2013年8月4日日曜日

横たわり続ける三つの「溝」 解放してくれる希望の光 ろう学校授業拒否事件 ろうあ協会・ろう学校同窓会の京都府教育委員会への要求(1)



  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

 
 京都府立ろう学校の事件に関する
          京都府教育委員会への要望

  昭和四十一年二月十四日 京都府ろうあ協会と京都府立ろう学校同窓会は、連名で京都府教育委員会に対して以下の要望書を出した。
 非常に長文にわたるものであるが、ろう学校校長などとの意見に対する事実にもとずく批判等は、省略する。


 ろうあ協会・ろう学校同窓会は京都府教育委員会
   に対してどのような要望を出したのか

  京都府立ろう学校の事件に関する京都府教育委員会への要望 (概略)
 
     京都府立ろう学校の事件に関する要望の件

  我々一千名の京都府立ろう学校同窓会会員及び六百名の社団法人京都府ろうあ協会々員は、昨年十一月十八日の京都府立ろう学校高等部の学校行事拒否事件、及び其後の事件処理の経過に関連して、この教育の現状及び前途について真に憂慮に耐えず、ついに意を決してあえてこの一書を草し、教育委員会の責任ある善処方を促すものであります。

   我々を苦しめている   解放してくれる希望の光

 我々は、耳が聞えないというただそれだけの理由で、仕事の面でも社会生活の面でも、いろいろ差別されています。

 そして、我々の団体は、極端にいったら、この差別を受けているという共通の事実によって結成され、又この問題を解決するために色々活動すべく結成されている団体としての性格がいずれの場合も強く表われています。

 そして、我々が今回の事件だけではなく、ろう教育一般に切実な関心を持たざるをえないのは、我々がこの問題を追求すればするほど、我々を苦しめている差別から我々を解放してくれる希望の光は、ろう学校が全力をあげて我々や我々の後輩に出来るだけ完全な教育、正しい民主主義の理念にそった教育を与えてくれるかどうかにかかっていることを日々の苦しみの中で切実な実感として感じているからです。

  私たちの幸せのためのもので
   ろう学校への不当な干渉ではない

 従って、ここにろう学校の問題をあえてとりあげるのも、決してろう学校に不当な干渉をなすものではなく、それなくしては、私たちのこの世における幸せはかなえられないという切実な関心に根ざしているのです。

 また次に記しますように、後輩たちからくり返し、くり返し学校教師の不当な仕打や、言動について、何とかしてくれと訴えられているからです。

 この事件に対する学校側の解釈及び解決策は、当然学校長より委員会へなんらかの形で報告があったと思いますので、ここでは、私たちの立場からの事件の経過だけを述べます。

 十一月十九日私たちは、事件の発生を知るとすぐろう学校へおもむき、校長、副校長、高等部主事に面会を申入れ、事件についての説明を求めました。
 (問題の指導部の三先生との面会は、校長から拒否されました。)

学校側から次の主旨の見解説明がありました。
    ( 略 )

  私たちが恐れていた方向へ解決されている

 このように生徒を含めたわれわれろう者の要望は、ことごとくふみにじられ、行動の不当な合理化しか行われていない。

 このような教育の実態をどのように判断されますか。

 このような状態の中で、我々は、人間の権利を正しく守り、差別や偏見と戦っていける子供の教育をろう学校へ託することができるとお考えですか。

 このような状態のままで、我々は果して日本国憲法に保障された自由及び権利を守り、義務を果していけるとお考えですか。

 私たちは、いたずらに主観的な評価をのべることは、ひかえていますが、以上の経過を見ても、この問題は、私たちが恐れていた方向へ解決されていっています。

   生徒の権利を守る方向ではなく逆な方向へ

 つまり、生徒の権利を守る方向にではなく、不良教師の「権利」を守る方向へ。

 耳の聞えない者がその時、その場に応じた適切な発言も出来ないでいるうちに、なんだかんだで、万事耳あきの都合のよいように問題が解釈され事が運ばれるという方向に。
 
 砂をかむような思いが
  生徒に対する耐えがたい仕打となって

 それは私たち自身余りにもしばしばこの社会で経験し、砂をかむような思いをさせられていることです。
 今にそれが生徒に対する耐えがたい仕打となって向けられていくことでしょう。


