだが大変だったのは、ろうあ協会の役員であった。
 今日は南でろうあ協会の支部の集いがあると分かれば、そこに行き、交渉の全員参加を訴える。北は、どこどこ行ってとすべて歩いたり、列車バスを乗り継いでの連絡であった。

 ひとりひとりに会って説明する時間と労力は、今日では信じられないほどの困難さがあった。
 でも、ひとりひとりに会うことは、心が通じあうことでもあり、ろうあ者から自分はこんなことで困っている交渉の時、話してもかまわないか、と言う声のように新しい具体的要求も出てきた。


「いいよいいよ、いったら」
「かまへんの(いいの?)」
「かまへん、かまへん」
「ひえっ、役所に言ってもかまへんの」


 はなしはどんどん広がり、「仕事が終わっても、とても参加できないがどうしたらいいの」という相談も次々寄せられるようになって来た。

京都府ろうあ協会
はじまって以来の
大規模な京都府との交渉

 ろうあ協会の役員は、みんなから出される参加するための困難を、ひとつひとつ解決するように努力した。

 同時に、ろうあ協会の要求書、京都府・市の回答などももう一度みんなでひとつひとつ相談し、学習し合った。
 そして、京都府ろうあ協会はじまって依頼の大規模な京都府との交渉がはじまった。1969年のことである。

 初めての大規模交渉は、京都府立勤労会館の会議室(100名規模)に約140名のろうあ協会会員が集まった。



  席を譲り合う中でも、多くのろうあ者が立ち見席にならざるをえなかった。

 満員。

 京都府の幹部は、そんなにはくるはずがない、と思い込んでいただけけに続々と詰めかけるろうあ者をみて、次第に自分たちが甘く考えてきたことにたじろぎを示したが、今更どうしようもない状況に追い込まれた。

 そして交渉(ろうあ協会側の言い方。京都府はあくまで話し合い、と言っていたが。)がはじまった。
 

2012年1月18日水曜日

炭化しはじめた焼肉から 行政の論理を打ち破る方向が見えだしてきた


Once upon a time 1969

      ろうあ者の基本的な要求 ( その5 )

10,生活保障


 イ、日常の生活についていつでも相談が出来て、実際的な援助をうけることの出来る施設を設ける。
  ロ、職業訓練を受ける施設を設け、その訓練期間中の生活の保障を行う。
 ハ、働くことも出来ない、また社会生活に著しい困難を来しているろうあ者に対し、生活の保護を行い、また生活訓練の実施できる施設を設ける。
 ニ、有給休暇をもっと多く、生活にゆとりとうるおいを与えるようにする。


11,平和の保障

 以上の政策を実現させるために、戦争をなくし、平和を守り、軍備に金を使わないようにする。
 そして無用の人命の損失のないようにする。

※ ろうあ者の政策のすべてを「戦争をなくし平和」に置いている点は、戦前・戦後を生き抜いてきたろうあ者の最も基本的な要求としてまとめられている。
 戦争がなく平和であること、このこと抜きに幸せも福祉もない、とする考えは、注目すべきことだろう。
 事実、ろうあ者は、障害者運動だけでなく、平和を求める運動に積極的に参加していく。
 そのため、平和に関わる手話表現が多彩に示されていく。

団体の自主活動
なので行政が補助
することは出来ない

 これらの基本要求をもとに京都府ろうあ協会は、特別指定都市であった京都市と京都市に対して、京都ろうあセンターへの補助をはじめ、ろうあ者の切実な要求をもとに要求書を提出。
 だが、京都市・京都府の幹部はこれらの要求に対して首を振りもしなかった。

 例えば、京都ろうあセンターの事業は、
「団体の自主活動なので行政が補助することは出来ない……」
「手話通訳や生活相談の事業なども団体がしていることだから。」
とろうあ協会の要求とまったく平行線の状況が続いた。


行政の不理解に 憔悴しきったろうあ者の顔、顔

 行政の繰り返すだけのことばに疲れはてて、京都府庁裏の焼肉屋で、みんなが集まって話し合いをした。
 焼き肉の煙がもうもうとたちこめる中での、手話でのはなし。
 消耗感も重なってみんなの顔がすすけて見えたが笑いひとつ出てこなかった。
「ナゼやろう」
「京都府ならいちいち言わなくてもやってくれると考えていたのに……」

 仕事の疲れ以上に期待が外れたみんなには、疲労が大波になって押し寄せてきていた。
 淡い恋心が壊れた、以上の憔悴しきったろうあ者の顔、顔。
 手話も
出来ず、うっむいていたみんな。

