Once upon a time 1969
さて、後藤勝美さんの画集「眠りから醒めて」の文の最後の文章を掲載させていただく。
(私の描く風景画は)
それは電柱であったり、木のクイであったりだ。
入れないと気がすまないのは、なぜか自分でもわからない。そんな私である。
取材には、海外にもよく出かける。
役職時代によく湧外へ出張し、一寸の時間をスケッチした。
再開(画業)以来は、スケッチのための海外取材が多くなったが、9日~11日間の旅行で45~50枚は描いて帰国する。
楽しいことこの上もない。
1枚描くのに20~30分 もあれば
1枚描くのに20~30分もあればよい。
輪郭し、色付けして.最後には仕上げる。
この工程をすべて現場で行い、次のモチーフへ移動しては描く。
そして、大抵は単身で行動する。
私の使用する画材は、ペリカン社の透明固型えのぐ(12色)が多く、スケッチブックは、ワトソン社の4号か6号を利用している。
これに水容器2個と折たたみ椅子。鉛筆はB7かB8一本で通している。
カメラもかかえて、描きにくい場所や時間がない時は、これでパチリパチリ……という具合だ。
以上が私の取材"7つ道具"である。
そろそろ自分の画を出さんといかん
そろそろ自分の画を出さんといかんー、自分は、どんな画を描く画家をめざすべきなのかーと考えつつ、今日に至った。
もしかしたら、もう出はじめているかも知れない。
しかし、これほどむつかしいものはない。
もし出来たとしても、どう説明するか、これもまたむつかしい。
第一、出来た!と言えるものではないだろう。
つまり、終りがない。美術とはそういうものだと思っている。
にもかかわらず、描く。
ああでもない、こうでもない、と考えながら、ひたすら描きつづける。
今日も、そして、また明日も……。
後藤さんの書き方はともかく速い。
上高地で書いているメールと添付された写真を見ていて、20分もしないうちに出来上がった写真が添付されて送られてくる。
驚くばかりだった。
そして、何度も個展に誘われたし、画を描く処に気分転換においでと誘われた。
しかし、病気のためほとんど行けなかった。
ある日。体調のいい日に思い切って飛騨高山の個展会場を訪れた。
ある画の前で佇みズッーと動かない
永く行ってなかった飛騨高山。
町並みの様子は様変わりしていたが、行くとすぐ後藤さんは、「一服したいから、受付頼む」と言ってどこかに行ってしまった。
個展の受付の経験のない私は、うろたえたが、仕方がない受付のイスに座っていた。
すると、年配の女性がきて、ある画の前で佇みズッーと動かないでいた。
不思議に思い、その女性をよく見るとハンカチを取り出して泣き続けている。
それも、非常に長い時間。
声をかけることが出来ない雰囲気で、私は遠慮して黙っていた。
哀しかったこと
うれしかったこと、辛かったことが描かれている画の中に
またしばらくすると別の人がやってきて、同じようにある画の前で佇み涙を流していた。
よく考えてみると、後藤さんが描いた画の中に自分の人生をダブらせているのではないか。
哀しかったこと、うれしかったこと、辛かったことが描かれている画の中にあった、のではないかと思った。
ひょっこり、後藤さんが帰ってきたので、それからやって来る人に後藤さんが声をかけてくれるように頼み、手話通訳した。
案の定、私が生きた場所、街が描かれていると個展に来た人は涙した。
後藤さんの画の中には、見る人々の人生が描かれている、と言った。
だが、後藤さんは、「いやいや」と手を振ったが、その後の彼の画にはそれがますます色濃く出てきたように思えてならない。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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Once upon a time 1969
後藤さんが、手話で語る時は、いつも思ったことがある。
そのひとつは、後藤さんは、非常にナイーブな人だということである。
その人の人柄がよく現れる手話表現
ろうあ者が、手話で語りかきける時には、その人の人柄がよく現れるように思う。
自由奔放な人は、手話も大きく表現し、自分の言っていることが間違っていても気にせず、全体的にどうなんだ、と手話表現する。
自己中心的で人の言うことを受けとめようとしない人は、よく言えば、「立て板に水を落とすごとく」。悪く言えば、自分の意見に意見を言うすきを与えない手話表現をする。
ところが、後藤さんの手話表現は、何かなよなよとしているようで、いつでも話に入っていけるような「すき」だらけであった。
「私は手話が下手だから」という後藤さんの話にいつも合点がいかなかった。
が、ある時気がついた。
全日本ろうあ連盟の全国代表者の会議の時である。
みんなの意見をどこまでも大切にする話し方
話はともすれば、理事側だけの話になるが、なぜか、理事の後藤さんが話すと次々と意見が出てくるのである。
よくよく考えて見ると、理事の意見はそんなに考えがまとまったものでないのに理事は、同じ事を繰り返して言う。
ところが、後藤さんの話は、ポッリ、ポッリとなる。とまどいも見える。
と、参加者から次々と質問が出たり、意見が出て会議は盛り上がる。
間(ま)をとる手話表現
ポッリ、ポッリと表現したが、間(ま)をとると言ったほうが適切だろ言う。
みんなは、その間に考えることが出来るのである。
さまざまな意見や複雑な福祉行政の中で、みんなの意見をまとめることの大事さを痛感した後藤さんは、「ろうあ者みんなに意見とそれがまとまる」ことを一番大事にしていたのではないか。
だから、ポッリ、ポッリと間をとったのではないか、と4年前に岐阜城に登るケーブルカー近くの喫茶店で「追求」したら、照れたまま、何も言わなかった。
何を置いてもすきな画業を捨てて、ろうあ者運動や福祉活動に身を投じた後藤さん。
ひたすら、みんなの様子や話を聞き、まとめる仕事に徹した。
煮えくりかえる怒りを経験した事も数え切れなかったことだろう。
耐えに耐えた。耐え続けたからこそ
だからこそ、後藤さんは、耐えに耐えた。耐え続けた。
このこと彼が画業に徹しても、なおかつ福祉や障害者問題について鋭い意見を発する原動力だったのである。
死を知らずに怒りを込めて書いた後藤さんの最後の文章が、本人はもちろん回りのものも大学入試センター試験の問題となるとは、思いもしなかったのである。
短い間。中間の間。長い間。
手話表現にとって非常に大切な事だが、それはすべての人々の会話にも共通して言えるのではないだろうか。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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Once upon a time 1969
後藤勝美さんは、永く全日本ろうあ連盟の文化部長をされていた。
だから、「ろう文化」とか、さまざまな「新用語」が次々出されてろうあ者独特の芸術や文化があるかのような傾向に対して、鋭い批判をしていた。
芸術作品を創る。
その創った人が、ろうあ者だった。
ということと、
