2013年11月16日土曜日

エリート インテグレーション 現代と変化していない無責任論

 
 ( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 9 )
 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   子どもの努力と家族の努力+教師の努力の追求

 2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。

 3歳で、ひらがなが読めるように。

 4歳で、日本語の単音の発音を完了する。

 このことを集中的に指導された子どもには「ついてゆけなく」なる子どもがいる。
 この子どもたちは、子どもの努力と家族の努力が責任として問われる。


 小学校に入学して以降は、子どもの努力と家族の努力+教師の努力が責任として問う。
 幼児期の取り組みが終わったのだからとして。


  責任押しつけ 責任逃れの教育

 小学校は、なんとか聴覚障害児の教育に取り組み、幼児教育からの責任追求を逃れて、中学校に「下駄を預ける。」

 中学校は、小学校からの責任追求を免れ、高校になんとか入学させようとし、入学したら高校の責任「追求」する。

 ところが、高校は義務教育でないので原級留置や退学がある。

 ろう学校幼稚部を卒業した親はその間で揺れ動く。

 一方、「おとなしくていい子」でない子どもたちは、小学校段階から親の言っている事や自分への「しつけ」に疑問を持ちはじめ、健聴の子どもとのあまりにも大きな「違い」に気がつきはじめる。
 

  こんなしんどい目をするのやったら


  そして言う。

 「なんでお母さんは、ことばことばを言うのや」

 「こんなしんどい目をするのやったら聞こえる子どものようにならなくてもいい。」

 「ほっといて」

などなど、急激に親に対する「反発」が強くなり「悲劇が拡大」していく。

  従順な子どもがインテグレーションの成功例?

 そういう子どもは、インテグレーションできない子どもである、とされ、はい、はい、と「素直に従う子ども」がいることを例にあげて「インテグレーションの成功例」とされる。

 そして、なんの「保障」もなしに、有名大学に入り成績優秀な聴覚障害生徒として評価される。

 次世代の親には、インテグレーションの成功例を示し、失敗しないためには幼稚部教育のカリキュラムをすべてやり遂げることを強調する。

 ここには、育っていった生徒たちから学んで「幼稚部教育のカリキュラム」を見直し、さらに適切なものにしていこうという姿勢はなかった。
 

  何もしなくてよい良い やりたいことをする自由?

 すでに述べた最近、発達障害児の教育指導等をめぐって、一部で子どもたちに、何もしなくてよい良い、やりたいことをする自由、ただ、他人のじゃまをしない節度、の中で子ども自身が育つかのように強調する傾向と対比すると、どちらも子どもたちの内面の発達を見ていないことがわかる。

 ろう教育から引用した「9歳の壁」をとりあげ、9歳の問題を主張する人々もまた子どもの内面を見ていないのである。

 なぜなら、子どもたちを年齢別に見る傾向も、幼稚部・小学校・中学校・高校・大学・社会と見る傾向も人間を分割・細分化して見ているに過ぎないからである。

 人間が産まれてから死ぬまでの過程を踏まえて、重点的に学校教育や年齢を踏まえた主張ではない。
 

  ○○○だから○○○しなければいけない


 そもそも
  2歳で、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして。
 3歳で、ひらがなが読めるように。
 4歳で、日本語の単音の発音を完了する。


 を子どもたちに「教える(注入する)」ことが、人間の摂理にかなった教育なのか、どうか、すら検討されもしないで「9歳の壁」ということばがひとり歩きさせられている。

  2歳が、なに、だれ、どこ、いくつ、どんなかたち、どうして、とまで話せること自体が「非常識」なのである。

 このような超天才教育と言うべき理屈がまかり通るのは、「聴覚障害」があるからということである。

 聴覚障害だけではなく、いろいろな障害がある場合、○○○だから○○○しなければいけない、ということもまかり通っていないだろうか。

 障害児教育分野では、人間としての常識からはじまる教育が、人間としての非常識からはじめる教育に打ち負かされることがしばしばある。

                                                     ( つづく )
 

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