2014年1月10日金曜日

インテグレーションIntegration メインストリーミングmainstream インクルージョンinclusion の本質的意味と概念


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


これまで、京都ろう学校の授業拒否事件を述べてきた。
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http://kyoikkagaku.blogspot.jp/2013/08/blog-post_28.html
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また、インテグレーシュン( 対応教育 )の概要を掲載してきた。
 でもこれはほんの一部に過ぎない。

  過去の教育を十分研究しないで
                  断定が横行する今日の背景

 調べて見ると長い時間とさまざまな問題が複雑に交差している。

 今日それらを紐解くことなく、過去はダメで、これからは……と断じる人が多い。

 過去のどこがダメで、どのようにすべきであったのか、その教訓にもとずいてどうするべきなのかということがまったく試みられていない。

 特殊教育から特別支援教育へと発展していると「発達障害」を論じる人々は、特にその傾向が強いようように思われる。

  Special な教育は低位な教育ではなかったはず
    実態の離反が産んだ問題

 特殊教育とは、英語ではSpecial educationとなる。

 Special としながら、特殊教育を一般教育より低位にされていた事実をどのように考えるのかを考えない限り問題は解決されないのである。

 特殊教育という日本語を否定しながらSpecial Needsと言って何ら疑問を感じない人々が多すぎるのであえて提起をしておきたい。

ろう学校に手話だけが導入されても
 すべてがうまくいくことではない

 また手話を学ぶ人々の中では、京都ろう学校の事業拒否事件は、口話法に対する手話で学びたいという生徒のストライキであった、と断じ、ろう学校で手話による教育を、と言い続けている。

 だが、このことは本当にそうなのかを検証してほしいものだと思う。

 1960年代に手話を教えてくれたろうあ者は、手話表現の自由で闊達な特徴を誇らしげに教えてくれた。

 そこには、こうでなければならない、というワクはない。またこれが正しい、あれは間違いだ、と決めつけるものはなかった。

 たしかに、手話表現をめぐって論争はあったが、それは、コミニケーションをより深めるものとしての論争だった。
 大阪市立ろう学校と京都ろう学校の卒業生同士の手話表現をめぐる論争もそのひとつだった。

 ろう学校で、手話を全面的に採り入れればろう教育は大きく発展するのだろうか。
 この問題に対していつも言うのは、聞こえる生徒ばかりの学校で、なぜ生徒たちは授業にについて行けなくなっているのだろうか。
 コミニケーションの条件はあってもコミニケーションが成立することとは別である、と言うと反論が返ってこない。

 外国語に右往左往する日本の教育界

 思いこみ、感情的に教育が論じられていないだろうか。

 インテグレーションIntegration   メインストリーミングmainstream インクルージョンinclusion   とさまざまなカタカナ文字が飛び交ってきたが、なにかこのようなことばには、新しいものがあり従来の日本の教育と異なったものという傾向が強い。

 京都ろう学校幼稚部では、インテグレーションということばではなく、対応教育ということばを使っていた。
 対応とは、普通教育に対応出来るという意味であったことはすでに紹介した。

 日本語には、表音・表意の意味合いが含まれているためその概念の意味は日本語文化圏では捉えられる。
 ところが、インテグレーションとなるとさまざまな解釈が受け取る側に浮かぶので、その概念はさまざまになる。

 インテグレーションの意味合いを1960年後半から調べた先生たちは、アメリカに於いて黒人が白人社会の教育に統合することから使い始められていることを知って愕然とした。
 黒人が、白人社会に適応する。

 人種差別的な色合いが濃厚なこのことばが、障害児教育に導入されてきたからである。

 では、メインストリーミングmainstream インクルージョンinclusion の概念は日本の教育界で十分吟味されてきたのかという問題がでてくる。


下記に移動しました。
http://blogs.yahoo.co.jp/rouanken

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