2011年12月18日日曜日

長崎ではじまった被爆したろうあ者の勇気ある証言


Once upon a time 1969

長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で
 ろうあ者が初めて被爆体験と平和を訴えた

 2003年8月9日。
 8回目の「原爆の日」を迎えた長崎の平和公園で開催された「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で、ろうあ者で長崎市在住の山崎栄子さん(当時76歳)が、「平和への誓い」を手話で話し、多くの人々に聞こえない人々が被爆した事実をやっと全国に知らせることが出来た。

手話通訳者から
このような話が出てくるのを待っていたと
ろうあ協会会長

 このことが出来た背景には、山崎さんのご主人(当時長崎県ろうあ福祉協会会長)と長崎の手話通訳者が集まった時に私は、次のようなことを提起したことが関係している。

「ろうあ者の生きてきた記録、特に長崎では障害者が被爆した事実が知らされていない。
 さらに、ろうあ者の場合、原爆投下という事実すら知らないのではないか。
 手話を学ぶものとして、それらの事実をろうあ者と手を携えて取り組まなければ、本当に手話を学んだということにもならないし、手話通訳者が手話通訳するという真の意味が把握出来なくなるのではないかと思う。」

 すると山崎さんは、諸手を挙げて賛成してくれた。

「いろいろ困難はあるが、ぜひやろうじゃないか。ろうあ協会のみんなにも話をするし、ろうあ協会に入っていない人にもぜひ、協力をおねがいしよう。手話通訳者から、このような話が出てくるのを待っていた。」

との話であった。1980年初めの頃である。

 それから、長崎県ろうあ福祉協会と全国手話通訳問題研究会長崎支部の協同の取り組みが開始され、手元にその記録が次々と送られてきた。
 私はそれを編集し、機関紙に連載し、一定の記録が集まった段階で、「原爆を見た聞こえない人ー長崎からの手話証言ー 長崎県ろうあ福祉協会・全国手話通訳問題研究会長崎支部編」(文理閣発行・1995年3月刊)として出版することが出来た。

被爆体験を語る手話表現と日常の表情の「落差」に見えるもの

 ろうあ者の人々は、親類関係者の反対を押し切りみんな実名で証言してくれた。もちろん山崎栄子さんもその一人だった。
 しかし、長崎から送られてくる原稿と写真を元に編集するだけでは、真意がつかめなかったので幾度か長崎に行くことになった。
 駅に着くと被爆ろうあ者の人々がわざわざ出迎えてくれたが、送られてきた写真と本人の表情のあまりにも大きな違いに驚かされた。


 山崎栄子さんの場合もそうであった。
 彼女は多くの人々に知られるようになったので、当時研究誌に掲載させていただいた写真を再録させていただく。
 なお、写真や証言についてはすべて本人、関係者の了解を得ていて、もっと多くの人々に被爆したことを知らせてほしい。


いくらでも、と言う約束があったことをあらかじめお知らせしたい。

 ただ、徴兵検査と関わって、次に説明するONさんの場合は、ブログという関係上イニシャルにさせていただく。
 詳しくは、ぜひ、「原爆を見た聞こえない人ー長崎からの手話証言ー 長崎県ろうあ福祉協会・全国手話通訳問題研究会長崎支部編」(文理閣発行)を読んでいただきたい。


65歳の時に被爆体験を証言

ONさんは、65歳の時に被爆体験を証言してくれている。
 6人兄姉の4男として大浦東町の、鼈甲細工を家業とする家に生まれた。
 ONさんのお父さんは、49歳の若さでなくなり、長男が大黒柱となって家をささえたとのこと。
 お父さんの死後、ONさんは脳膜炎を患い高熱のため耳が聞こえなくなった。
 5歳までラジオの音楽をなんとなく聞こえていた感じとともに次第に聴力が失われ8歳のとき聞こえなくなる。
 母は、ONさんを連れて、六地蔵へお参り。
 竹で耳の穴に吹き込むを治療をしたとのこと。

 民間治療・民間信仰。
 それに頼る傾向は過去も現在も同じように広がっている。

  戦前のろう学校でも軍隊さながらの体罰が

 ONさん11歳。

 ろう学校に入学。
 小学部から仮校舎で学び、その後上野町の新校舎に移り中学部時代を過ごす。
 8名の同級生が、卒業2人だったという。
 ろう学校での勉強は発語訓練が厳しく行われていた。
 母と子の話の中で口話を覚えていく。
 ろう学校では手話が禁止。
 手話を使うと竹のムチがふりを落とされたという。
 手話を使うことは体罰を受けることだった。
 イスを持ち上げて手を水平にしたままイスを持ち続ける。
 軍隊さながらの体罰が、ろう学校でも行われていたのである。







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