2011年12月11日日曜日

一人のお母さんが声をあげて泣いているわけと 今、「忘れられている」偉大な取り組み


Once upon a time 1969

1970年11月に「すべての子どもは 教育をうける権利がある」その2

これが教育であるかというような追究の仕方から、
         本当に障害児の権利を守る実践はでてこない
 

 私たちが今日まで10数年、養護学校を作るための運動を地域で展開して来ました。
 その過程で、教育とは一体何か、ということが疑問にもなり、追求されました。
 しかし、さきにいいました総括集会の中では、教育とは何か、という形で問題を追いこんでいくことだけで前進するのではないというように総括をしております。
 われわれ自身も教育とは、子どもたちの全面的な発達を保障していく営みである、といってきていますが、教育とは何か、これが教育であるかというような追究の仕方からは本当に障害児の権利を守る実践はでてこないと話しております。


まことに申し訳ないこんな立派な学校を
     建ててもらったことを私は今日まで知らなんだ

 こういうことがありました。
 4月の入る時のことです。


 親たちが寮へ子どもをつれて来たとき、一人のお母さんが声をあげて泣いています。
 私がこちら側から見ておりましたが、おそらく子どもと別れるのがつらいので、泣いておるんだろうと思って元気をつけてやろうとそこへ行ったらですね、そうじやなかったわけです。

 そのお母さんが涙を流しながら



「こんな立派な学校を建ててもらったことを私は今日まで知らなんだ。今日まで大勢の人たちが、この学校を建てるために一生懸命になられたということを私は全然知らないんだ」
と、まことに申し訳ないといって、泣いているんです。

何にもせんと学校へ入れてもらえるのは、まことに申訳ない

 「こういう学校が今建って、うちの子どもが入れてもらえる、私自身は今日まで、この学校を建てるための運動を全然してない。何にもせんと学校へ入れてもらえるのは、まことに申訳ない」
といって、声をあげて泣いていたのです。
 そのかわり、これからはどんなことでもさしてもらいます、といっていました。


 この学校(注:与謝の海養護学校)が建ったということが、今日まで教育に対して全然期待の持てなかった人たちを大きく激励していったし、この学校を建てたことによって、さらに障害者の運動を飛躍的に発展さしていく基礎ができたというように私たちは現在考えております。

もう一切親類としてのつき合いは打ち切る 
  お前の子どもを特殊学級に入れるんやったら

 私の子どももも実は特殊学級に入れたいのです。
 入れてやれば、その子どもが十分伸びていくということが親としてよく判ります。
 しかし、親戚のおじさんが
「お前の子どもを特殊学級に入れるんやったら、もう一切親類としてのつき合いは打ち切る」
といわれるんです。
 そのお母さんは未亡人でおじさんに一定の援助を受けております。
 だから、子どもを障害児学級に入れることを断念せぎるを得ないのです。
 こういう報告がでて来るわけです。
 そういう報告をずうっと聞く中で、やはり、地域の人たちの考え方をかえていくとり組みをしていかなかったら、一人の子どもの教育権すら守って行けないのだということに、私たちは気付いていくわけなのです。
 その段階で、一定の組織だけでやっていた運動の輪をさらに大きくして行こうではないかということになりました。
 一応運動の核は確立していたためある程度幅を広げても、絶対その核はゆるがないと、いう確信もあったわけです。



与謝丹後の障害者の生活と権利を守る集会の驚異的な広がり

 その段階で与謝丹後の障害者の生活と権利を守る集会を宮津与謝のあらゆる関係団体、関係組織に一斉に呼びかけていきます。
 もちろん民生委員とか、直接そういうふうな仕事に関係のある組織、あるいは育有会や地域婦人会、それから肢体不自由のかたたちの身体障害者の団体、また岩滝町の郷友会にもよぴかけました。
 この会は青少年の育成という看板を立てておる、あそこへいったらええやろか悪いやろかという話があってですね、まあ一辺やってみようということでやった。
 そしたら、実行委員会に加入するかどうかで二回理事会を開いた。
 ところが、最終的には加入はしなかったんですが、これは悪いことではなさそうだということになったわけです。
 それぐらい、あらゆる団体に呼びかけていって集会を成功させました。


