2013年3月16日土曜日

「これで終わりではない。」「これからはじまる」 と京都府知事


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


( 解説 )B先生が、1952(昭和27)年新採時には、ろう学校で学習する義務を親に課せられていてもそれを具体的の保障するものがなかった。
 そのため多くの聴覚障害の親は、「就学猶予・免除」申請をしなければならなかったのである。
 そのことをB先生は、前号で「それまでは、法的援助がなかった。親はお金がないからろう学校にやれない。畑作業をする労力としてその子らを、でないと生きていけない。」と述べている。
 それでも、一日、数ヶ月、数年かけて家庭訪問してろう学校に来れるよう教師は大変な努力をした。

「就学困難な児童及び生徒に係る就学奨励についての国の援助に関する法律」
公布:昭和31年3月30日法律第40号 施行:昭和31年4月1日。
 すなわち1956年になって、多くの不充分さはあるが、ろう学校入学のための経済的援助がはじまり少なくない生徒がろう学校に入学できたのである。だが、この段階でもろう学校に入学でいる生徒も多くいた。


   日本のろう教育における革命的出来事だった
 

「ろう学校の授業拒否」という事件があったんですが。

・B
 あれもそういう一連の問題のひとつ。(前号で述べた教師の持っていた問題などの)


 口話教育の学校や。
  手話教えへんとか。


 補聴器付けて、聴能訓練受けた子どもも居たし先生の言っている事が聞こえている生徒も居たのに、言った、言わない、となって……。

 3・3声明を京都府ろうあ協会が出すようになった経過は、日本のろう教育における革命的出来事だったと言えると思う。
 あれから、ろうあ者運動も大きく広がっていった。
 ろう教育も変わってきたが、今、特別支援学校と言われているが、何を支援するのか解らない。

  学校に組合の分会はあったんですか。

・B
 分会はあった。最初は、盲学校とろう学校の二校だったので特殊教育部と言っていたけど、その後、1968(昭和43)年に向ヶ丘養護学校が出来て、京都府高身体障害児学校部(身障部)と言って私が初代の部長になりました。
 その後、京都府高障害児教育部になっていきます。


 その当時、「映画 人 」が作られますね。

・B
 23映画「人」は、知事部局(教育委員会は知事の直轄でないのでこのような言い方を慣習的にしている。)の広報課が作った。


 そのため府教委の学校教育課(当時)指導主事らのもとに相談にきた。
 その時、向ヶ丘養護学校が出来たけど学校に通う、通うことが出来る方法がない、などの話をして、教育の機会均等を柱にした映画を作ろうということになった。

 西陣の子をモデルにして映画が出来上がった時、試写会が府庁の正庁(現在重要文化財の京都府庁の正面玄関の2階)で行われ、蜷川知事も参加した。

 感激しました。
 最後のシーンが。米軍機が飛んでいくが、再軍備より教育だと、いう主張。
 憲法26条の教育権の保障。まさに京都府が目指す方向を画像化したもの。
 

「これで終わりではない。」「これからはじまる」
 映画「人」をつくった時、蜷川知事が
 
「のちの世代の人たちにぜひ伝えたい。」

と言われた。

「これで終わりではない。」「これからはじまる」

と言われた。

 このようなことと、学校に行けない子どもたちのことをどのように結びつけて考えるのか、と。

 憲法に書かれた条文が具体化されていく。与謝の海養護学校の時も憲法25条の教育権のことが問題になった。

 京都府が、民主府政として府民に知らせる大きな精神がある映画。

 子どもを大切にするという具体的な方向を蜷川知事が打ち出して行く。


 与謝の海養護学校設立の時に、親の代表たち、Tさんたちが蜷川知事を囲んで要求した時に、

「子どもが大切にされるという意味で学校を建てます。」

と言われた。
 その中味が映像化されたのが映画「人」だと思う。
 
 学校の卒業証書をひとつも持っていない人々が
        居られることを聞いて「信じられない」

 この映画に出てくる子どもの学籍はどのようになっていたんでしょうか。
     今の若い人たちは、この映画「人」の時代を知らないので。


・B
 綾部にある聴覚障害者施設いこいの村に、70歳、80歳の人の中には学校の卒業証書をひとつも持っていない人々が居られる。


 日本福祉大学の生徒が、信じられないと言う。

 学校に行けないろうあ者もたくさん居た。
 映画「名もなく貧しく美しく」にもそれが出てくる。
 
 

 京都市呉竹養護学校がすでに建設されていたと思うのですが。

・B
私が指導主事になる前に建てられていたので知らないが……。
 1958(昭和33)年4月15日、全国で5番目の肢体不自由養護学校として発足。
 向ヶ丘養護学校とも交流が出来なくて……おなじ肢体不自由養護学校なんだけれど。

  病弱養護学校をつくる、筋ジストロフィーの子どもの養護学校を建てることで市教委と相談した時に、市は「府でやってくれ。」、府は「府としてはやっていくつもりはあるが」となった。
 


 場所は、国立宇多野病院だったので敷地を借りて病棟も筋ジス病棟だったので、京都市が所管するか、京都府が所管するか、で意見のやり取りがされたことがある。
 結局。京都市が所管することになる。

 
  これからは、与謝・丹後地方の北部だと

 桃山養護学校が出来る以前にM先生らは、京都市の学校から桃山学園に派遣されるという教育形態だった。(当時からあった、学校教育法の訪問教育の制度をつかったのではないか。)

・B
 その当時から八瀬学園をはじめ障害児教育に熱心に取り組む先生が居た。それが、母胎になっている。


 向ヶ丘養護学校が出来た時に指導主事になられて、それでどのような仕事をされたんですか。

・B
 これから北部だ、と。

 Tさん、A先生などの人々を中心にした熱心な活動が、与謝・丹後地方で行われていた。
 その頃は、山城地方や京都市内などなどでは、半官半民のような、行政主導の親の会などが多くあったけれど、与謝・丹後地方は違っていた。この点では、A先生は素晴らしい力を発揮されていた。


 集会が何度も開いていた。宮津小学校で開かれたり。

                                                                                                  ( つづく )




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