2013年2月19日火曜日

手話弁論と言った校長は、弁論の意味深いの理由をあきらかにした


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 弁論、手話弁論大会にしたら、と言った校長は、その後以下のようなことを書きあきらかにしている。
 長文になるので分割して掲載したい。

 
 地域の人たちの願いと、教職員の努力
   それらを支えた行政の力によって
          京都の障害児教育は はじまった

 京都は聴覚障害教育の実践で全国に先がけています。
 すぐれた教育者古川太四郎先生をはじめとする、多くの先覚者の情熱と実践によって、植村京都府知事は明治11年「京都府立盲唖院」を開設します。日本ではじめての盲ろう学校でした。中京区御池通東洞院上ル船屋町で盲生17名、聾唖生31名によって出発します。

 障害児や地域の人たちの願いと、教職員の努力、それらを支えた行政の力によって開かれました。

 
 教育理論の発展や実践の充実・電気工学
    の進歩による普通校での教育

 昭和41年京都市ならびに市教育委員会は、出水小学校に難聴学級を設立しました。昭和43年には、この学校の卒業生やろう学校からの生徒を含めて、二条中学校に難聴学級のクラスができ、聴覚障害児は一般小・中学校でも、教育を受けることができるようになりました。

 これは教育理論の発展や実践の充実・電気工学の進歩によるところ、大きいものがあり、画期的なことであります。
 当時中学校の難聴学級は東京・大阪・岡山など各1校くらいしかない状態でした。
 二条中学校からの卒業生8名は、全員高校進学を希望し、「難聴学級親の会」を中心とする多くの人から、高校にも難聴学級をという要望が、府議会・府教育委員会に出されました。

 府・教育委員会は、教育の機会均等、発達を保障する施策として、昭和46年から山城高校に聴覚障害生徒を受け入れることを決めました。
 46年度には全日制2名・定時制6名が入学し、全日制に専任講師、定時制に専任教諭各1名ずっ配置されました。


 このことは、全国の人たちに大きな希望をもたらしたといえましょう。

   活発な論議と熱心な学習による第一歩

 それから14年の歳月が経過しました。

 
 普通高校で制度的に聴覚障害生徒の教育を保障することが認められ、教育条件が整備されているのは、全国で本校のみであります。

 10数年前、本校教職員の大部分は、聴覚障害に関する知識が十分でなく、また聴覚障害者と日常ふれあうことも少なかったことでしょう。
 


 そのなかで、同生徒をうけ入れ教育をしてゆくことは、大変なことであったと推測されます。

 活発な論議と熱心な学習を通して、はじめての教育に第一歩を踏み出しました。
 当時の教職員の高驀な精神とエネルギーに深い敬意を払いたいと思います。

 今日まで多くの卒業生を出しました。
 この間、教職員は未知の領域で多くの実践をつみ重ね、行政当局の援助により、全・定とも各2名加配教員が配置され、施設設備・備品も年々充実・大きな成果を結実させてまいりました。

   教育にすべてをかけた親子の苦闘

 卒業生のなかにNさんがおります。
 Nさんは、1歳半ばごろ足に大火傷で危篤、治療のため抗生物質を大量注射して生命をっなぐが、その副作用で耳が聞こえなくなりました。

 音やことばに反応を示さないことに気付いた両親は、傑然として病院回りを始めます。

 「耳を治すのは毒きらめなさい、言語取得の早期訓練が必要」

という医師の宣告をうけます。

 そのときの両親の深い悲しみは、当事者にしか解るものではありません。

 自宅が遠隔地のため、母は2歳半のNさんとろう学校の近くに下宿をし、同校幼稚部の門をくぐります。
 子どもがろう学校で先生の指導をうけるのを母親が覚えて、帰宅後復習を続けます。

 教育にすべてをかけた親子の苦闘が始まったといえましょう。
                                  
                                                                                                        ( つづく )



http://blog.livedoor.jp/kasa0774/archives/23685537.html

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