2011年12月17日土曜日

徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つとも


Once upon a time 1969

 母親が言うには、

 兵役免除のハンコは、徴兵検査官がその場でおすんだそうで、そうでないとききめも何もねえんだってヨ。
 だからおれ、タケこと、検査場に連れていくよ。はじを忍んで連れていくよ

 そして母親は涙を拭いた。
 涙は忍び切れぬいたみの故ではなかったろうか。

 それでもただ一つ幸いなことに、検査当日は快晴だった。
 母親はタケちゃんの妹たちに手伝わせてタケちゃんをリヤカーにのせた。


 行ってくるよ

と、タケちゃんははしゃぎ気味だ。
 おそらくタケちゃんは

 沼も見られるし、汽車も見られるんだから

と母親に説得されていたのだろう。
 そして母親は母親で、


 一人で大丈夫かい

と声をかける隣組の人々に言った。

 大丈夫だよ。大丈夫だから心配しねえでくろ。こんな非常時に、役にも立たねえがきを持つだけでも気がひけるのに、この上迷惑なんどかけちゃ、あと、あと、合わせる顔がなくなるからヨ

ぽたり、ぽたりと涙をこぼして

 日ごろ、農家組合とか隣組とかいってつき合ってはいても、こんな際には何んの手も貸そうとはしない人たち。
  しかし考えてみると、その人たちも既にむすごを、或いは夫を戦場に送っていたし、なかには戦死のしらせを受けているものもあって、そう易々とは手を貸せない状況だったのだ。

 その夕方、タケちゃんの母親は、

 タケに小遺いをもらったお返しだ

と言って、中筑一杯の甘藷をとどけてくれた。
 甘藷は苗床に伏せた種いもの残りで、品種はカゴシマ。

 肉質のしまったこの甘藷は、保存がよければ夏まで大丈夫とのこと。
 さて、母親はその甘藷を一つ一つ取り出しながら、


おらもこれで大役(大厄)がすんだよ

そしてぽたり、ぽたりと涙をこぼした。

                        タケよ、タケよ

 徴兵検査場にあてられた龍ヶ崎の学校までは約2里半(10キロ)。
 快晴ながら、母子にとってそれはどんなに辛い行程だったろうか。
 ハンドルを握る母親は、


 タケよ、タケよ

と、リヤカーにうずくまる麻痺の子を案じ、何度も何度もふり向いたにちがいない。
 そして町のなかでは人目をはじて深々とうなだれもしただろう。
 更に徴兵検査には非国民のように扱われ、泣くに泣けぬ思いをしたかもしれぬ。
 もし、そうでないとするなら、なぜに検査場に出頭させる必要があったのか、と私は言いたい。
私も暫くは泣くに泣かれぬ思いだった。


もう二度と、あんな残酷を繰り返さすものかと髪を逆立てる

 タケちゃんはそれから4年目に死んだ。曽て知人がみたてた通りだった。
 そしてタケちゃんの母親も、死んでもう3年になろうか。
 私はこの日ごろ、改憲とか国防とか、或いは靖国法案とか聞くたびに、母親のリヤカーに乗って徴兵検査に向ったタケちゃんの後姿を思い出す。
 そして、もう二度と、あんな残酷を繰り返さすものかと髪を逆立てる。


 うれしいことに、この思い、"孤"ではない。
 昭和五十三年九月十八日の「朝日歌壇」に私は友をみつけた。
 
 友の名は石井百代。


 徴兵は命かけてもはばむべし
 母祖母おみな牢に満つるとも


石井さん。ほんとうにありがとうございます。


と、住井すゑさんは、一人の小児麻痺のタケちゃん徴兵検査のことを書いておられます。
 タケちゃんのおかさんの住井すゑさんに言った言葉。
 その奥深い哀しみ。


 
 徴兵は命かけてもはばむべし の意味を噛みしめていたが、出版された「原爆を見た聞こえない人々」のONさんの被爆証言に綴られた「徴兵検査」の一文を、
住井すゑさんのように深く理解出来ていなかったことに気がついたのはかなりの年数が経ってからだった。