ろうあ者独自の芸術世界がある、とする断定に激しい抵抗感を抱いたのは、それだけの苦しい思いをしてきたからだろう。
それだけではなく、他の人々や社会から「切り離された世界にろうあ者が居る。」「違う世界に居る。」という傾向は、多くの人々との連帯を切り離すものである。
私たちは、もっと多くの人々と手を携えていかなければならないのだ、という考えが後藤さんの底流にあった。
さて、 引き続き画集「眠りから醒めて」の文を掲載させていただく。
昔のままのひなびた漁村 漁港が好き
私の青年時代には、アクリルえのぐはなかった。
今では有難いことにそれがある。
私は、元々水彩画を描いていたが、若い頃は油絵もやっていた。
この油絵も悪くはないが最大の難点は乾きを待たねばならないことだ。
性急な私には、これが合わない。
その点でアクリルは便利である。
水に溶けるし、乾きも速い。何よりも油絵のような重厚なマチューエルが可能である点だ。
水彩には、それが出来ない。
しかし、アクリルも難点がないわけでない。
削り取り、引っかき等がむつかしい。
慣れないうちは苦労した。
今でも完全にマスターしたとは言えないが、いろいろと試行錯誤しながらやっている。
水彩と同様に予め計算が要するしオーバーに言えば"発勝負"、ここがまたいいのである。
私の描く風景画は、殆んど無人の風景である。
時たまにスケッチ画には人物が入るが、本命の方は、まずない。
これも、よく人から聞かれるが、特に意識していない。
意図的でもない。
あえて言えば描く必要がないということだろう。
しかし、人物は描かぬが動物は入れることがある。
例えば、猫がそれだ。それも、よく見ないと見落すような描き方で画面に入れる。
私の取材活動では、国内の殆んどの県は廻った。
主に川とか、港などの水のある場所が多い。
特に昔のままのひなびた漁村、漁港が好きである。
こういう場所は、時代の流れか、めっぽう少なくなった。さびしい限りだ。
もう一つは、無人化した古い工場とか、スラム風の板張り或はトタン張りの下町などにも、あちこち旅しては捜して描く。
比較的に山とか、川とか自然そのものを描くことは少ない。
描いたとしても必ずどこかに人工的なものが出ている。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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Once upon a time 1969
次の画集「眠りから醒めて」を読んで、後藤さんの「スケッチ論」には、視覚的映像が焼き付いている、と言ったのだが後藤さんから一笑に付された。
画は画。
と言いいつつもその「絞り込む視点」には、多くの共通点が、見られてならない。
画家であるろうあ者の三人に共通するシャッター
福岡県の英彦山に寝食を忘れて立てこもって山水画の独特の境地を切り拓いたTさん。
結核に襲われて明日をも知れないという中で生き残ったOさん。
Oさんは、桂林の絶景を見て、船上から見える風景を次から次へと書き続けた。
観光客が、Oさんが画家とは知らず、絵を見て欲しい、欲しい、と言われた。
絶景にい魅入るOさんは、煩わしいので描いた絵を次から次へとあげた。
川下に船が着いた時には、スケッチブックは空になっていたと笑う。
川が流れるごとく速い。
そのスタイルは、三人に共通していた。
後藤さんも、スケッチを描いている様子を次から次へとメールで送ってこられたが、わずか数分で仕上げていく。
このあまりにも速い筆遣いを考えると、シャッターを切った瞬間のカメラの映像と「同じような作用」が三人に共通してあったと、思えてならない。
さて、引き続き画集「眠りから醒めて」の文を掲載させていただく。
息づまる10分間の勝負 そして醍醐味
スケッチは、その言葉どおり現地で腰をおろして描くものだが、写生とは違う。
写生は一つの作品まで仕上げるが、スケッチは一定のところまで描いて終るのが一般的。
いうならば習作のようなものだろう。
私の描くスケッチは、この我流の考え方で成り立っていてある程度のところで筆を置いている。
このある程度というのは、これも私の判断だが、これ以上描く必要はないと考えるからである。
つまるところ私のひかれるところにポイントをおきそれ以外はポイントの表現具合や、そこなわない程度でアッサリと描く。
または、何も描かない。
それで良いと考える。
いや、それで完成といってよい。
現地で描くのであるから、勿論色付けもそこで行う。この色付けがスケッチの一番の楽しさで、かつ一番神経を使う。
出来の良し悪しがここで決まる。
息づまる10分間の勝負でもある。
そして一種の醍醐味でもある。
スケッチはスケッチ 本命は本命と答えても
わかってもらえないもどかしさ
スケツチ画と本命作品とが一致していない、似ても似つかないこれも、よく言われる。
スケッチは色もやわらかく、繊細だが大作となると別人が描いたような荒々しいタッチ。 「なぜなんです?」と。
こう聞われて困惑する。
スケッチはスケッチ、本命は本命一一一と答えても、わかってもらえない。
もどかしいことこの上もない。
これを解くヒントは、前述の"習作"にある。
つまり、私の現地で見る、ひかれるモチーフの第一イメージがこのスケッチ画。
これをアトリエに持ち帰ってその画を元にして次の段階のイメージ(つまり第ニ:イメージ)をうかばせる。
その時点で必要不可欠なものは第一イメージで描き込んでおかねばならない。
そこにスケッチ画の繊細さが要求される。
という作業の過程が私の制作パターンというわけだ。
これでおわかりかな?……。
もっともこれは現在の一過程にすぎない。
今後の私の制作展開の中で、また変っていくかも知れない。
いや、変っていくだろう。
障害を作品評価に持ち込むのは、どうか
最近、障害者アートが社会的に注目されて来た。
それ自体は悪いことではないが、気になる点がある。
障害者と一口に言っても実に様々である。
これらの人たちが芸術をたしなみ、制作することはむしろ喜ばしいことだろう。
私が気になると言ったのは、それらの障害を作品評価に持ち込むのは、どうか一と恩うのだ。
障害を有するが故に独特の制作過程とか、独特な表現形態を必要としたり出す人もいるかも知れないが、美術の世界はクールなもので、作品そのものにより評価される。
またそれを前提とするのが美術だと思うのだ。
賛成しかねる ありえない デフ・アートなるもの
耳の聴こえない者(あえて言えば手話をコミュニケーション手段とする者)をろう者と言うが、これを英語にして"デフ・アート"なるものが流行って来ている。
これについても私は賛成しかねる。
そんなものは、ありえないと思うのだ。
知的障害者がその障害故に無垢なままで制作した作品を"魂の芸術"など賞賛する人がいるが、私にはとてもその気にはなれない。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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Once upon a time 1969
画集「眠りから醒めて」を読んでいると、後藤勝美さんが、