みんなと同じ深刻な気持ちに、会員がなっているだろうか

 どれくらい時間が経っただろうか。
 焼肉が炭化寸前になった頃、あるろうあ者からポッリ、ポッリと手話が動き始めた。


 「いつもろうあ協会の役員と役所の幹部との話だけで交渉している。」
 「ろうあ協会の会員のみんなは、みんな話の中身を充分知っているだろうか。」
 「今のみんなと同じ深刻な気持ちに、会員がなっているだろうか。」




2012年1月17日火曜日

文化活動の発展で豊かな生活を


Once upon a time 1969

   ろうあ者の基本的な要求 ( その4 )

9、文化活動を発展させ、より豊かな生活のための保障


 イ、スポーツ活動・文化活動の場所を作り、活動を補助し、その発展を図る。
 ロ、サークル活動の発展に力をつくす。
  ニ、交通戦争をなくし、運転免許を与える。


 2011年12月「非常に悲しい話をしているのに笑顔と笑いだけが残るろうあ者成人講座がはじまった」の項でふれたが、学ぶことは、生きることであり、生きる喜びでもあった。
 そのことを切実に感じているがゆえんに、この文化、スポーツ活動の要求が出てきている。
 図書館の利用をスムースにということも、公立図書館利用上ろうあ者にとってコミニケーションの問題から非常に利用しづらいことからも出されている。

 しかし、その一方で、ろうあ者や聴覚障害に関する図書の保存と閲覧という問題も含まれていた。
 ろうあセンター設立時には、「ろうあ者問題に対する研究、および実態調査の実施、またそのために必要な資料を収集する。」ということで、多くの方々から書籍をはじめ資料が寄贈されたが、それらはその後継承されず、戦前戦後のろうあ者問題に関する系統的な文献は保存されていない。
 自分たちの足跡を未来に、というろうあ者の考えは卓越したものがあった。

 サークル活動としては、ろうあ協会内に、美術、演劇、写真、読書などのサークルが作られ熱心な取り組みが進められていた。

 当時は、ろうあ者にとって運転免許は大幅に制限されていた。聞こえないから危険だという理由で。
 この問題をめぐって裁判にもなっていたが、その後の運動の中で大幅に緩和されていくことになるが、「交通戦争をなくし」ということを前提にして、ろうあ者の自動車等の免許取得を打ち出していることなど、安全性の基本的問題に迫りつつろうあ者の免許取得を打ち出しているところは、大いに注目される事項である。


 なお、前回触れていないかったが、「6,医療の保障」は、医療を受ける以前の問題として、聞こえないことを理由に医療が受けられなかったり、コミニケーションが不十分で医療過誤が起きたり、受け付けられたものの「診察の呼び出し」が聞こえず、最後の診察になるなどの問題が山積していた。

 しかし、今日の状況は、天と地のちがいがあると言っていいだろう。

 だが、保険証を持っている限りは、自己負担がゼロであった時代を考えて見ると、少なくない矛盾が見えてくる。












2012年1月16日月曜日

公正裁判の保障と住宅と老後の保障の基本要求


Once upon a time 1969

    ろうあ者の基本的な要求 ( その3 )

5,公正裁判の保障

 イ、ろうあ者が裁判をうける場合、不利益な扱いをうけることのないようにする。
 ロ、いつでも傍聴できるよう手話通訳を配置する。


※ 裁判だけでなく、取り調べ段階で多くの問題もあった。取り調べ調書の段階から、取調官はろうあ者のコミニケーション保障を無視したり、意図的調書がつくられるようになっていた。
 黙秘権の告知もさまざまな言い方があり、基礎的知識がないとろうあ者はもちろん手話通訳者が重大な間違いを犯す危険性があった。
 当時、京都の手話通訳者団では、警察・検察・裁判の手話通訳の依頼は同一人物にならないように申し入れたが、これは黙秘権の告知とも関係した。
 ろうあ者が、被疑者となった場合に同一の手話通訳者であれば、自供を翻すこともむずかしくなることなどなどのこともあり、警察・検察・裁判では各々了解が取れるようになっていた。
 公正裁判の問題となると問題が山積みであった。


6,医療の保障

  イ、保健医療の完備、いろいろな制限を設けない。
 ロ、聴力障害の医療を発展させる。


7,住宅の保障

 イ、公営住宅を大量に建設し、だれもが快適な住宅に住めるようにする。
 ロ、公害をなくし、住宅の環境を整備する。


※ ろうあ者が住めるところ、非常に限定されていた。
 賃貸住宅の場合も陰に陽に断られ、たとえ入居できもその契約条件が十分読めず、あとあと騙されることが少なくなかった。
 そのため、府営住宅、市営住宅、各町村住宅への入居は切実な要求であった。
 京都南部で、ある町長が、町営住宅の入居を勇断したことから、ろうあ者の中に公営住宅への入居を求める要求はさらに強まっていた。


