2011年12月14日水曜日

戦前、戦中の障害児者への冒涜以上の非人間的扱い


Once upon a time 1969

 「大富豪の家で育つたろうあ者Iさんが一目で、見初めた相手は」
のところで、
 国際障害者年に向けて戦前・戦後を通じて生きてきたろうあ者のこと。戦争中の体験を映像にも文章にも記録することこそが、国際障害者年に取り組むことだと考えた。
 そのため聴覚言語障害者センターのビデオ担当の協力とひとりひとりのろうあ者の協力を得て、インタビューと記録をはじめた。

 また映像だけではなく、映像を文章として記録することも併せて行った、と書いた。
 それは、映像で記録されても、ろうあ者の手話で言っていることが後世に伝わらない、と危惧したからであるとも書いてきた。

 現在、まさにそのような危惧が現実になっていることに哀しみを覚える。
 

戦前、戦中のろうあ者への冒涜以上の非人間的扱い

 多くのろうあ者が快く引き受けてくれてたことに感謝を込めて、その時の記録の一部を紹介させていただく。

 それは、協力してくれたろうあ者の方々に対する感謝と同時に心から真剣に考え、訴えた平和な時代の大切さと共にろうあ者がどれだけ切実にに自分たちの要求と福祉の改善をねがったか、を多くの人々に知ってほしいからである。
  さらに、戦前、戦中のろうあ者への冒涜以上の非人間的扱いが、ろうあ者の結束を生み、状況を変える力になっていったからである。
 その点で、近年、ニーズとか、スペシャルとかの和訳しない英語のカタカナ文字が、さかんに教育や福祉の分野で振りまかれ、「分かったような、分からないような」「曖昧な表現」で戦後障害者が死にものぐるいで要求し、実現してきたさまざまな福祉や教育がいとも簡単に潰されていることに許せない、と感じるからである。





その一端は、
*************************************
http://kyoikkagaku.blogspot.com/
******************************************
10月
 教師むけの機関誌には「教師だけでは十分な対応をすることができません」と書く滋賀大学教育学部窪島務氏

でそのほんの一部を紹介したので参照してほしい。

戦前、戦中を抜きにして
 「生きがいのある社会になるよう」は理解出来ない

 京都府議会で知事が「生きがいのある社会になるよう」とろうあ者に呈示したのも戦前、戦後のことが大きく関係しているからだと思える。
 戦争体験とろうあ者という問題を記録していたとき、私たちは大きな壁にぶち当たった。
 ろうあ者の戦争体験を聞く場合、ろうあ者の家族と共に話を聞かなければ、その全体像をつかむことが出来ないことを知ったからである。


 だが、記録をはじめた時点ではろうあ者は高齢で、ろうあ者のこと一番心配しつづけたであろう、お父さんやお母さん・兄弟姉妹などの方々は、ほとんど死んでおられた。
 例えば、両親が生きておられると90歳、100歳を超すという状況だったから。


戦争が、いかに人間の尊厳をうばうものか、例はきりがない

 戦争という、それでなくても「正しく情報」が入らなかった時代、事実が歪められ宣伝された日本の情況の中で、ろうあ者には、さらに何も「聞かされなかった」。
 手話通訳者などが全く考えられることすらなかった時代。
 その時代、時代にに自らが生きるのがせいいっぱいという状況の中で、「ろうあ」という障害をかかえ苦しむ人々を家族の方々は、必死に支え合って、戦時下をきりぬけられてきた。
 戦争が、いかに人間の尊厳をうばうものか、例はきりがない。


 ろうあ者の男性は、当然徴兵という問題が出てくる。


 第一次世界大戦後に生まれた59歳(生きておられたら89歳。すでに亡くなられている。)のろうあ者Yさんの話を聞いた。
 Yさんは、戦前ろう学校に入る頃はなぜか、.自分は知恵遅れだと思っていたらしい。
 ろう学校のクラスは、第一ランク「しゃべれる」、第ニランク「少ししゃべれる」、第三フンク「ほとんどしゃべれない…:」と分類され、Yさんは、第三ランクで絵を画くだけで、試験のときは、第三ランクの生徒はなぜか試験なしで、窓をふくだけだった。


歴代天皇、教育勅語を手話で教えられていたが

「日中戦争」が始まったときは14歳。
「日本が満州に鉄道を作ってあげたかわりに満州が大豆を日本にくれる」
とろう学校で教えられ。ともかく意味がわからないまま
「シナが悪い。日本が勝った。万歳、万歳、うれしい……」
と思いこんでいた。


 戦争がどんどんと拡大すると、ろう学校の先生は、
「日本は一番だ。一番強いんだ」

と自慢話をしきりにされた。
 ろう学校研究科を卒業当時、食べものがなくなり、.戦争のため甘い物はダメとされ、朝は、天皇の真影にむかって礼をするが、ゲートルが少しでもみだれていると、しかられ殴られたりするなどつらいことばかりだった。
 そのため絵の勉強のために、植物園に行って絵を描く時間がなくなったと語ってくれた。

 Yさんだけでなく・他のろうあ者も戦争中のろう学校の様子を語ってくれたが、軍国主義一色にぬりつぶされ、終戦が近づいてくると、手話は「スパイのようなのでダメ」と先生から一層きびしく禁止された。

  それまでは、歴代天皇、教育勅語を手話で教えられていたのに。



0 件のコメント: