2013年8月12日月曜日

何のために勉強するのか 授業がわかるように ( 生徒たちの要求 授業拒否事件から学ぶ 1 )



 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


  検証 京都ろう学校における「授業拒否事件」

 京都ろう学校における「授業拒否事件」は、今日では手話通訳者の関係者の間では、あまりにも有名な事件となり、手話や手話通訳分野でさまざまに解釈されているらしい。

 1965(昭和40)年7月11日 京都府立ろう学校高等部の生徒が写生会に出ないで同盟登校。いわゆる授業拒否。
 1966(昭和41)年3月3日 京都府ろう協と府立ろう学校同窓会共同 で「3・3声明」発表。


 とういう経過をもつこの事件。

 よく論じられるのは、「口話」教育の押しつけに対する「手話」教育への要求という歴史的事件であったということである。

 しかし、この「授業拒否事件」の全容は、京都ろう学校の教育内容の大巾改善とともに、福祉や労働などさまざまな分野と教育の区別と分担などの改革が求められたものであった側面は理解されていない。
 

  まず、ここで「口話」教育の押しつけに対する「手話」教育への要求が引き出されたとする意見を検証してみたい。

  恥ずべき事に終止符が打たれた


 「授業拒否事件」が起きた時期、ろう学校の生徒が要求したことは、

「授業がよくわかるもの中心であり、こうした差別には納得がいかない」

「一生懸命に質問に答えても、先生は聞こえないふりをする」

「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」

「手話で教えて欲しい」

「授業がわかるように研究をもっとやって欲しい」

「私たちと先生は仲よく勉強したい」

「何のために勉強するのか、その目的について話してほしい」

などのことがあきらかにされている。(聴覚障害者福祉の源流 文理閣より)
 
  ここには、もっと学びたい、知りたい、という生徒たちの心底からのねがいが現れている。
 だが、このねがいに応えるばかりか、「授業の始業時間をきっちり守って教室に来て欲しい」と生徒が教師に言っているのである。


 これは、授業以前の問題として教師としても学校としても恥ずべき事なのではないだろうか。

 いいかげんな授業という以前の問題にろう学校や教師たちは、生徒に誠意ある「回答」をしないまま事態に「終止符」が打たれた。

  テスト前に教えて高得点のテスト

 後日、ろう学校が100周年を迎えるときに、ろうあ協会の機関紙にろう学校での教育を受けた者の側からの100年が連載された。

 その時、ある卒業生が次のような趣旨の文章を投稿した。
 

 高等部のテスト前になるとある先生は、前日にテストと全く同じ問題を生徒に配り、回答させる。
 回答を書いた生徒に正解を書かせて訂正させ、覚えさせる。
 テスト日。一字も違わない問題が出される。
 生徒は、先生の正解を思い出し、一生懸命書く。
 
 その生徒たちのテスト結果は、他の教科と比べて飛び抜けていい。
 両親は、子どもの成績を喜び、教えてくれた先生に感謝する。


 このような趣旨だった。

 このことを数人のろうあ協会会員に尋ねた。
 そういうことをする先生はひとりやふたりでなかった、と言う。

 信じられない話だと思ったが、調べてみると普通校でもよくあることも分かってきた。

 特に、全国・地域の学力検査などは、その地域、学校、クラスの成績が判明するため教師は必死になる。生徒にあからさまなやり方をすると生徒や両親からすぐ批判が来るのでさまざまな工夫をしながら学力テストで好成績をとるようにしていた。

 しかし、ろう学校高等部の一部の先生はそのことを平然と行っていたのである。

 
今でもあるかのように誤解される、と抗議

 ろうあ協会の機関紙に掲載されてすぐろう学校高等部から抗議がきた。

 このようなことを掲載されると今でもろう学校でも同じようにしていると誤解される、という内容だった。
 

 過去のことと現在のことがゴッチャマゼにされて理解しているのは、ろう学校高等部のほうだった。
 こういうことは過去にすでに解明して、改善し、二度と同じ事が無いようにしているので、誤解されるから、過去のこととして断りを書いてほしい、ということではなかった。

 断りを書くまでもなく、ろうあ協会の連載のタイトルを見るだけで分かるはずだった。
 血相を変えて抗議をしてくることではなかった。


   ろう学校に逆らえない、という心証

 ろうあ協会や関係者からこのまま連載を続けるべきだ、そうでないと学校から見た100年誌だけが記録として残る、という意見があった。

 だが、まだまだろう学校に逆らっては私たちろうあ者が困るから連載を中止しようという役員の強固な意見が出され、白熱した論議が繰り返された結果やむを得ず連載が中止された。
 

 ろう学校から出された100年誌には、残念ながら教育を受けた側からの意見がほとんど反映されなかった。

 3・3声明を考えても当時は、もっとろう学校に対する「遠慮」があったことは、想像に難くない。
                                                                                                         ( つづく )
 

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