「映画の絵看板(当時は"劇画看板"と言っていた)の仕事」から「邦画、洋画の華々しいスターの顔を描き、背景も入れ、タイトル、役者の名やキャッチフレーズなどを書き込むのである。
おかげで私はこの時期に多くのことを学び、美術面とはちがったもう一つの技を身につけることが出来たと言える。」
と書いていることは紹介してきた。
かってろうあ者は映画から多くのことを学んだ
後藤さんは
様々な人と国の人間の喜怒哀楽やその深みを知った
学ぶ、学んだことを「総合芸術といわれる映像を通して様々な人と国の人間の喜怒哀楽やその深み」を知ったというのである。
すでに紹介したが、洋画であると邦画がであろうと、「映画」は、ろうあ者にとって学ぶ糧であった。
後藤さんは、さらにその上に映画の絵看板(当時は巨大なものであった。)も通して国内外の「間の喜怒哀楽やその深み」を知って行ったとも書いている。
人間としての情感とともにことばや手話以外のコミニケーションとしての人間的「技」を後藤さんが形成していっていたことを知ったのもこの画集「眠りから醒めて」からだった。
引き続き、画集から後藤勝美さんの文章を掲載させていただく。
画業再開のチャンスは多くあったし、役職柄、画友たちにとり囲まれていたため、仲間からのその声も少なくなかった。
その決心をするには、かなり時間を要した。
再開よりも役職を降任するタイミングの方がむつかしかったからである。
いくら多芸でも人間には限度というものがある。
出来ることも出来なくしてしまう。"もう、これくらいでいいだろう"ということで全日本ろうあ連盟50周年大会を機に20年余の役職にピリオドをうった。
画業再開宣言して6年目の1997年6月であった。
見えるのは誰れが見ても同じ ただ違うのは、ひかれる点
丸と四角と三角、この3つのうちどれが好きか好むかと言われたら、私は三角である。
この三角の形は、正三角形でなくても例えば菱形でもいい、とにかく角のあるのが私は好きである。
絵には、この三角形が何かにつけて基本らしいが私には、そういう意味ではない。
角は変化といってもよいし、ズバリ言って角の美しさ、そこにひかれる。
鋭い角もあれば、ゆるやかにカーブを引く角とか、変化がまた変化を産み、全体を一つに構成する。
よって、私の作品、スケッチにしろ大作にしろ必ずどこかにそんなものが見られる。
見られなくても潜んでいる。
画家の眼から、このように映っているのか?と時たま聞かれる。
冗談じゃない見えるのは誰れが見ても同じである。
ただ違うのは、ひかれる点で、どこをどのようにひかれたか、ひかれるか一だろう。
そこに描く人の思い・心が宿る。
いや、そういうものを表現するのが作者の仕事で、生命でもある。
それが出ているか否か、出ていても見る人によっては受け方も異なるだろうが、それを出すのも作業である。
すごくひかれる 人間の暮らしの匂いのするもの
私は、人間の暮らしの匂いのするものにすごくひかれる。
例えば、古ぼけた木造家屋とか、ビルとか、工場などだ。
使い尽くされて捨てられた車とか船とか、道具類にも愛着を感じる。
時の経た空間に不思議な美をただよわせる。
もし、私に人物を描くとしたら美人は描かない。
誤解されかねないからあえて繰返すが、美人を美人として描かないという意味である。
お分かりかな……?
「お分かりかな……?」に対して、私は、「いいえ」と言い続けてきた。
ろうあ者の大会や手話通訳集会の大会などなどで、しばしば後藤さんと会って話をした。
しかし、会っていたのは彼が、「この理不尽きわまる世を避けて、自らもろう者である私に何が出来ようか。放っておいてよいものだろうか、自分の問題でもある。自分がやらずして、誰がやる/一と、己の使命のように思えた。そう感じて、以来、ひたすらにろう者の福祉運動に没頭していった」頃であるため彼が画家を断念していた時期とは夢だに思わなかった。
集会では、後藤さんも私もいつも裏方でまともに集会に出たこともなく、分科会に出たこともなかった。
だから、多くの人が、集会に参加して人が少なくなったホールなどで後藤さんと出会うことが多かった。
いつも裏方をする
「看板屋」?さん
ある時、急に大会のスローガンの変更が必要になった時、後藤さんは他の人にドライアーを持たせて書いた文字をすぐ乾かす裏方の仕事をしていたのを見たことがある。
横約50㎝幅、縦80m以上ある長い長方形の紙を何枚も書き直す作業である。
驚いたことに、その紙に後藤さんは、何の印もつけずに次から次へと大会スローガンを書いていく。
スローガンの文字は、長短あるが、すべて同じ幅、同じ長さの紙に均等にすらすら書き上げていく。
その速さとともにその均等さと余白を残さない見事さに驚いて、ドライアーを持っていたろうあ者にあとで聞いてみた。
「後藤さんは、どんな仕事をしているの?」
「看板屋」
「ヘーッ?」と思ったけれど、それだけに留まっていた。
見たこともない人間味一杯の手話イラスト
ある時、「岐阜の手話」を入手して、吃驚してしまった。
そこに書かれている手話イラストは、今まで見たこともない人間味一杯の手話イラストで、描かれている女性は表情豊かで見ただけで手話表現に魅了されるイラストだったからである。
しかも動きも「見える」。
ダレが書いたのかを調べたら、後藤勝美さんだった。
そこで何度も何度も猛アタックして後藤さんに手話のイラストを依頼したが、いつも返事は、「ノン」だった。
後々このことを後藤さんと話をしたことがあるが、照れて「いや……あの岐阜の手話は、岐阜の手話でないので。」と言い続け「イラストの女性の表情が非常にいい、今までこのような手話テキストを見たことがない。」と言うと「女性を描くのは苦手」という返事。
そこで彼が書いたトルコの女性の絵を見せたら「勘弁して」と言われた。
後藤勝美さんは、非常にシャイな人だった。
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Once upon a time 1969
画集「眠りから醒めて」を見、読んでいると今まで知らなかった後藤勝美さんのことがよく解った。
引き続き、画集から後藤勝美さんの文章を掲載させていただく。
様々な人と国の人間の喜怒哀楽やその深みを
総合芸術といわれる映像を通して
映画の絵看板(当時は"劇画看板"と言っていた)の仕事は、笠松で約2年、のち岐阜で10数年勤めた。
なるほど、この仕事は絵を描く仕事であったが、美術とは全く異なる。
しかし描くという点では共通しているから楽しいものであった。
邦画、洋画の華々しいスターの顔を描き、背景も入れ、タイトル、役者の名やキャッチフレーズなどを書き込むのである。
おかげで私はこの時期に多くのことを学び、美術面とはちがったもう一つの技を身につけることが出来たと言える。
それは総合芸術といわれる映像を通して様々な人と国の人間の喜怒哀楽やその深み、劇画に関して言えば早描きのコツ、色と文字、そこに必ず出る空間、余白等々がそれであった。
人を鼓舞させるキャッチフレーズや、引きつける文字のカタチと色、そして人物を含めた全体表現方法など、これらは現在のイラスト、レイアウト、レタリング等の特技として生かされている。
苦境に負けたくなかった
