2013年3月28日木曜日

病気に負けない、強く生きよう、明るく歌っていこう、豊かに伸びよう


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
  障害児教育は、民主教育の中でドリルの役割

・B
 障害児教育は、民主教育の中でドリルの役割を果たした。


 例えば、バスの電光掲示板。ろうあ者運動の中でつくられていった。
 音の出る交差点、信号。
 京都では千本北大路に初めてつくられたけれど、盲学校があり、ライトハウスがあると言うことで盲協会が運動した。

 今では、どこでも当たり前のように設置されているけれど。
 
 

 時代を先取りする課題と問題を
                       持っているのが障害者問題

 時代、時代を先取りする課題と問題を持っているのが、障害者問題であり、その課題に風穴を開ける役割をしてきている。

 それらのことを頭に入れて、舞鶴養護学校での取り組みをすすめた。
 運動会、生徒会選挙など全部自分たちでやった。
  教師は後ろで見ているだけ。
 文化祭も入学式も企画は、子どもたちの自治会がする。
 


 病気の子どもたちが、生き生きするようになっていった。
 
 衝撃を受けた高校生も

  京都の障害児教育・障害児学校が、京都の普通教育・普通学校に多大な影響を与えたことが、ほとんど知られていないが。  交流だけでなく、授業にも大きな影響を与えたが。

・B
 与謝の海養護学校と加悦谷との取り組みなどなどや春季討論集会(高校生)の障害児学校の生徒が参加して話し合ったりしたことは、大きな影響を与えた。


 障害児学校高等部の生徒が、発言する。
 高校生は、なんのために勉強しているのかを考え込む。
 衝撃を受けた高校生も居た。

 何となく勉強せんとあかん、と思っていた自分の情けなさに。
 また学ぶことの大切さに。


 ろう学校の「授業拒否事件」のきっかけは、ろう学校の中で春季討論集会にどの先生が引率してくれるのかがきっかけだったとOさんたちが書いている。
 手話の出来るB先生を代えた、と。

 そのころから、障害児学校の生徒が春季討論集会に参加しだしたが、コミュニケーションなどとは思われない。
 自分たちの人権問題を春季討論集会で、話したいという強いねがいがあった。
 
   隔離部屋に入れられた中での苦闘と展望

 それから、府教委から桃山養護学校に行って、病弱教育が課題と言うことで舞鶴に行かれるのですね。

・B
 舞鶴養護学校づくりで1年間準備室。


 そして、舞鶴養護学校の教頭を4年して、ろう学校教頭としてろう学校に戻ったんです。
 教頭会の役をしていたが、全国ろうあ者卓球大会が京都であった。

 全国を順番に回る大会で、府立体育館が会場となっていました。

 保健体育課からろう学校に来て、大会で日の丸、君が代をさせるべきだと言ってきた。

 私は、今までの全国ろうあ者卓球大会で、日の丸掲揚、君が代斉唱はしてなかったし、あくまでもろうあ団体などが共催・後援する大会なので行政が大会の運営・内容に干渉することになるので、そういうことは出来ない、と言ったんです。


 すると府教委に呼び出されて、「理由を言え」と言われるので説明をした。
 その明くる年、異動させられた。

 教育研究所に2年間。
 隔離部屋のような状況にされて。


  見せしめと言葉狩り

 A先生も転勤させられたのも。

・B
  見せしめでしたわ。


  一番ひどかったのは言葉狩り。

 
 発達保障を使うな、発達というな、集団という言葉はダメだ、労働教育は、作業に改めよ。

 などなど府教委の指導主事から研究会の度に言われ続けた。
 

 ともかく、全障研や今まで使ってきた言葉を使ってはいけない。

 それらの言葉は今まで使われてきたものなので、変えることをしなかった。
 今どうなっているか、は知らないけれど。


 府教委の文章に発達課題など当時禁止した言葉が、今は、多く使われていてる。
 禁止した言葉を府教委が、今はいくらでも使っている。何だったんだ、あの禁止と指導は、と思う。

 ともかく、憎しと言う考えがあったのでは。

・B
 あった。


 その時、田中昌人先生が、「発達」という言葉を、法律(地方自治法の目的に発達という言葉が使われているなど)から洋学、蘭学までとことん研究される。
  B先生は、ろう教育からはじまって、教育行政、桃山養護学校、舞鶴養護学校、ろう学校、教育研究所、亀岡中学校と経験されるわけですね。
 特に、舞鶴養護学校に行く時は、どのよう
な気持ちと決意を持って行かれたのですか。

教育、病院、地域、親、教職員が
  手をつないで輪になって子どもたちを守ろう

・B
 舞鶴養護学校に行ったのは、私自身の発達だったと思っています。
 それまでは、病弱教育を考えてもいなかった。


 でも府教委にいる間に文部省から幾度も病弱教育が全国で一番遅れているという文章が来る。
 京都では、養護学校は京都市立桃陽養護学校だけ。


 だから府立として病弱児の養護学校をつくらないと、ということになっていた。
 この時、私は病弱児の発達と教育を考えた。
 準備室をつくったときに舞鶴養護学校の運営方針を作った。
 舞鶴養護学校の5年間は、最後の実践だったから一番自信を持ってやることが出来た。
 医療と教育と地域が結びつく学校をつくる。
 校章が出来たときが一番うれしかった。
 子ども手を上げた姿を中心に、花びらが5枚。

 教育、病院、地域、親、教職員、が手をつないで輪になって、真ん中にいる子どもたちを守ろう、という形で桜の花の形になっている。

 強く 明るく 豊かに を方針にした。
 この時の子どもたちと親と教職員は、今でも繋がっている。学校潰されてないけれど。

  小中合同の基礎集団をつくった

 それから組織図をつくって、国立病院といかに連携するか。
 それぞれの中で一番大事にしたのは、舞障連、近病連、舞教研、府同研、京障研、府障研、院内指導部。
 校務分掌なども考えて、子どもたちの基礎集団づくりをやっている。


 与謝の海養護学校のA先生から指摘されて、与謝の海養護学校から舞鶴養護学校に2人来ていた。
 その時に、「集団どうする」って言われて、
「そんなん5,6人の集団しかならない。」

と言うと

「年齢差を超えた集団つくろう」

と言われて。
 小中合同の基礎集団をつくった。

 6歳の子どもと11歳の子どもときょうだいと一緒のようになった。生活も宿題も教え合い、助け合う。

 このことが、非常によかったと卒業生たちは今でも言っている。


  子どもたちがつくった学校の校歌

 学校の校歌。

 作詞作曲全部子どもたちがつくっている。

 「みんなのねがいは」と言う言葉を出している。
 病気に負けない、強く生きよう、明るく歌っていこう、豊かに伸びよう、そして、強く 明るく 豊かにの3つの言葉を子どもたちが入れている。
 

 自分たちがつくった校歌を毎朝子どもたちが歌って。 

  みんなでつくる楽しい学校 苦しいときには勇気を持って 夢を大きく広げつつ 豊かに伸びよう肩くんで

これが集団主義の教育やと思った。
みんなと手をつなごう だるまさんをみんなで作って「転けたら 立て」と。

                                                             ( つづく )

 

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