 第一回が350名、第二回が500名、昭和44年7月の第3回集会では、1200名の結集を得たわけなんです。

 障害者の生活と権利を守るというスローガンのもとに、1200名の人たちを結集し得たというのは、まさに日本の障害児の教育運動なり、生活と権利を守る運動では画期的だと評価をされています。

と、ここまで読んできて、その当時から与謝丹後では、過疎化が進み人口も大幅に減った。
交通もとても不便。
 その中で、第一回が350名、第二回が500名、昭和44年7月の第3回集会では、1200名とどんどんと「障害者の生活と権利を守る」運動を進めるのは考えも及ばないぐらいだっただろうと思って、本に掲載されている写真に眼を転じて驚いた。

 手話通訳者の位置で分かる集会の特徴

 写真中央演壇左側に手話通訳者が立っている。
 その前の席にいるのが私だと気がついた。
 当時、ろうあ者の側から見て舞台全体を見られて手話通訳が見られるというのは非常に大事なことだった。
 他の人に目障りになるから、舞台の下か、袖で、と言われるのがほとんどだった。
 だが、1200名も集まった大集会。
 その雰囲気、状況を、一目でどこからも見渡せる位置に手話通訳者がいる。

 事実、1200名の会場の隅々から手話通訳と演壇の人の話がよく見えた。
 このことからしても、いかにこの集会があらゆる障害児者も含めた人々のねがいを集めていたのかが、よく解る。
 なお、この写真に写っている手話通訳者は、当時京都市嘱託専任手話通訳者で翌年正職員として専任手話通訳者になったT氏。そしてもう一人ろう学校のM先生(現在では、京都ろう学校の故I先生が手話通訳として有名だが、当時I先生を凌ぐ手話通訳に堪能な先生が2人いた。)が手話通訳を交代で行った。
 M先生は、第二回の500名の参加の集会で、講師として熱弁をふるっている。


集会に参加した時間以上に
 参加するための時間がかかっても、それでも

 集会の後ろの垂れ幕には「すべての障害児者の要求を出し合い、その共通する課題……」が読み取れる。
 障害の「違い」を強調するのでも、障害を細分化するのでもなく、「共通する課題」で手をつなごうという大集会でもあった。

 そこで、当時の集会に参加したろうあ者の居住地などを調べてみると実に驚くことが分かった。
 集会は、宮津市内で開かれた。
 だが、宮津市内に住んでいたろうあ者は少なかった。京都北部の各地に点在して住んでいた。
 ある人は近くに駅もバス停もない。集会に行くためには徒歩だけ。それも数時間かかる。
 バス停に行くのに徒歩で数十分。列車に乗って約1時間。

 そして徒歩。
 集会に参加した時間以上に、参加するための時間がかかっていた。
 それでも、参加したろうあ者の気持ち。
 自分たちだけではなく、みんなと「共通」することで手を合わせようとする意気込み。


 さらに、北部のろうあ者が教育をうけられなかったこと、裕福な家のろうあ者も戦時下のもとで寄宿舎が閉鎖されろう教育が中断させられた断腸の思いと共に「すべての子どもにひとしく教育を」というスローガンに絶大な賛同を籠めていることもあきらかにしておかなければならないだろう。


 現在では、みんながみんな「違い」を越えて、「共通」することで大きく手を携えるという信じがたいだろう。そしてその輪が大きな繋がりと広がりの取り組みがなされたという事実も信じがたいことかも知れない。
 でも、このことは事実であった。
 そのことを、改めて知ることが出来た。

 今、それを創り上げてきた人々に拍手を贈りたい。



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