8,老後の保障


 イ、ろうあ者の入れる老人ホームの建設。
 ロ、老人ホームの内容を豊かにより温かく。
 ハ、老後の生活を保障する。


※ 住宅問題と同様で老人ホームの入所は難しく、たとえ公営老人ホームに入居出来たろうあ者もそのコミニケーションと入居者とのコミニケーションがとれず孤独に苛まれることが多かった。
 特に対象となったのは、戦争による孤児だった人も多く、身寄りのない生活をどのように過ごすのかが深刻な問題だった。
 住宅問題と関連して、多くのろうあ者は会社の寮や住み込みで働いていたが、その住宅環境は悪く、寮や住み込みで働かせてやっているとして、休む暇のない仕事をさせられていた。

 高齢になると、大量や住み込みをやめさせるため、行く先のない状況に追い込まれていた。


2012年1月15日日曜日

コミニケーション保障と参政権保障


Once upon a time 1969

   ろうあ者の基本的な要求 ( その2 )

3,コミニケーションの保障


 イ、手話通訳を養成し、必要な公的機関に配置する。
 ロ、テレビに字幕をつけるなど、マスコミについても、ろうあ者に配慮する。
 ハ、補聴器の改善および普及に努力する。
 ニ、ビデオレコーダーなど聴力障害者に役立つ新機械の開発。
 ホ、ろうあ者問題について社会に啓発し、我々が話し合いに困らない、温かい社会をつ   くる。


※ ろうあ者のコミニケーション保障として、手話通訳だけ、と限定しないで聴覚機器、視覚機器等について、幅広く考えている証としてこの基本要求を考える必要があるだろう。
 現在、一部の人たちの中で手話通訳さえ補償されればすべての問題が解決するかのような傾向が見られ、昔から(この昔という年代がいつも不鮮明だが。)手話通訳を唯一ろうあ者は要求して来たとする考えが一方的に広められている。
 だが、京都においても全国的にも決してそうではなかったことをこの基本要求は証明している。

  コミニケーション保障の文中に「聴力障害者」という名称が書かれているが、この概念は当時から聴覚障害者全体を意味する立場から書かれている。
 この名称は、全日本ろうあ連名の機関紙が「日本聴力障害新聞」という名称で引き継がれていることにも見受けられる。

 ろうあ者もろうあ者という名称を嫌う人々も含めてコミニケーション保障をすすめて行こうという姿勢として理解する必要があるだろう。


 なお、現在、マスコミ各社は放送禁止用語、禁止コードなどさまざまな禁句集をつくっていてよく「不適切なことばを使いました。おわび申し上げます。」というような、どのようなことが不適切で、どのように言うべきであったのか、を明らかにしないでことなどなどを「ろうあ者に対する配慮する」として基本要求されているのではない。
  聞こえる人々と同じように伝達されるようにという基本要求であった。





 1969年当時、京都府ろうあ協会に白黒ポータブルビデオカメラ・録画機が寄贈されてみんなは小躍りした。
 これほど高価なものが自分たちの映像伝達手段として使えるとは夢にも思ってもみなかっからである。

 だが、ビデオテープは非常に高価で、みんなが見たあと消去せざるを得なかった。
 記録として残しておきたい、と思いながら泣く泣く消去したことが、後々のビデオ機器、ビデオ室、編集室へと発展させるエネルギーとなって行った。
 現在では、考えられないことだろう。

 なお、現在、テレビに字幕や手話通訳がつくことは広く普及しているが、普及と同時に手話禁止コードも密かにつくられていることはあまり知られていない。
 某放送局で、手話通訳をしていた故M氏に対して、放送局側からいくつかのクレームがついた。
 「ワイロ」という手話は、袖の下にお金を入れる表現をしていたが、放送局側から

「ワイロを受けとったかどうか裁判になっているのにお金を受け取ったかのような手話をすることはやめていただきたい。」
などなどのクレームがつき、故M氏は、
「困ったよ、ワイロという手話は、この表現だよね。」
と相談に来たことがある。
 この基本要求以降、マスコミとの関係はさまざまな問題が出てくるが、基本は、ろうあ者も聴覚障害者もわかるように、という基本であった。

4,参政権の保障

 イ、立合演説会に手話通訳を置く。
   その他について、ろうあ者が不利な扱いをうけることのないようにする。           
 

 
  ロ、議会に手話通訳を配し、必要な時はいつでも傍聴できるようにする。

※ ロについては、すでに京都府議会で実現されたことだが、すべての市町村議会においても同様のことが出来るように、というねがいも込められていた。

 イ、の立合演説会は現在廃止されてしまったが、この基本要求が実現することでろうあ者の政治や国・地方自治に対する急速な関心が高まることになる。
 このことは、別途説明したい。