2011年12月16日金曜日

徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つとも


Once upon a time 1969

徴兵検査を調べていた頃、私は、ふと「暮しの手帖」を読んでいて、住井すゑさんが次の文章を書かれていたのでびっくりした。その一部を紹介させていただく。

 住井すゑさんは、「暮しの手帖71号」に「牛久沼のほとり」という題で住井すゑさんは戦時中の話しとして小児麻痺だったタケちゃんのことを書いていた。


  あと十年のいのちでしょうから
   親ごさんにもそのへんのことを呑み込んで

 おばさん、おばさん、おれ、ウサギ、飼いたいんだよ

言いながらタケちゃんは大急ぎにいざり寄ってくる。
 タケちゃんは十三歳。
 普通なら小学校を終る年齢だが、小児麻痺のため、校門をくぐったことは一度もないとのことだった。
         …………

 そんな折柄、慶応病院の整形外科に勤める知人が、旅の帰りだと言って立ち寄ってくれた。
 私は早速事情を話し、知人をタケちゃんの家に案内した。
 タケちゃんの両親はもちろん大喜び。


 東京の大病院の先生に診てもらえるなんて……

と、くり返し謝辞を述べた。
さて、診察を終えて戻ってくると、知人は声を曇らせて言った。


 かわいそうだが、今からではどんな手当をしてみたところで効果はありません。
 あのままにしといてやるのが、あの子のためにはしあわせですよ。
 それに、精切り、あと十年のいのちでしょうから、親ごさんにもそのへんのことを呑み込んでおくように言っといて下さい


 行きがかり上、私は知人のみたてを、そのまま両親に伝えるしかなかった。

 あと十年け。……そりゃ、そうだっぺよネ
 うなずく両親はさすがに愴然としていた。

おれ、東京の病院の先生に
     みてもらったんだよとほこらかに告げた

 けれどもそんなこととは知るよしもないタケちゃんは、以後、眼に見えて元気になり、所用でたずねる近所の人をつかまえては、

おれ、東京の病院の先生にみてもらったんだよ

とほこらかに告げた。

 田舎ではめったに望めない東京の大病院の先生にみてもらったおかげで、タケちゃんは今に歩けるものと信じている様子だった。
 とかくするうち年が過ぎて、タケちゃんは思いもよらぬ不幸に見舞われた。
 父親が死んだのだ。
 沼向うの丘の、松の木の伐採中の事故で、殆んど即死に近かった。


タケちゃんの肩幅は
 麻痺の両脚とは無縁に、それなりの広がりを

 これからは、タケをどうやって風呂に入れようか、おら、それが一番心配で……
と母親は涙ぐんだ。
 十六歳をかぞえるタケちゃんの肩幅は、麻痺の両脚とは無縁に、それなりの広がりを見せてきている。
 そんなタケちゃんを抱えて入浴させるのは、人並より小柄な母親には、実際にたいへんにちがいなかった。
 ところで、それからまた月日が過ぎて昭和19年。


 タケちゃんたちには新しい難事がふりかかってきた。




タケちゃんの徴兵検査である。

 けど、村役場には「兵事係」もあることだし、タケちゃんが兵隊に向かないのはちゃんとわかってるんだから、「兵役免除」の申請をすれば、わざわざ徴兵検査場に行かなくてもすむんじゃないかしら

私は母親に言ってみた。



 しかし、そんなしろうとの常識など通るところではなかった。

2011年12月15日木曜日

あやまって、殴られて、倒れてでも殴られて、血を流しつづけて「聞こえないことを証明」


Once upon a time 1969

「米国機10機・日本機20機、ひいたら何機になるか?」
「ひいたら日本機は10機。だから日本はやっぱり強い。」

 こんな勉強がろう学校で教えられた。
 ともかく、数が上回るのが、日本。

 それが算数の勉強である、あらゆる教科や学ぶ内容が一方的になり、しかも暴力で無理矢理学ばされたとの証言がほとんどだった。

1942(昭和17)年にYさんは、徴兵検査を受けたが

 1942(昭和17)年に、Yさんに、徴兵検査があり、お母さんとともに検査に行った。
 徴兵検査は、検査は男性ばかり、しかも「ふんどし」ひとつで検査がされる。そして、全裸にされ身体の隅々まで調べられる。
 だから、女性立入禁止。
 それでもYさんのお母さんは、Yさんといっしょに行った、とのこと。