名古屋の洋画研究所通いは、これまでのあやふやな個人授業で満たされないものを基礎的にみっちりと学ぶためであった。
つまり、デッサンである。
石膏と裸婦の造形要素をここで私は二人の先生から教わった。
吉川先生と大竹先生である。
元を言えば、中退時点に京都か筑波のいずれかのろう学校へ転校する話があったのだが、家庭事情等で諦めざるを得なかった。
京都は図案科が、筑波には美術科があったのである。
しかし、私はこの苦境に負けたくなかった。
れっきとした名門美術大学を出たからと言って、画家になれるとは限らんぞ!という負けん気が潜んでいた。
ここの研究所で、およそ1年半ぐらい通って一応マスターした。
辛苦は差別や無権利な状況に置かれて
尚も耐えねばならないのか
あれほど創作意欲に燃え、制作に打ち込んでいた私の青年時代に、なぜ?、どうして?、筆を休めるに至ったのか。
何がそうさせたのか。
それは、一口に言えば社会変革に燃えたからであった。
多くの障害者、わけてもろう者の当時の実態はひどいものであった。
ここでは書き尽くせない。
この辛苦は差別や無権利な状況に置かれて、尚も耐えねばならないというものであった。
この理不尽きわまる世を避けて
放っておいてよいものだろうか
身体こそ大人であるが、大人として認められず、文句一つでも言えばもう相手にされなくなるというものであった。
この理不尽きわまる世を避けて、自らもろう者である私に何が出来ようか。
放っておいてよいものだろうか、自分の問題でもある。
自分がやらずして、誰がやる/一と、己の使命のように思えた。
そう感じて、以来、ひたすらにろう者の福祉運動に没頭していったのであった。
私の半世紀は、以上に述べたようにろう者の福祉に身を献げたようなものであったが、画業への夢は断ち切れたわけでなかった。
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Once upon a time 1969
ろうあ者が、どれだけ「相手に伝えようとする知恵と工夫」の努力をしていたか知ってほしい、と書いた。
このことについて、故後藤勝美さんと固い約束があった。
後藤さんは、画で示す。アンタは文で書く。
という約束だった。
文で書く場合は、後藤さんの画(絵と書くといつも後藤さんに叱られた。)掲載してもいいとも言われた。
今日、ようやっとそれがはたせているのだが、後藤勝美さんは、すでに他界している。
何度もおいで、と誘われた後藤さんの仕事場を探してやっと訪れた時は、彼が、医者から死を宣告されてすぐの日だった。
生き抜くぞ、といった彼のギョロッとした眼が今も忘れられない。
病気に伏せって、絶望感に襲われていた時、後藤勝美さんから贈られてきたのが「眠りから醒めて」という画集だった。
それまで、長い後藤さんとろうあ者問題を通じてのつきあいがあったが、彼が画家をめざしていたとはまったく知らなかった。
画集「眠りから醒めて」の後藤さんの文章の一部を紹介させていただく。
そこからはじまった運命
私は、肢阜市合渡生まれで、兄妹が多い五男として育った。
9歳までは、耳が聴こえていたが末っ子の世いか大変内気な子であった。
それが10歳になって間もなく急性脳膜炎を患い両耳とも全く聴こえなくなってから内向性が更に強まっていった。
運命は、そこからはじまったと言える。
自然ななりゆき もの言わぬ相手を求めるのは
絵に興味を持ちはじめたのは、その前後だったと記憶している。
内気な上に更に聴こえなくなったのだから、もの言わぬ相手を求めたのは自然ななりゆきかも知れない。
描くことは対話がいらない、ひとりで楽しめる、もっと言えば慰めてくれる。
そんなところにも大きな原因があったようである。
そして、母親というものは鋭いもので、私に絵を描く途に導いてくれたのであった。
母は、第一の先生であった
私の第一の"先生"は、他ならぬ母・はなであった。
こんなこともあった。
私が成長し、小学5年の頃だと思うが近所に住む画家K氏のところへ母が相談にいった。
進路相談である。
K氏は即座にこう答えた。
「我々でも筆一本買うのに大変な思いをしている。ましてや耳の聴こえないことでは、とても、とても」と。
あきらめた方がいい一と、言われたようであった。
無理もない話である。
だが、母は絵を止めよとは言わなかった。
それどころか私に第二の"先生"をさがし、その先生の元へ習い通うことをすすめてくれたのであった。
当時の世間からみる身障者、わけてもろあ者に対する目は非常に冷たいものであったから、母の私に対する思いは並々ならぬものであっただろうと想像する。
意識しはじめた 耳が聴こえないというハンディのつらさと不利
私の第二の"先生"である打下武臣氏は、県立高校の美術科教師をしておられ、丁度加納栄町へ移っていた私には歩いて行ける距離に先生の自宅があった。
そこのアトリエへ今で言う個人授業で週一回通い絵を教わった。
数年間通ったと思う。
しかし、耳が聴こえないことによるものだろうが、あまり"教わった"という感じはしなかった。
どちらかと言えぱ、まねて描いたことの方が強い。
今でも言えることだが、口で言うことと筆記でとは大きな隔たりがある。
耳が聴こえないというハンディのつらさと不利をこの時から徐々に意識はじめていったものであった。
耳が聴こえていたらもっと生の声、それも詳しく聞けたにちがいない。
筆談というものはきわめて事務的で淡々としたものとなる。
これは、現在でも変らない。
母と兄が、絵の腕を活かす職業と学ぶ所をさがしてくれた
私は加納西小学校から県立ろう学校へ移り、そこで9年間ろう教育を受けたが、同校高箸部2年の時、ある事情で中退した。
もっと学びたいということもあったし、早く社会に出たいという気もあって学校を後にした。
だが、行くところはすぐにみつからずしばらくの間は家でブラブラしていた。
そんな私を見かねた母と兄(三男)が、絵の腕を活かす職業と学ぶ所をさがしてくれ、それぞれ通いはじめた。
職とは、映画の絵看板を描く仕事、そして学ぶ所とは、名古屋の栄交差点の近くにあった桜画商の2階「名古屋洋画研究所」がそれであった。
後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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Once upon a time 1969
「学ぶ」とはもともと、
1,まねてする。ならって行う。
2,教えを受ける。習う。
3,学問をする。
などの意味合いからきている。
そのため「手まね」(手話)は、もともと手を「まねてする。」と意味合いを持っている。
だから手話は、ろうあ者が伝承してきたものである、と教えられてきた。
だが、手まねには、「まねする事が出来ない手まね」があることを知ったのは、この藤田さんの「小鳥の求愛の手まね」からである。
この「まねする事が出来ない手まね」は、ずっーと宿題だったが、いくつかのヒントをえることが出来た。
それは、藤田さんのご主人が画家であったことにもあるように思うようになったからである。
全国各地で「絵」を仕事にしているろうあ者は多くいた。
