2013年4月17日水曜日

 届かぬ 血の叫び


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ( 解説 )

   退職させる根拠がないため
                  退職に追いやる非情な仕打ち

 ろう教育に長く携わり教育行政のベテランであるB先生をターゲットにした京都府教育委員会の「嫌がらせ」「いじめ」「半ば拷問」という非情な扱いに対して、現場で障害児教育を創造してきたA先生に対しても京都府教育委員会は、二側面からの「嫌がらせ」「いじめ」「本人から退職を申し出るような人事」を行った。
 そのターゲットは、A先生であった。

 この時期以降、京都府教育委員会は数多くの人事を行うが退職させられない、退職させる理由がない、しかし京都府教育委員会の意にそぐわない教職員に異常な強要するが、とりわけA先生やB先生のような扱いは希有であり、執拗であった。
 
 どんな非情な仕打ちにも負けない教育精(たましい)

 A先生のことは、与謝の海養護学校設立者として全国に知らせているが、A先生が養護学校づくりに取り組んだ以前と養護学校から「追放」された以降のことは、ほとんど知られていない。
 

 このことを知ることは、京都の障害児教育を担ってきたひとりの教師の人生だけではなく、与謝の海養護学校だけでなく京都の障害児教育の全容を知る上できわめて重要である。
 そのことを知れば、京都府教育委員会の非人道的な扱いにも決して怯むことのなかったA先生を理解できると思う。

 そこで、A先生のことを簡略的に説明したい。

  地獄をくぐり抜けて得た平和

 A先生は、丹後縮緬で有名な地域に生まれる。

  この地域の人々の生活は貧困との闘いであった。
 この地域では、高価な反物を織るために人々は24時間以上の労働を強いられていて、それでも借金を抱えるという悲惨な生活に追い込まれる人は少なくなかった。

 
 そのような貧困な生活を体験し、目の当たりにしてきたA先生は、地域の人々に期待されて師範学校(現京都教育大学)に入る。

 だが、戦時下。
 A先生は地元の学友と共に地域の人々に励まされ、盛大な歓送と共に学徒動員に出発する。

 そこには、兵器製造という過酷な労働とともに敗戦間近の日本の現実だけが待ち受けてきた。

 次々と多くの人々や学徒動員の人々が傷つき死んで行く地獄をくぐり抜けらなければならなかった。

 終戦。

 誰一人迎えに来ない中でA先生は学友の遺骨を胸に抱いて、ふるさとに帰る。
 この時のA先生の心中は、推し量る事が出来ないほど血の涙で溢れていたことだけは解っている。

  犯罪・健康破壊の戦争孤児の救済の取り組みの中で

 師範学校に戻ったA先生は、学友の傷ついた姿以上に戻らぬ友を見る。
 

 呆然とする中で次第に友人たちは、京都駅周辺にあふれ出た戦争孤児たちの救済に取り組む。
 子どもたちを京都伏見の観月橋近くの住まいに連れてきて、まず子どもたちの健康を回復する取り組みをはじめる。
 


 ダニ、シラミ、あらゆる寄生虫や感染に侵された身体を健康にして、産まれてから入ったことのない風呂に入れて清潔な居住を保障する。

 毎日、毎日そのくり返しをしながら、犯罪にどっぷりつかった子どもたちに、人としての「文化的生活を享受」する取り組みもするし、学ぶことで未来を見いだすことも教えていく。

 

 ここでは、戦争の犠牲者になった戦争孤児を選り好みする事など考える余地もなかった。

 
 すべての子ども、どんな子どもも人間として尊重しなければならないのだという考えが師範学校の学生達には貫かれていた。

 そして、その輪は、次第に他大学の学生にも広がり戦争孤児を守り育てる取り組みは大きな広がりとなっていき、行政もそれなりの対策を講じるようになってい行く。


 ここから、戦後京都の障害児教育がはじまる。
                                     
                                                                                                                 ( つづく )

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