2012年3月16日金曜日

後藤勝美さんの文章が 勝手に「障害者」を「障がい者」に


Once upon a time 1969

                                       「 健康教育概論 - 生きる権利の認識 - 野尻與市著 」より続き


  息吹きをみせる「健康」は

 このような見方をしない限り,少なくとも現在の医学・技術をもってしては健康たりえない人びとにとって、憲法25条1項がいくら「健康」を権利と認めても、それは絵に描いた餅にすぎなく、そうでなくても軽視されがちなこの条文は、一そう空しい存在になってしまうであろう。
 この条文が本当にその息吹きをみせるのは,「健康」そのものにこだわらずに、つまり
「健康の如何にかかわらず」
ということで、もっとはっきりいえば、
まず

「不健康者が文化的な生活を送る権利を有する」
という形で、私たちのものになったときのことであろう。
 私たちはいま、ここで述べたような人たちにも健康の押し売りをしているとしたら、彼らにとってそんな残酷なことはないであろう。
 また逆に、押し売りしても甲斐がないからと、放置することも、それはまさに切り捨てであり、やはりこの上ない残酷なことといわねばなるまい。


8 「健康な生命」と「健康でない生命」

 前に記した「公衆衛生」のなかで、私が力づけられた文章に、都立大学・唄孝一氏の次のものがある。
 氏はいう。


 「それ(健康権)は基本的に、生命権の下位観念であるべきである。
 生命概念から遊離した健康観念のひとり歩きは危険である。
 このことは、二つのととを意味する。

 一つには「健康な生命」も「健康でない生命」も、生命としては絶対的に平等であり、前者が後者の上位に位するものではないということである。

 二つには,しかし一つの生命にとってはつねに「健康でない」状態を脱して「健康な」状態への上昇を志向し健康を要求する権利が与えられているぺきである。
 健康でも不健康でもどちらでもいいというのではない。
 以上の二つの理論の関係を正しくとらえることが必要である」と。


 唄氏はさらに次のようにもいっている。

「ここで非常にむずかしいのは、この健康ということを言い過ぎると、なにか「健康でない生命」よりも、「健康な生命」のほうが価値があるという議論に結びつく危険も一方で持っているわけです。
 そういう発想から健康でない生命は健康な生命に向上するべきであると外在的に上から判断を加えることになり、衛生警察的な意味での公衆衛生といったようなふうになってしまうおそれがある。……むしろ健康な生命も健康でない生命も完全に生命としては平等であるという命題をはっきり基礎にすえなければならない。

 その意味で健康と生命を区別しながら、あくまで生命ということでもう一回統一するという視点がなければいけないのではないか」

 これは,前項において述べたことの、まさに法学的表現といえるものである。
 このような考え方は常識でなければならない、とする私見は、唄氏のこれらの言によってこの上なく力づけられた。

 しかし、残念なことに、学校保健といわれる領域では、少なくとも公式には、このようなことは論議されなかったといってよい。
 「体力づくり」には問題点をみつけるが、「健康づくり」になるとホイホイとさそいの手にのってしまう、というのが学校教育における場合の実態といってよい。
 そして、それがエスカレートすると、次のように恐るべき「強さのクラス分け」さえ行なわれるようになるのである。
 このクラス分けは、大塚正八郎氏よるものであるが、氏は、健康の定義には

「生活のどの場でどんな作業ができるか、という体や心の「強さ」の概念を考慮する必要がある」

とし、その強さを

「A、陸海空のどこでも、どんな作業  にも耐えられる。
 B、陸と海で普通の作業ができる。
 C、陸上で普通の作業ができる。
 D、日常の仕事も一人ではでぎない(薄弱、病弱、有症者)。
 E、病人」

の5段階に分類、そして「これを性、年令などの要素によって健康度を測定する」と述ぺているのである。

 ここには、健康でない場合は役立ずだから切り捨て、健康な楊合はより健康にして陸海空軍要員にという発想、すなわち「健康な生命」の方が「健康でない生命」よりも価値があるという発想があり、しかも、そのような立場で行なわれる学校での健康についての教育(もちろん管理も含めて差支えない)は、医学的・健康至上主義的「保健」教育に、いとも容易に変貌する可能性があることを知らねばならない。

 この文章が頭によぎった時、後藤さんの言いたいことと同じだと思った。
  著者の言う

障害者については、障害のある子どもをすべて非健康者として扱うことは大きな差別であり、まちがいです。すぺての子どもの人権を尊重する立場から考えれば、わかることです、という発言がある。
 これは心情としてはわかるが、健康をそれこそ人権の立場から考えるときは、決して正しくはないのである。
 なぜなら、もしこの人たちの状態を健康と認めるとすると、憲法25条1項にうたわれている「健康」の中身が大きく後退し、その人たちは「健康」であるということで巧みに処理される可能性があるからである。


という心情と健康権の問題を理性的に整理しておかないと、憲法の健康保障が巧みに利用されてしまう。
 後藤さんもそう直感したのではないか、と思った。


 その後、新聞社の全国版から、後藤さんに「障害者」と「障がい者」についての原稿依頼が来たとのメールがあった。
 新聞社側は、後藤さんの原稿を一方的に書き替えたことの謝罪と後藤さんの意見を全国に知らせたいということであった。
 
 後藤さんは、考えたあげく、その依頼を受けて私の意見も含めて多くの人から意見を聞いて、推敲に推敲を重ねていた。


 だが、それは後藤さんの絶筆になるとは夢に思っていなかった。

 明日23日の朝刊に掲載されます、のメールがあったが、その文章を見るのはずーっと後になった。



後藤勝美さんについては、以下のホームページをご参照ください。
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http://www.gayukobo.com/
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