その人々と会い、その描く様子を見ていて、驚いたことある。
一瞬見た光景を、写真のシャッターを切るがごとく細部まで表現されること。
その表現には、動きがあることである。
手話は、ひとつひとつの手話の繋がりだけではなく、「映像」でもある、と思い至ったのは全国各地のろうあ者と出会って、その手話を「まねよう」としても出来なかったからだけではない。
コミニケーションの真髄が理解が不足していたからである。
その理論の解明が出来つつあるが、ここではそれは紹介しない。
それよりもろうあ者が、どれだけ「相手に伝えようとする知恵と工夫」の努力をしていたか知ってほしい。
Once upon a time 1969
ワラ半紙と2Bの鉛筆は、もう片時も離せない必需品
藤田さんが、「ワラ半紙と2Bの鉛筆は、もう片時も離せない必需品」と書いているが、なぜ鉛筆が2Bなのかはよく解る。
速く、すらすらと書けて筆談がしやすいからである。
硬い鉛筆では、速く書けない。
やわらかすぎても、ワラ半紙に書けなかった。
藤田さんが書いている「ワラ半紙」は、細かく切った稲ワラや麦ワラで作られたものである。
そのため現在のような紙ではない。
品質は不安定で、ワラの形が残ったままのものだった。
表はまあまあなめらかだが、裏はゴツゴツして鉛筆の先が引っかかったり、表面も弱く、破れることもしばしばであった。
これらの紙は、当時、学校で使われたりした。
この「ワラ半紙」に書かれたものはもろく、保存が効かない。
7時すぎに起きると、ガスに火をつけて、お湯のわくまで新聞を読むのが、私の毎朝のきまりです。
私の読むニュースを、こどもは大でい昨夜のラジオで聞いている筈ですが、そんなにいちいち親に話してはくれないものです。
みんなが学校へ出かけるまえの一ときは、まるでいくさ場みたいですが、どんなに忙しくても、こどもたちの髪だけは結ってやることにしています。
母としての、せめてもの愛情を示す一つだとおもいたいからです。
PTAの集りや、授業の参観には、なんとかして出かけてゆきます。
私の方は、黒板の字や、先生の口の動かし方で、大ていはおっしゃることがわかるのですが、新学年などで、受持の先生が変られた当座などは、なかなかこちらのことばがわかっていただけないようです。
私たち4人の、いまののぞみを書いてみます。
夫は、ちゃんとしたアトリエを持って、自分のかきたい画を思う存分かきたいのが、いまののぞみだそうです。
それを例によって、手まね指文字をまじえて話してくれたあと、私のワラ半紙に、「夢だね?」と書いて、わらいました。
私ののぞみは、ふたりのこどもが大学へ行けるまでの教育費を残したいこと、お菓子を作るのが好きですから、オーブンのついたガスレンジを買いたいことです。
上の子は、父に似たのか絵がすきで、それに私の手芸ずきが手伝ったのか、自分で図案を考えて自分でアプリケをしたりするのが好きで、日本中のありとあちゆる手芸の参考書を買い集めたいのが、いまののぞみ、大きくなったら.女子美術へゆきたいと言っています。
下の子に、なにになりたいと聞いたら、お習字の先生になりたいというのです。
ふつうのこどもより、文字というものに、なにかつよい印象があるからでしょうか。
あとさきもなく、とりとめもないことを書いてしまいました。
ひとなみに、明るく、たのしく生きてゆこうとする、親子4人が、ここにもいることを知って頂けたらうれしいのです。
私のワラ半紙に、「夢だね?」
手まね指文字をまじえて話してくれたあと、私のワラ半紙に、「夢だね?」と書いて、わらいました。
と、スッーと書く、藤田さんの文章はこころを打つ。
夫とのコミニケーションが、手まね(手話)と指文字とそして筆談。
筆談は、「夢だね?」という文字で締めくくられる。
シンプルだからこそ、こころに響く。
響きかたは、読み手によってさまざまだろう。
暮らしの手帖への文章は、このように綴られていた。
だが、京都のろうあ者から、幾度も聞き、だれひとり藤田さんの夫の手話を「まね」られず、途中で、「やっぱり出来ない」とあきらめる手話をぜひ見たいとねがっていた。
Once upon a time 1969
藤田さんの文章は、非常に実直で、淡淡と綴られているように見えるがが、それもまた彼女の人柄を表している。
この文章を現在の私たちがもう一度読み直す必要にあるだろうと思う。
そこには、聞けないからと「社会から隔絶された社会」で生きたろうあ者の生活より、人間味をさらに熱くする人々の姿が見いだせるからである。
お金も、ほしいにちがいありませんが、なんといっても、いちばん苦労するのは、ことばです。
ふつう私たちは、相手の話を、その口のかたちで判断するのですが、それも気をつけて話してくださるときだけで、知らない方だと、まるきりわからないのです。
それに、わかるといっても口の形だけですから、たとえばベントウとベンジョをまちがえることだって、ないとはいません。
夫は、ことに中途からの失聴者ですから、私が早口に口を動かすと、よけい読みとれないようです。
そこで、私の方は、手まねや、指文字や、それでも間に合わないときは、単語だけ紙に書いたりします。
そこへゆくと、こどもたちは、小さいときから、母親の口の動かし方や、声の出し方になれていますから、どんなに早口に話しかけても聞わけられるようです。
しかし、こどもたちには、ゆっくり話してもらわないと、私の方はわからないのですが、学校の話、おとぎぱなし、科学の話など、なかなかのおしゃべりですからこれから、こどもたちの豊富な話題についてゆけるかどうかが、いまから心配なのです。
知らない方とは、筆談一本やりです。
だからワラ半紙と2Bの鉛筆は、もう片時も離せない必需品です。
買物に苦労するだろうと、ときどき言われますが、ふだん毎日の買物だと、そんなでもありません。
そういう買物は行きつけの店ですから向うでも気をつけてくれて、ゆっくり大きく口をあけて話してくれたり、ねだんや分量などははっきり指でやってくれますから、そんなに不自由はありません。
困るのは、そうたびたび入ったことのない店です。
ことに、値札がついていないと、いくら聞いてもラチがあかないで帰ってくることも、ちょいちょいあります。
しかし、どうしても欲しいときは、私たちのようなものがよくやる手ですが、大体の見当でたとえば5百円札を出してみます。
それで向うが首を横に振ったら千円出します。
それでうなずいたら、この品は5百円と千円の間だなとわかるわけです。
私が町を歩くとき、ふつうの奥さんにくらべてずっと早いそうです。
自分では気がつきませんが、知らないひとにジロジロみられるのは、いくつになっても、身を切られるようにつらいのです。たぶんそんなことで早く歩くクセがついたのかもしれません。
一コマの写真に盛りだくさんの微細なこころの動き
藤田さんの写真は、プロカメラマンによって三脚で固定されたカメラで撮ったが、彼女自身の身体が動き、写真そのものがブレがあるように見える。
だが、そうではない。
手話を全身で表そう、とする動きとしてみてほしい。
当時、写真を掲載することに手話を学ぶ人から多くの批判があった。
動画にしてほしい、という意見である。