 この時のお母さんの気持ち、どんな思いでYさんのお母さんは徴兵検査場へ行ったのか……は、すでに述べたようにお母さんは亡くなっていて聞きようがなかった。
成人した男性が
全裸の徴兵検査会場に行かねばならないおかさんの心情

 徴兵令のもとに満20才になる男子は、戸主を通じて、本籍地の市町村長に届出をなすことが義務づけられており、この届出をもとに、名簿が作成され徴兵検査の事務がすすめられる。(時代の推移とともに変えられますが……)
 まさに成人した男性が、全裸で検査され、罵声がとぶ、なぐられるなどしばしばあった非人間的な状況の中で、ろうあ者Yさんと、お母さんがそこへ行く気持は極めて複雑で強い決意があっただろう。



 当然、検査でYさんは「耳が聞こえない」ということを軍人に疑われたらしい。
 が、そこでのやりとりなどはYさんはまったく分からなかった。
 ただ、お母さんが、ただただ謝り、何度も何度も頭を下げて検査をしている軍人にあやまり、何か必死になって言っている姿をYさんは忘れられない出来事として深く覚えている、との話だった。


 戦争で死んでもいいと思っていたけれど
   聞こえなくてすみません

 Yさんのお母さんは、前もって何度もおねがいして作ってもらった町内会で作成してもらったYさんについての詳細な文章を持っていっていた。
 町内会の証明・お母さんの証言。
 このことで、Yさんは、ろうあ者であることがようやく認められた。
 その時のYさんは
「戦争で死んでもいいと思っていたけれど、聞こえなくてすみません。すみません……。」
と心の中でつぶやいていた。
 家に帰ってお母さんは
「ろうあ者だから、天皇に背いたのと同じだ…」
と言っていたことは忘れられない、と証言してくれた。


あやまって、殴られて、倒れてでも殴られて、血を流す光景

 お母さんは、どんなことを言って軍人にあやまったのか、その時の本当の気持はどうだったのか。
 軍人たぶん下士官か、軍医は、ろうあ者Yさんのお母さんにどんなことを言ったのか、を知ることによって、当時の軍の考え・家族の気持・ろうあ者の社会的状況がよくわかるが、それがYさんにも分からない哀しみがあった。
 何度も何度もYさんの記憶を聞いてみたし、Yさんもそのことを思い出したかったが、
眼に焼き付いた「お母さんがしきりにあやまっていた」ということだけだった。
 当事者のYさんは全く聞こえていないから……当時の情景しか言えない。

 私は、Yさん以外のろうあ者の人々にも徴兵検査場について聞いた。
 しかし、兄さんと行った、お父さんと行った。
 ともかくむちゃくちゃ殴られ続けていた。
 あやまって、あやまって、殴られて、倒れてでも殴られて、兄さんやお父さんが血を流しつづけてもがく光景。
 ろうあ者自身も棒で何度も、何度も殴り倒されたという証言は、あったもののその全容は把握出来なかった。

 ろうあ者の徴兵検査について、多くの人からの証言を得たがすべて同じだった。
 


 そこで、徴兵検査についてろうあ者と共に徹底的に学習した。

 すると、多くの人々が徴兵されると家族が飢え死にする。
 一家の大黒柱がいなくなると言うことで、徴兵検査の前に大量の醤油を飲んだり、自ら身体を切り落としたり、さまざまなことをして徴兵回避していたことが分かってきた。

 しかし、かなりの数の障害者が徴兵されたことは間違いがないことは充分推定できた。