2013年6月13日木曜日

学校は 日常実践の悩みや喜びを語り合い 疑問を出し合い学習を深め 教育論議をし お互いに実践的統一を計りつつ支え合い 育ち合うところ


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 ( 解説 )

 日本のほとんどの人々は、学校教育を受けたことがある。
 その場合、自分が受けた教育から考えたり、自分が教えた教育から考えたりする傾向が強い。

 

 ようは、一人称なのである。

  一人称で語られないのが 教育

 だが、学校での教育は、一人称では語れない。

 いじめや体罰問題が浮上するといつも一人称で語られている。
 
著名な教育学者までが。そのため著名な教育学者の抽象論では、問題をどうなくし、どう解決するかが「見えて」来ない。

 そのため教育現場の現状を熟知しない「新しい教育評論家」が出てきて、単純な方法論で説明する。

 その方が解りやすいと共感が生まれる。

 この日本の現状からA先生の「殺人以外は何でもある中学校」という取り組みを見て欲しくはない。

  基礎集団づくりと学校再生の展望

 このブログで後々、障害児教育と普通教育の共通基盤とそれぞれの専門性を述べるが、学校での教育(学校だけではないが)は、集団が学ぶ場として捉え、その集団構成に血流を流す取り組みの具体的展開がA先生たちのの教育実践であったと考えている。

 聞き慣れない用語もあるが、あえてA先生たちが使っていた言葉で説明して行きたい。


 
 A先生たちは、教職員集団づくりの基本は、教職員それぞれの活動の基礎となる基礎集団づくりでと考えた。

 そして、「学年会」を基礎集団と確認した。

 教育労働の特質を整理して「教育労働は集団労働である」、と確認してきたが、その認識を育て合いながら集団労働としての教育活動を展開する上で必要な基礎集団づくりを進めたのである。

 実践の悩みや喜びを語り合い、疑問を出し合い

 その基礎集団では日常実践の悩みや喜びを語り合い、疑問を出し合い学習を深め、教育論議をし、お互いに実践的統一を計りつつ支え合い、育ち合う関係を発展させていく場でもあるとした。

 「荒廃」の唯中であった事もあり、学年会は機能していなかったからである。
 学年会の再生と定例化の提案に一部から「学年セクトをつくり出すから…」と反対意見もあったが、

「学年セクトが出るほど学年でまとまり、学年団として学年に責任をもちながら、学年で必要な創造的な独自活動がしてほしい」

そんな思いと論議の中で毎週月曜日(クラブ活動の無い日)を学年会の日として定例化したのである。

 学年会では、各学級の状況、各教科指導の状況等、子どもの実態を中心にしつつ、実態に即した独自課題の設定や活動が展開されるようになっていった。

   クラスが荒れるのは
    担任が悪い  教科担任が悪い のか

「クラスが荒れるのは担任が悪い」
「授業が成立しないのは教科担任が悪い」

と担任の責任とされる見方の中で悩み、元気を失っていた教師を学年として包み込み、学年会として 援助し合いながら取り組みを進める中で相互信頼関係を発展させ、学年教師集団のまとまりの発展によって「荒廃」克服への新たな実践が創り出され「荒廃」克服への展望がつくられたのである。

 どんな状況下にあっても基礎集団は破壊されてはならないし、基礎集団の発達が全教職員集団の発達を大きく支えるといえる。

  教職員が「集団づくりの主体者である」との認識の深まり

 教職員集団づくりは、四月中旬補導委員会の毎日開催、五月段階で学年会の定例化、八月段階で運営委員会の再編強化の提案、更に研究部の再編強化、生指部の再編と活動の強化等、運営体制全体に及ぶ取り組みであった。

 しかし、組織づくりが即、民主的教職員集団づくりになるのではない。

 子ども観、学校観、教育観等の論議が共に進められ、発展の中で組織づくりがなされなければならないことは言うまでもあるまい。


 さらに、個々の教職員が「集団づくりの主体者である」との認識の深まりがなければ、組織づくりと学校づくりと民主的教職員集団づくりの統一はつくり出せない。
  それらは職員会議での教育論議を抜きにしては実現しない。


  学校の再生を課題として
       取り組む中で口角泡をとばす論議

 職員会議は教職員の実践上の意志統一を計るのみでなく、学校運営参加への重要な場である。
 そこでの教育論議の質と量が教職員の認識を育て、変革し、統一し、確信を生み出すのである。

 教育と学校の再生を課題として取り組む中で口角泡をとばす論議が交わされた。

 一つの行事の取り組みについても、子どもの現状のとらえ方、発達可能性のとらえ方、指導の展望をどう切り拓くか等々、であった。


 C中学校再生への歩みは激しい論議の保障の中で

「発達の主体は子どもである」

「子どもは無限の発達可能性をもっている。」


との子ども観の共通認識の確立にはじまったといえる。

 この事を抜きにして荒廃克服の課題も見えず展望も開けない、そんな思いであった。
 この子ども観の集団的認識によって「荒廃を克服するのは子ども自身である。」ととらえ、

「自立と自主と自治の力を子どもひとりひとりと集団の中に育てる。」

との方針の確立によって発達保障への実践が生み出されていったのである。

 教職員は度重なる論議と、試行的実践の中で自らを変革し、「ピンチはチャンス」の実践的楽天性を生み出し、教職員集団の団結によって、正常化→再生→建設→新しい建設への歩みを確かなものとしたといえよう。 (以下略)

 

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