2013年11月20日水曜日

エリート インテグレーション への教師からの疑問



   ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師親の反論 1 )
 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  京都府立ろう学校が、幼稚部生徒を普通校に入学させるといういわゆるインテグレーションは、1966年から実行されていたが、1969年に文部省は協力者会議でインテグレーションの問題を取りあげる。

 しかし、このインテグレーションの紹介は、今日のように大々的に報道したり、核マスコミも大きく取りあげるようなものではなかった。


   教育は、不当な支配に服することなく
                    国民全体に対し直接に責任を負う


 それは、当時の教育行政が教育基本法の第10条を守らなければならないという制約があったからである。

教育基本法
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。


2006年改正
 (教育行政)
第十六条  教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2  国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3  地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4  国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。


   各学校の実践が重んじられていた

 そのため文部省や各都道府県教育委員会は、文部省の方針に沿った教育をさかんに奨励しその取り組みを広げた。

 京都府立ろう学校幼稚部が取り組んだインテグレーションは、京都府教育委員会の意向とは関係なくすすめられていた。各学校の実践が重んじられていたからである。
 それは教育基本法から考えても当然のことであった。

 この時期でよく誤解されて理解されているのは、1970年代に入って京都府教育委員会委員長をめぐる京都府と文部省との対立から京都府教育委員会と文部省はもともと対立関係にあったと考えられていることがある。
 しかし、ろう学校幼稚部でインテグレーシュンが行われた時期は、決してそういう関係ではなかった。

 むしろ、京都市委員会の方が文部省路線を踏襲していた。この矛盾は、さまざまな所で生じる。
 分かりやすく書くと、京都府教育委員会は、各市町村教育委員会に助言等はできた。しかし、京都市が特別政令都市であったため京都市教育委員会とは同格であった。


  ろう学校幼稚部の教師から ひろがりはじめた疑問

 1970年になって、ろう学校幼稚部の教師の中にインテグレーションについて、次第に疑問が出てきた。

 すでに述べてきた京都方式と呼ばれる「対応教育」が一定の成果を収めていると言われていることに対して、それはアメリカの行動主義的発達観の色合いが濃く、子どもたちの集団の発達を考えていない。

 個人の能力のみをとらえ、子ども「のび」は、その子ども1人1人、親一人一人、教師一人一人の力量にのみにされている。

 ことなどに、多くの疑問が出てきた。

 しかし、その疑問を出すことすらかなわない学校の状況の中で幼稚部の方針が強固におしすすめられ、ともかく聴覚障害児が普通小学校へ出ることのみが目的になってしまっていた。

 それがインテグレーションとされた。

 ところが、このことをめぐって教師と親が真剣に相談し行動する事態が生じてきた。
                                   ( つづく )


 

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