しかし、動画では、一瞬の表現の中に多くの思いが込められていることが解らないのだ、と説明しても解ってもらえなかった。
掲載された映像は、7200以上の写真から選んだものであるが、何度見ても、見る度に藤田さんの言いたかったことが、一コマの写真に盛りだくさんあることに気がつく。
手話は、微細なこころの動きを一瞬一瞬に籠めて、それを繋げて気持ちを伝えるものである。
Once upon a time 1969
夫は日本画家なのです。
菊池契月先生のお弟子で、藤田威といいます。
10オのとき中耳炎で耳がだめになりました。
だから、私とちがって、聞えなくても話せるのでときどき相手をまごつかせるようです。
小学校の高等科をふつうに出てから京都府立ろう学校の中等部3年に入り、そこの研究部の図画科を卒業しました。
私もおなじ学校の研究部を出ましたが、私の方は生れつきですから、数え年で5オから幼稚部へ入り、20オの春までずっとここで勉強しました。
夫は学校を出てからも京都にいて画を描いていました。
文展や市展にもたびたび入選して、この道一すじに生きてゆくつもりだったようです。
それが戦争が激しくなって仕方なしに故郷へ帰ったわけで、ろう学校の先生の口がかからないまえは、もう一ど京都へ出て図案書きの仕事でも見つけたいふうでした。
いまでも、休みの日は画を描いていますが、学校が忙しくてなかなかひまがないのが、やはりつらいようです。
ここが私たちの住いです。
これは学校の中の一棟を改造した職員の公舎で、私たちは二階です。
10帖と4.5帖がタタミ敷き、それに約3帖の板の間と台所です。
10帖を居間兼寝室に、板の間の一部を子供の勉強室に、4.5帖を夫の画室、と一応はしていますが、もともと住むために建てたものではないかち、なにかと不便です。
便所は下で、写真にみえる入口の左側です。
入口の上にみえる窓が、私たちの台所で、その奥に妬帖と板の間、下の写真は10帖で、向って右がその板の間です。
諸寄(もろよせ)から出てきたときは、ここに写っているタンスと夜具だけ、いわば着のみ着のままでしたが、こうして洋服ダンスも本箱も食器戸棚も買えるようになりました。
こたつ板も3千6百円のデコラです。この他に電気ミシンとセンタク機も月賦で買いました。
月々の収入は2万5千円くらいですが、毛糸や万年筆まで月賦なので、これに5、6千円とんでしまいます。
内職のつもりの編みものも、なかなか註文がないので、とても予算には入れられません。
東京のろう学校は洋画 京都のろう学校は日本画
東京のろう学校は洋画。京都ろう学校は日本画。
と互いに競い合っていたいた頃の京都のろう学校には優秀な日本画を描くろうあ者は多くいたが、絵で生活は出来ず、友禅、清水焼きなどの伝統産業の仕事につかざるをえない人々が多かった。
京都ろう学校、研究部の図画科を卒業したろうあ者のスケッチをたくさん見せてもらったことがあるが、その見事さには驚かされることがしばしばだった。
色の巧みさ、微細な眼力と表現。
真冬の凍り付くような寒さの中で描いた数々の絵には、凍り付く寒さを溶かす情熱が見られた。
Once upon a time 1969
藤田さんご夫婦の話は、京都のろうあ者から何度も話も聞き、奥さんの書いた手記が「名もなく貧しく美しく」の映画化になったことも聞いていた。
そのため、何とかご協力を、と思い続けていたがご主人の他界。島根県と京都という距離のためなかなか出会うことはなかった。
ある時、この人がアンタの会いたがっていた藤田さんだ、と紹介を受け1982年から1983年にかけ快く引き受けていただいて話していただいたことを写真記録として残すことが出来た。(手話通訳問題研究誌20号1983年7月)
この時、教えていただいたことはたくさんあるが、まずなによりも藤田さんが書かれた文章と「暮らしの手帖」の写真と手話での話を掲載させていただく。
やはり、はじめに書いておいた方が、よさそうにおもいます。
私たち夫婦は、耳が聞えないのです。
このへんの言葉でいえば「うぶし」、つまり啞なのです。
山陰の松江から西へ、汽車で三時間あまりのところに、浜田という町があります。
人口は四万すこし、島根県では、松江のつぎに大きな町ですが、むかしからの港町で、そのためか、山陰にしては明るく活気があるようにおもいます。
私たちが住んでいるのは、この浜田です。
もっとも、私たちは、ふたりとも、この土地の生れではありません。
夫は兵庫県、といっても、日本海に面して、浜坂などに近い諸寄(もろよせ)の生れです。
私は京都府で福知山かち北丹鉄道というのに乗りかえて50分ばかり、大江町というのが私の故郷で、そこの農家の長女に生れました。
私たちが、この浜田に住むようになってからまだ四年とすこしです。
そのまえの一年は松江にいました。
夫がそこのろう学校の図工科の先生になったからです。
浜田へ来たのはこちらに新しくろう学校ができて、転任になったためでした。
松江で先生になるまえは、私たちは諸寄の夫の兄の家で暮しました。
結婚したのも、そこです。
夫が29オ、私が23オ、終戦のあくる年の暮でした。
兄の家も農家で、それを手伝っていましたが、戦後の農地解放で、多少の財産をわけてもらう話もだめになり、くるしい暮しでした長女と二女が、そのあいだに生れました。
松江の先生になったのは、そういう事情で、貧しくても安定した暮しがしたかったからです。
こどもは、ふたりとも、ふつうです。
上の子はいま小学校5年生、下の子が3年です。
親の欲目か、ふたりとも無事に育ってくれているようですが、私たちのようなものには、子を育てるのに、ふつうとはちがう苦労もないではありません。
赤ん坊のころは、夜中に泣いていても聞えないので、つろうございました。
すこし大きくなると、こんどは、こどもの話すことがわからないので、これには親も子も苦労しました。
しかし、学校へ通うようになってからは、筆談もできるし、空に字を書いたりして、不自由はなくなり、それに下の子のときは長女が通訳してくれたので、よほど助かりました。
私たち夫婦には、いらないものが一つあります。
ラジオです。
しかし、こどもにはいるから、とおもっていたところへ、下の子の入学祝に、妹がお古のラジオを送ってくれました。
はじめは私がスイッチを入れてやらないと聞こうとしませんでしたが、このごろは、コドモの時間になると自分たちでスイッチを入れて、おそくまで聞いています。
気になるのは、こんなふうにラジオの傍へ耳を持って行って聞くクセで、やはり子供なりに私たちにわるいという気がさせるのでしようか。
ラジオを聞いてわらったりしていると、ふっとねたましいとおもうこともありますが、こんな姿をみると、いじらしくてなりませんのです。
こころの内を思いっきり自由かったつに表現するのが手話
撮影は、当時最新のモータドライブカメラで百二十分の一秒の速さでシャッターを切った。
すなわち、一コマは、百二十分の一秒の瞬間である。
ところが、写真撮影はかなり離れた場所からとったが、しばしば画面に納まりきれなかった。
前回の「遠い大江町」と今回の「出しています」は、特にその特徴が見られる。
大江町が京都市内から、どんなにどんなに「遠い」か、書いて出した(広がったこと)が、どんなにたとえようのない喜びであったか。
