2013年11月6日水曜日

エリート インテグレーション 無関心の養成



( 早期教育・インテグレーション・言語指導の問題と課題 8 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


 2歳からの「言葉の洪水」。
 京都ろう学校幼稚部では、先に挙げた理屈と実際の指導が次第に局限していく。

 いわゆる「たくさんのマッチ箱」論である。

   ことばを「マッチ箱」から引き出す?

 ようは、小学校入学まで「ことばのマッチ箱」をたくさんつくっておけばおくほど、聴覚障害児たちは「ことばのマッチ箱」から必要な「ことば」を出して話しに対応できるようになる。

 その「マッチ箱」が少なければ、ことばについて行けなくなり「小学校生活」が過ごせなくなる。

 その例が「9歳の壁」として主張されてきたのであり、「9歳の壁をのりこえ」られないのは、「ことばのマッチ箱」の少ない子どもだと言うことであった。

 
 すなわち、「9歳の壁」問題は、インテグレーシュンの失敗を引き起こした「劣等な子ども」たちにあり、「優秀な子どもたち」は、「9歳の壁」など生じないとしたのである。

 ここで、インテグレーシュンした生徒の優劣が決まるとされたのである。
 

  劣等生をふるい分ける意味としての「9歳の壁」


 このような重大な問題を含んだ「9歳の壁」ということばを、その内容を吟味することなく「ろう学校で出されてきた9歳の壁問題」として、今だ、論じる人がいるのは極めて残念なことである。

  「劣等な子どもたち」は、ここでふるい落とされる。

 そこには、人間の思考やことばといったものが多くのことばの箱に詰められたものであり、必要に応じてそのことばの箱からことばを取り出す、という機能になっていることへの科学的検証は、まったくない。

 むしろ、ことばを教えると言うことを口実にして人間を機械化して、周辺に「対応」できる人間を造ろうとしていたと言っても言いすぎではないように思う。

 
  喜びと感動をともなう「ことば」


無関心。

 当時、G君の言う「無関心」には、否定できないものがあった。

 諸説あるが、ヘレンケラーが「水=WATER」が解ったときは、それまで彼女に「入力」されていた指文字のサイン「W・A・T・E・R」が、水というものにふれることによって、その感覚と文字が重なり、「WATER」という一つの単語の意味が理解出来たという感動があったと思われる。

 でも、G君たちは、幼児期から遠足に行ってもことば漬けで、興味関心や不可思議さなどを一切味わうことがさせられなかったのである。

 「もみじ」 「あかい」
  「赤いもみじ」

 「きいろ」  「きいろいもみじ」

 こんな遠足は、子どもの心を感動で揺さぶっただろうか。
 ことばを覚えたことで、感動はななかった、とG君は振り返っていた。

 G君には「悪い生徒」とのレッテルが貼られた。

 素直、何でもよく聞き、覚える子が、インテグレーシュンの優等生だった。

 だが、このインテグレーションの優等生が、それまでの教えに疑問を持った時期が来るが、それが遅ければ遅いほど、そのブレは強烈になり続ける。

 ことばを覚えることに喜びと感動を。
           
                          ( つづく )

 

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