2013年11月26日火曜日

エリート インテグレーション 基準を作って切り捨てる動き


     ( 早期教育・インテグレーション・言語指導への教師・親の反論 2 )
 

教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   聴覚障害児の親の血と涙と汗の要求

 ろう学校幼稚部を卒業して、普通校に入学した聴覚障害児は親が教科を教え、教師は集団になじませる、などなどのことはうまく出来るはずがない、ことは明らかだった。

 そのため普通校に入学した親は、自己責任ではなく多くの人々と一緒になって聴覚障害児の教育保障を要求した。

 京都府教育委員会は、各市町村教育委員会と協議して通級制の難聴学級。
 すなわち「聞こえの教室」(難聴学級と言わなかった。高度難聴の子どもも通級するという考えであったからである。)をつくり、定期的にそこへ聴覚障害児が通ったり、必要に応じて常時相談体制をつくるようにした。

 同時期、「ことばの教室」もつくられていた。

 聴覚障害児の在籍する学校は、広域なので一校につくると他の聴覚障害児がなんの保障も受けられないという状況の中で考えられたものであった。

 だが、聴覚障害児の多くは京都市内の学校に入学していた。
 ここでは、京都府立学校と京都市立学校、学校市町村学校という教育委員会との管轄の問題があった。

 京都府教育委員会と京都市教育委員会は、京都市が政令指定都市という関係で同格の権限を持っていた。

 
  京都府教育委員会と京都市教育委員会の違い


 京都のとなりの府。大阪府も大阪市も同様のことがあったが、大阪府立ろう学校と大阪市立ろう学校をつくっていた。

 しかし、京都の場合は、歴史的経過の中で京都府立ろう学校だけしかつくられていなかった。
 

 京都市は、この問題に対応すべく固定制の難聴学級をつくった。

 固定制の難聴学級と通級制の聞こえの教室の大きな違いは、固定制の難聴学級の場合は地元の小学校に入学せず難聴学級のある学校に入学しなければならないが、通級制の「聞こえの教室」は、地元の学校に入学して必要に応じて「聞こえの教室」に通ったり、援助(サポート)を受けるという違いがあった。

 聴覚障害児への線引きと分断

 さらに京都市教育員会は、固定制難聴学級入級基準を中度とし、その㏈まで定め、軽度・中度は難聴とするが「ろう」は、難聴ではないので入級できないとした。
 この㏈値をめぐる問題は書けば切りがないほど経過がある。

 軽度・中度・高度(重度)というのはあくまでも区分であってそれに対して、善悪や優劣の評価を加えることは、別の問題であるが、日本ではこのことが混合されて理解されていることもある。

 当時、聴覚障害児教育に携わる教師たちの中には、聴覚障害についてかなり専門的な研究や実践経験を持っていたため5㏈や10㏈の違いで線引きすることは非科学的なものであることを充分承知していた。

 京都市教育委員会は、肢体不自由養護学校入学基準でもIQで線引きしていた。
 
 数値的線引き・基準との闘い


 このことに対して親の中には多くの疑問や改善を求める声があったが、「基準」は基準として京都市教育委委員会は変更しようとはしなかった。

 1960年代から1970年代にかけては、障害児教育の分野において、数値的線引き・基準との闘いも大きな課題であり、それを乗り越えていくだけの力量が求められた。

 現在、その基準なるものの再来が教育の分野に持ち込まれていることを考えると教育の歴史に対する逆流とも言える。

 1960年代から1970年代にかけての血と涙と汗にまみれた公的保障が蔑ろにされてはならない。

                                                  ( つづく )
 

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