表情と手の広がりで際限なく表されている。
現在ビデで放映されている手話を手話だ、と思っている人は多い。
肩から下、お腹から上という長方形の枠内で手話表現されているが、自分の気持ちをいい現すのにそのような「枠内」は、もともとなかった。
手先で、こちょこちょと表す手話をするとろうあ者のみんなは心配したものである。
「病気と違う。」「休んだら」と。
喜び、がどこまでも広がる手話表現を知っていただきたい。
Once upon a time 1969
近年、昔のろうあ者は、字幕付のある洋画は見たが邦画は見なかったとまことしやかに語られている。
朝から晩まで食い入るように映画を見続けたろうあ者は多かった
たしかに、1969年頃、私が出会った多くのろうあ者は洋画を楽しみにしていた。また映画をよく見ていて驚くばかりだった。
映画は、現在のように入れ替え制ではなく、朝から晩まで映画館のイスに座って映画に魅入るろうあ者は少なくなかった。
聞けば、映画のストーリや俳優や詳細な内容は足下に及ばないほど詳しかった。
洋画は、字幕があるが難解な文字も多く、セリフは現在よりはるかに多く字幕をよんでいると画面が見られず、画面を見ていると字幕が見られないなどの問題があった。
また、字幕の文字も読めないろうあ者もいたが、映画の内容はとても詳しかった。
あらゆる文化を聞こえる人と共有しようとする努力
不思議に思って聞いてみるとろうあ者同士の交流や聞こえる人から聞いた話を元にもう一度映画を見て、映画を楽しんでいたことが分かってきた。
では、字幕のない邦画はまったく観ていなかったのか、と調べてみるとそうではなかった。
邦画もろうあ者同士の交流や聞こえる人から聞いた話を元に何度も見ていたからである。
ろうあ者は、映画や音楽、落語、漫才などなどの文化からまったく隔絶されていた、という考えは正しくない。
漫才は、ことばのやりとりで笑いを誘う。
その笑いについて行っていたろうあ者もいた。
聞こえないから~は、ダメだった、と決めつける人々は、ろうあ者が聞こえる人々とともに文化を共有する取り組みをしていたことを否定していると思う。
京都北部 大江山で生まれ育った
藤田さんと映画「名もなく貧しく美しく」
藤田さん。
あえて実名で書かせていただく。彼女から自分たちのことは後々伝えてほしいとの強い要望があったので。
彼女は京都府下の「鬼」(酒呑童子のおとぎ話で有名な鬼退治から来る表現)と当時手話で表す大江町(現在の福知山市)出身であった。
すでに書いた「2011年11月 大富豪の家で育つたろうあ者Iさんが一目で、見初めた相手は」のIさんは、大江町から険しい峠を越した隣町で育った。
1958年「暮らしの手帖45」に藤田さんは、「しかし、私たちも明るく生きてゆく」の題で次のような事を書いている。
映画はすきでときどき見に行きます。
見るのは大てい洋画です。
そういうと、なんだか気どっているみたいですが、私たちは、ついそうなってしまうのです。
というのは、洋画だと画面の端に字幕が出ますが、邦画の方は、字幕が出なくて、スジがわかりにくいからです。
それでも、評判のいい邦画は、見たくて出かけます。
そんなときは同じ映画をみた公舎の女の先生に、おもなセリフを説明してもらうのです。
これらの藤田さんの文章などが映画監督の眼にとまり、「名もなく貧しく美しく」の映画を創ることになって行く。
Once upon a time 1969
手話通訳をする場合は、手話の「流れ」が必要である。
単語をひとつひとつを区切りをつけて表現していたのでは、手話を見るろうあ者も疲れる。
「はなしことば」は、連続したコミニケーションである。
と、同時に「はなしことば」には、はなし手の特徴やこころの揺れも出てる。
その特徴も手話の流れで表現する必要がある。
「虎三が悪い、と言うなら浪曲でも唸ろうか」
とヤジに切り返したことばに、手話通訳は即断が求められる。
浪曲=有名な広沢虎造と虎三の掛け合わせをどのように表現するのか、ということである。
ろうあ者も大爆笑 聞こえる人も大爆笑
手話通訳者は次のような表現をした。
「虎」「三」「悪い」「言う」・「浪曲」(演壇の形を空で描いて、扇子で演壇を叩くしぐさ)「とらぞう」「有名」「浪曲」「唸る」(顔の表情・しぐさで表す)「か?」
と手話通訳した。
「浪曲」(演壇の形を空で描いて、扇子で演壇を叩くしぐさ)「唸る」(顔の表情・しぐさで表す)は、ろうあ者に通じて、ろうあ者も大爆笑した。
聞こえる人々も手話通訳者が、どのような手話通訳をするのか見ていたらしく、ヤジの切り返しのおもしろさだけでなく、手話通訳の意味も分かったようで手話通訳者への惜しみない拍手が送られてた。
そのため選挙管理委員会が「静粛におねがいします。」をくり返した。
手話表現の知恵、表現を魅入っていた人々が
浪曲を聞いたことはなくても浪曲の舞台や様子はテレビでも放映されていたことをろうあ者は知っている。
そこでとっさにその様子を「しぐさ」で表す。
これが手話通訳だった。
その知恵、表現を魅入っていた人々が立会演説会終了後手話通訳の処にやってきて、「よかった」「すごい」と握手を求めてきた。
が、ふとみるとろうあ者席に同じ職場の同僚がいる。そこに声かけよって「アンタもきていたのか」「よかった、よかった。」という握手の輪が出来た。
ろうあ者も大感激だった。
大観衆と一体となる感動はこの時期から更に広がっていったが、もっとさらに、同じ職場の人や地域の人との「連帯の輪」が広がった。
昼休みの休憩時間ひとりぼっちの昼食がなくなった
お互いに話すことを遠慮していた。
聞こえる人はどのように話しかけたらいいのか分からないで躊躇していたが、「虎三が悪い、と言うなら浪曲でも唸ろうか」の手話通訳を見て、なーぁんだ、身振り手振りで、話が通じるのか、と分かり話し合いの切っ掛けがつかめたとのこと。
立会演説会に参加したろうあ者は、今まで想像もしなかった職場や地域の人から「話しかけ」られて、驚いたり、うれしかったり、手伝ってもらったり、手話を少しづつ覚えてもらったりするようになった。
昼休みの休憩時間。ひとりぼっちで昼食を食べていたけれどそうではなくなってきた。昼食食べにいこうや、と誘われて職場が楽しくなった。
などなどの報告がぞくぞく寄せられてくるようになって来た。
頭の中の理解ではなく行動する理解へ
多くの人々が行動する、参加する場にろうあ者が参加出来るようになると、職場や地域が変わってくる。
ろうあ者に対する、頭の中の理解ではなくともにいろいろの工夫をしてお互いの会話を成立させていくことが立会演説会が産み出した財産でもあった。
京都府下、すべての地域で立会演説会の手話通訳の保障がされた波紋は、次第に大きな波紋へとひろがった。
この机上の上の手話学習でない大手話学習は、その後のろうあ者の要求を支える人々の広がりだけでなく、ろうあ者が他の集会や学習会にも参加する切っ掛けとなっていく。
小さな一歩が、大きな一歩になって行く。
Once upon a time 1969
現代、手話や手話通訳を知っている人は数え切れない。
また手話を学んでいる人々もはかりしてない。
ひとつ、ていねいに多くの人々に訴え、理解を広め
それを受けとめ、支えてくれた人々
