2013年1月23日水曜日

適応教育からの脱却は、笑いの渦の中から

 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
   鏡の前で手話表現すると

 健聴生徒にも聴覚障害生徒にも「手話」を教える場合は、必ずその手話表現の意味を説明し、その手話表現と自分の言いたいことがぴったりくるかを考えさせた。
 まず難関の聴覚障害生徒の「学校」「行く」「ない」
となって、学校に行くことはない、学校に行く必要はない、ということになる問題に取り組んだ。
 

 手話テキスト通り、と主張して譲らない聴覚障害生徒を

 鏡の前で「学校」「行く」「ない」

をそのままやってみるようにした。
 驚いたのは、聴覚障害生徒である。
 学校に行くことはない、と鏡に映る自分に戸惑いを感じた。

 
  適応させられてきた自分との決別

 この時、自分の思いが、相手に通じているか、どうか、そのことを考えていない自分。健聴生徒から指摘されても譲らなかった自分に対して悩み、動揺しだした
 
 このことは、先生や親の言う通りしてきた、適応させられてきた自分との決別であり、葛藤でもあった。
 

 言葉や文字を自己表現の一つであるという重要なことが、学ぶ機会がなかった、いや学ばさないで「いい」「悪い」だけで言葉や文字を教えられてきたことに対する教育の悪しき反映であったとも言える。
 


 手話であろうと口話であろうと聴覚活用であろうと、この重要な点を飛ばしてはならないのである。
 口話で徹底的に育った聴覚障害者が、口話を否定して手話を主張するときそれまでのことをすべて否定して、「手話唯一論」に陥るのは、教育の中で上記のような取り組みがされてこなかった証でもある。
 聴覚障害生徒のコミニケーションには、唯一絶対な方法はない。
それは、聴覚障害でない人もそうだろう。
 ことばで、すべてのコミニケーションをとっているわけではないからである。

  くりかえすことで強調する「ことば」

 悩み抜いた聴覚障害生徒は、必ず、「学校」「行く」「ない」をどのように表現したらいいか聞いてくる。
 
 

その場合は、「学校」「行く」「必要」とまず教える。
 すると、はなし言葉と手話が合わない、とまた順序性にこだわってくる。

 そういう場合は、「学校」「行く」「必要」「必要」と必要をくり返すことを次に教える。

 すると、「必要」「必要」などくり返す言葉は、はなし言葉にはない、と言い出す。
 

 そこで「なあなあ」「なあ聞いて」、「えらいこっちゃ」「えらいこっちゃ」とはなし言葉に多くあることを言う。
 「ことばのマッチング」だけを教えられてきた聴覚障害生徒には、そのようにくり返すことばは教えられてこなかったために、ここでも戸惑う。
 
      爆発したような疑問が

 このようなくり返しの中で。はなし言葉も手話表現も豊になって行く。
 「じゃ先生。行かなければならないけどイヤイヤ行く場合は」「行かなければならないことがうれしい場合は」「行くけれど、行かんならん、行きたくない、行かんならん場合は」と次から次へと疑問が飛び出してくる。

 爆発したような疑問が次々とでてくる。

 このことは、非常に大切なことである。
 人間の表現は、決まり切った一つのことでなく、無限な表現があることを知って行くからである。

 
  好きな女の子がいても話しかけられない

 このことを理解する聴覚障害生徒と理解出来ない聴覚障害生徒とに別れる。
 理解した聴覚障害生徒は、理解出来ない聴覚障害生徒に「好きな女の子がいても話しかけられない様子」をさまざまなゼスチャーで現し、みんなを大爆笑に誘い込む。

 人のこころと表現。

 笑いの中で少しずつ獲得していくのである。





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