2012年1月4日水曜日

死ぬからやめろ、と阻止されてもそれでもろう学校の様子を見に行った深い深い心情の理解こそ 今



Once upon a time 1969

 最近のはやりことばで、ろう学校はろうあ者のアイデンティティー【identity】と簡単に言い切る人が少なくない。
 しかし、この意味合いは本当にろうあ者とろう学校の関係を的確に表しているのか非常に疑問である。


教師の非人間的言動に疑問を持ちながら
   ナゼ、ろう学校を卒業したことを誇りに思うのか

Oさんは、
「君たちも辛抱強い人間になって、人からかわいがられるようにならねば」の項(参照)
で、ろう学校の教師がさかんに「ミシンや機械の一部になってロボットのように不平不満を言わず黙々と働かねば、やめてくれ、と追い出されてしまう……。」
と、生徒に教え込んだ非人間性に疑問を持ちながら、「先生方がろう学校の教師であることに誇りを持てるろう学校にしなければ」と、生徒会を中心にろう学校の教育改革の行動を起こす。
 普通なら、教師たちの日常からろう学校を否定する。しかし、そうしないで、ろう学校の「教師が誇りを持てるように」しなければとろう学校高等部の時に思い至る。
 そして、ろう学校を卒業したことを誇りに思っているとまで言い切る。


 私は、この「字間」にこそ、ろうあ者や聴覚障害者のろう学校に対するねがいや期待、ろう学校で得たものなど奥深い「特別」なものがある、と思う。

  本当の意味の「特別」「支援」を考え 障害児者の「学舎」を

 単なる母校、懐かしい思い出の学校でないのがろう学校であることは、被爆した長崎のろうあ者の証言に多々出てくる。
 信じられない行動をして、我が目で、すでに移転して軍需工場となった「ろう学校」を確かめに行っている。
 まさに、原爆が炸裂したその真下にあった「ろう学校」を。

 私は、このことを充分深め切れていないが、障害児者にとっての「学舎」は、他の人々以上の深い、深い意味合いがあると思える。
 今、教育現場で「特別」「支援」というなら、本当の意味の「特別」「支援」を考え、安易に障害児者の「学舎」を取り壊してはならないと思う。
 そのため、以下原爆投下直後のろうあ者の証言とろう学校の部分を掲載する。


通常、30秒の出来事をこれだけ
細やかに説明することは絶対不可能である

  原爆投下された日。
 運命は木KIさんを救う。妻と子どもの疎開先に急きょ赴いたKIさんは、長崎市内に黒から赤に、赤から黄色にそして赤になる原爆雲をみることになる。
  KIさんは、原爆投下された方向を微細に記憶していた。それは、あまりにも大きな衝撃と比例していたのだろう。
 資料によると、30秒にすぎない一瞬の出来事をスローモーション化された手話で表現されたことは想像出来る。
 0.1秒が途方もなく長い時間のようにとらえられ、それが途方もなく自分と多くの人々を苦しめることになった、KIさんの原爆雲の手話表現にはそんな思いが込められていたのだと思える。


 なぜなら、通常、30秒の出来事をこれだけ細やかに説明することは絶対不可能であるから。
 道の尾で止まって汽車を降り、KIさんもまたほかのろうあ者の人々がとった行動と同じく、線路上を歩いて爆心地の浦上にあるすでに疎開した後のろう学校を真っ先に見に行く。
 疎開していることを知っていても学舎をナゼ見に行ったのであろうか。
 死ぬからやめろ、と言う家族を振り切って。

爆投下直後 家に向かうより、真っ先に行った処は

 KKさんは、「道ノ尾」で被爆し、原爆直後の爆心地を通って長崎市内の馬町の自宅までの道を「地獄絵」を歩きながら、真っ赤に鉄道路線を這うように歩いて、まず、真っ先に向かったのは浦上にあったろう学校の様子を見に行くことであった。
 何もかも燃えさかり、身体がボロボロになりながら、ナゼ、そこまでして学舎のろう学校の様子を見に行ったのだろうか。
  KKさん、70歳を前後した初めての証言であった。


 ナゼ そうまでして ろう学校へ

 ろう学校中学校を終えたSAさんは、住み込みで洋裁店で働いていた。
 足の不自由な仲間とともに寝起きしながら助け合い数年かかるところ5ヶ月で職人になったという。
 まさに師匠の仕事を盗み見するという「離れ業の天才」であった。島原の洋服店に変わったSAさんは主人の出兵で、店を任される。


運命の8月9日。
 SAさんは汽車に乗って島原から長崎に向かう。実家で朝食を済ませ10時過ぎに県庁方面に向かおうとする。が、急にろう学校の先輩に会いたくなり行き先を変える。  
 目の前が真っ白。四つんばいになる眼前は白から黄色へと移る。
 飛び込んだ防空壕で、赤ん坊を抱いて飛び込んできたろう学校の先輩と出会う。
 恐怖の中の手話。キノコ雲と人々が呼ぶようになった雲を見上げ、ドン山から見た浦上方面。ただならぬ「空襲」であったことは歴然としていた。
 実家も近所も、家族も無事。でも、SAさんもまた、ろう学校が心配になり浦上に向かう。
 山づたいにろう学校に向かったSAさん。
 被爆直後の山肌をただひたすら浦上方面に向けて足を運ぶ。
 やっとたどり着いたろう学校は、ガラスが飛び、壁が落ち、思い出でいっぱいだった教室は跡形もなかった。

 がれきの中で凝視して佇むSAさんに去来した心。
 私たちは、しっかりと受け止めていかねばならない。

みんなの誇っていた学校だったのに……惨状を見ながら残念で
 昔、学んだ3階の教室だった所は、天井も吹き飛んで何もありませんでした。

 あんなに立派な校舎で、文化やスポーッなど九州の中でも特に盛んだったのに、皆の誇っていた学校だったのに……惨状を見ながら残念でなりませんでした。
 周りには、畑が多かったのですが全て焼け野原、木も幹だけで緑は何もなくなっていました。

 学校のすぐ近くにあった浦上天主堂に行くと、聖堂もたくさんの石像等も崩れ落ち、屋根の上にあった十字架は川の中に飛ばされていました。


《終戦》
 日本が負けたことを、母が教えてくれました。がっかりしましたが、悲しくはありませんでした。
 私たちろうあ者は、兵隊になれず役に立たないと差別されていましたので、戦争が終わって本当に良かったと思いました。


とSAさんは証言している。まだまだ多くの同じ証言がある。


 いま一度、いや何度も反芻しながら、ろう学校の存在と価値を考えなければない今日の時代ではないだろうか。




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