だが、手話や手話通訳を否定されている時代。
ろうあ者が、人間として不平等な扱いがされていた時代。
それをひとつ、ひとつ、ていねいに多くの人々に訴え、理解を広めたこと。
またそれを受けとめ、支えてくれた数え切れない人々が広範にいたことを知る人々は少ない。
立会演説会の体育館を揺るがす大拍手。
人間連帯の拍手。
その積み重ねがあって現代があると思いこの文を書き続けている。
手話を知っているから信頼するまじめなろうあ者を
人生のどん底に突き落さないように
手話をすること=ろうあ者の理解ではない。
これは1969年にろうあ者から強烈に教えられたことである。
手話を知って、手話を知っているから信頼するまじめなろうあ者から金を巻き上げたり、人生のどん底に突き落とすなどのことがないようにしてほしい、と何度も何度も頼まれた。
だから、同じ人間としての信頼の上に手話通訳が行われなければならない、と思い続けてきた。
でも、現代はそうなっているとはとうてい思えないことがある。
ろうあ者の手話表現をどこまでも尊重しながら
手話を知らない人々にとって、
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」
ということをどのように手話表現するか、とあえて書いたのは、上から伝達する手話通訳ではなく、ろうあ者の手話表現をどこまでも尊重しながら、それを採り入れて、手話通訳をするのかが、手話通訳の使命だと思っていた。
だから、「聞き取り手話通訳」「読み取り手話通訳」と言うように、手話を聞こえる側から伝達する方法とろうあ者の手話を伝達する方法を分離して考える現代の傾向には、激しい抵抗感がある。
聞き取り手話通訳は出来ても、読み取り手話通訳は出来ないということは、聞き取り手話通訳自体が、ろうあ者の手話表現を蔑ろにしているとしか思えない。
ナゼなら、手話通訳している側が、ろうあ者の手話を読み取れないのだから、聞き取り手話通訳は手話通訳したことにならないからである。
手話通訳は、双方向のが理解出来ないことには、手話通訳を一番切実に求めているろうあ者に意味不明な手話をしていることになる。
すなわち、ろうあ者の立場を尊重せずに聞こえる人の側だけの伝達をすることになるからである。
手話通訳者に難問が突きつけられる
1960年代から1970年代にかけての京都の手話通訳者は、このことで一番心を砕いてきた。
さて、立会演説会が京都市内に会場が移ってきた時に、さらに難しい手話通訳が求められたことがあった。
立会演説会会場では、選挙が激烈化すると弁士に対する激しいヤジが飛び交う。
このヤジに対して、現職の京都府知事蜷川虎三氏は、
「虎三が悪い、と言うなら浪曲でも唸ろうか」
と切り返した。
これは、自分の名前の虎三と浪曲で有名な広沢虎造を「かけて」ヤジに切り返したものである。
浪曲の虎造は、ろうあ者にはあまり馴染みがなかった。
浪曲を聞くことが出来なかったから当然と言えば、当然であるが、手話通訳者はとっさに手話通訳をすることが求められた。
このとっさの時間は、1秒にも満たないが、手話通訳者の頭の中は、超高速回転してどのように手話通訳をするか、ということを考える。
その時間は、数秒が、何時間にさえ思えるほどであると書いても言いすぎではない。
Once upon a time 1969
マイクを引きちぎった候補者の演説は、満員の体育館の前列だけにしか聞こえなかった。
体育館はもちろん、第1会場、第2会場は、大騒ぎになった。
選挙管理委員会は右往左往していた。
しかし、手話通訳者の位置からは、演説は聞こえる。
だから手話通訳をしていた。
が、一瞬、体育館参加者の目が手話通訳者に釘付けになっていることに気がつく。
手話って、まったく分からないと思っていたけれど
何となく分かるところがある
会場の人々には、スピーカーからの声が聞こえないため候補者が何を言っているのか分からない。
だが、手話通訳者の様子を見ていると、なんとなく候補者の言っていることが分かる。
まてよ、コレコレこんな動きをしているのは、こういうことではないのか。
こんなざわめきが、広がっていたのである。
手話って、自分たちにはまったく分からないと思っていたけれど、何となく分かるところがある。
こういうように手話でするのは、こういうことなのか。
というざわめきが広がっていた。
数十mや100m離れていても
手話通訳が読み取れる手話通訳を
未就学のろうあ者もそうでないろうあ者も参加している。
そのろうあ者に候補者の演説内容が通じるように、手話通訳者は、手話を大きくし、出来るだけ身振り表現からくる手話もとりいれながら手話通訳したことが逆に参加者の理解を広げたようである。
立会演説会で、手話通訳が見えやすくするため2m四方の手話通訳台を置くことを条件にしたのは、例えば「歩く」という手話は、人差し指と中指を「足に見立て」歩く動きをするが、10m以上も離れるといくら大きな動作をしてもろうあ者から見えない。
その場合は、手話通訳者は手を振り足を上げ下げして歩く動作をすると、ろうあ者側から見える。
出来るだけ大きな手話表現をすると数十mや100m離れていても手話通訳が読み取れるということを京都の手話通訳者は確かめていた。
だから、身体全体を動かしたり、足を前に後ろに、左右に動かすためには、2m四方の手話通訳台が必要であると選挙管理委員会に申し入れをし、承諾を得ていた。
マイクが引きちぎられたことで聞こえる人は
手話に興味と関心とを持ちはじめる
このことは、ろうあ者だけではなく、聞こえる人にも見やすい結果になった。
マイクが引きちぎられたことで聞こえる人は、手話に興味と関心とを持ち、分かる表現と分からない表現があり、隣同士の席の人と意見交換するようになっていったのである。
さながら、体育館で自主的手話講習会が開かれたような様相になって会場のざわめきが次第に渦を巻きだした。
手話通訳者が、手話をするとみんな同じ手話をしようとする。
手話通訳者もろうあ者も驚いて、ろうあ者は振り返り、会場のみんなの手話を見てにこにこしたり、いやそうではないこうだと、手話でみんなに返事をするとみんなはそれをまねる。
その様子に吹き出したり、笑ったり、会場は騒然とし出した。
候補者を見る人よりも
手話通訳を見る人のほうがはるかに多くなって
選挙管理委員会が、「ご静粛にねがいます。」と言うと
「マイク、マイク」の声。「聞こえないよー」の声が返ってきた。
まもなくマイクも準備され、候補者は再び演説をはじめたが、会場の多くの人は演説を聞きながら手話通訳を見て、ヘーッ、あのようにするのかと候補者を見る人よりも手話通訳を見る人のほうがはるかに多くなった。
ろうあ者も、聞こえる人が手話に興味を示してくれたこと。
手話を覚えようとしてくれていることを知って大喜びであった。
立会演説会が終わってろうあ者は、手話通訳者のところにやってきて、「よかった、よかった」と言うだけではなく、聞こえる人もやってきて「このことは、この手話でいいんですか」「手話を教えてください。」「手話って、私らの言っていることとぜんぜん違うと思っていたけど、そうではないんですね。」と言ってきた。
丹後のろうあ者に、新しい仲間が芽生えた。