 さらに「五」

( 注 高等部の指導部の教師が中学部の授業で「高等部の生徒が勉強を放り出しテストをやったが、ストをやるような生徒はバカだ。みなさんは高等部の生徒のようなバカなことをしてはいけない、と諭したこと。
 高等部の主事が生徒会代表との話し合いで「泥棒にも三分の理があるというが、どのような場合にせよ一方的な断定は出来ない。問題が複雑な場合は尚更だ。これが世の中の道理というものだ。生徒が一方的に主張することは間違いだ」と説教した。
 事件後指導部の教師が「この問題は、教師の方に落ち度があったと思うが、事を穏便にすませるために生徒の行動が誤りであったことにして、先生にわびるべきだ」と公言したこと。
 学校長が生徒会長に対して「負けるが勝ちということわざがあるが、これは真理である。生徒会もそろそろ要求をひっこめて、妥協したらどうか」と言ったことなどなど )

の生徒からの訴えに関連して、なぜ生徒が学校の先生や父母に相談せず、ろうあ協会へ訴えてくるのでしょう。

  横たわり続ける三つの「溝」

 それはろう学校では、ふだんから安心して何でも訴え相談できるよううなあたたかい心のふれあいが先生と生徒の間にないからです。

 先生と生徒の間に次のようなみぞがあるからです。
 
(一)つんぼと耳あきの間にできる必然的なみぞ

(二)この教育に情熱も意欲ももたない先生との問に生れるみぞ

(三)(二)と関連して、とくに「つんぼとはしょうのない奴」という差別的態度から生れるみぞ

 このみぞが横たわっていること。しかも(二)、(三)、のみぞが主な原因であったことは明らかです。

 このことが大事だと私達は評価します。
 

 相手が耳のきこえない生徒であればある程度そこにみぞが生れることはさけられないとです。
 しかし、だからこそ、学校側は、この問題について常に細心でなければならないはずです。


  許すことが出来ない
 耳のきこえない手まねも指文字もわかる先生
 への差別的言辞

 この事に関して、しかし学校は、今学校にいる二名の耳のきこえない手まねも指文字もわかる先生を、いずれも生徒指導部へ配置しているほか、これについてどんな対策を講じているでしょうか。

 これらの先生は、生徒と話ができないてふつうの先生の代わりになって、全く生徒の問題のよろず受けたまわりになって苦労しているのに、その仕事は一向に評価されず「なんでも生徒の肩ばかり持ちやがって」と陰では悪口されているのです。

 あまつさ高等部の主事は、ろうあ協会との話し合いの席上で、

 「耳の聞えない先生は、口話教育の能力はない思う。」

などその先生たちの職業的使命にかかわるような重大な差別的言辞をろうしているのです。

 自分の無能から来る問題を全部カバーしてもらっていながらなんと横暴で手前勝手なことを言う主事でしょう。

 私たちは許すことができません。

 問題の根本にこのようなみぞがあったのならば、そのみぞが何であり、それをうずめるためにどうしたらよいのかを具体的に画策するのが、この問題の正当な解決策です。

 ※ 「つんぼと耳あきの間にできる必然的なみぞ」の「耳あき」という言葉を聞いた時、驚いたことがある。
 そして、この「耳あき」と言うことばが、ろうあ者が、見下した言い方で「おし」「つんぼ」と言われることに対抗して「耳あき」ということばを使っていたことを知った。

 「耳あき」「目あき」という意味の歴史は古いが、ろうあ者は聞こえないことを嘲笑わられた時、逆に、耳あきのくせにこんなことも知らないのか、と手話で言い返していたことをよく見た。

 1960年代のことである。
 この表現は、レジストresis(抵抗する=手話で手の甲を立ててすり合わせる。反対の手話表現をすり合わすことで一時的なものでないという意味もある。)としてとらえることが出来る。


 しかし、この表現だけに留まらず、ろう学校での教育に対する期待と裏切りと、憎しみと愛が複雑に交差した非常に重要な京都府教育委員会への要望書であったと読むことが出来る。

 我々を解放してくれる希望の光は、ろう学校が全力をあげて我々や我々の後輩に出来るだけ完全な教育、正しい民主主義の理念にそった教育を与えてくれるかどうかにかかっていることを日々の苦しみの中で切実な実感として感じている。

 という文章は、日本で最初にろう教育が行われた京都からすべての国民に発したものであったと言える。

 だが、残念なことにこのことは、広く国民に知らされなかった時代制約の波に押しつぶされようとしていた。

 だから、ろうあ協会の会員は、乏しい財布を開けてみんなで後世にこの事実を残すべく冊子を作ったのである。

                ( 京都府立ろう学校の事件に関する要望 概略 つづく )

 

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