2013年8月10日土曜日

「3・3声明」の歴史的評価と当時の問題点及び未来への伝言 いわゆる(3・3声明 資料 2)


  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

※ 「教育の基本問題」「民主々義と共に歩む高い理念をろう教育」「熱意と才能をもった教師をろう学校へ」と主張していたろうあ協会やろう学校同窓会は、高等部の教職員が出してきた「人間には、潜在的差別観があるもの」「言動の中で生徒達が肌で差別と感じ取ったとすれば、潜在的差別観から来る差別と受けとられたことは率直にこれを認め」という「理屈」に疑問を持ちながらも、次第にその「理屈」に巻き込まれていく。

 そして、教師個人の責任を「存在的差別感」に置き換え、高等部やろう学校の教職員全員にそのような考えがあるとの方向へ進む。
 ここには、生徒たちが「人はにくまないが態度をにくむ」と教職員と手を結び合いながらよりよきろう教育をめざす教育方向が打ち消されている。

 

   君ら権利をうばわれて ではないのか

 同時期、盲ろう分校がすすめた普通小学校との共同教育では、生徒間の誤解や無理解を「差別」としてとらえることはしなかったし、そういうことを引き起こしている教職員を「潜在的差別感」があるとはしなかった。

 ましてや与謝の海養護学校設立過程で述べたように不就学の重度の寝たきりの子どもたちの教育保障に対する取り組みへの数え切れない偏見や差別的言辞に対しても、「差別」という「理屈」が持ち込まれなかった。

 盲ろう分校と交流をすすめた先生は、京都で同和教育をすすめた先生で有名だが、その先生も差別という「理屈」で物事を考えはしなかった。

 だが、ろう学校高等部では、京都の同和教育のひとつの潮流にのる人々の「存在的差別論」が校長・高等部から持ち込まれたが。そこには、意図的な考えがあった。

 これらのことは、ろうあ協会が1970年代以降多くの聞こえるほとびとと手を携える中で急速に克服していく。
 その中で、授業拒否事件の関係生徒は極めて積極的な役割を果たす。

 

 だが、「存在的差別感」という考えは、ろう学校高等部でさらに深く「沈殿」し、ある教師が「ろう教育ー君ら音うばわれてー」の本を出版した時に大阪の聾社の生活と権利を守る会から徹底的な批判を浴び「ー君ら権利をうばわれてー」ではないのか、ともいわれる事態が生じる。

  やがて すべてのろうあ者が声をはりあげて叫ぶ

  3・3声明
 「ろう教育の民主化をすすめるために-「ろうあ者の差別を中心として-」  (2)

 昨年10月東京でろうあ者2人が手まねで話しているのを、人にからかわれ、それがもとでけんかとなって、相手を死なせてしまった事件がおこり今裁判中である。
 ここにはっきり差別の事例がある。しかしそれは殺人という痛ましい悲劇に終っている。


 われわれの過去に程度の差こそあれ、この様な悲劇が数え切れないほどあったし今もある。
 
 また、家庭でのうちの子はきこえないのだから、月給が安くても、結婚ができなくてもしかたがないというあきらめも差別に対する認識が正しく行き渡っていない証拠である。


 われわれは、日本じゅうにいる、すべてのろうあ者の届かない抗議を代表していると信じているし、やがて、すべてのろうあ者が声をはりあげて叫ぶだろう。
  人間としての権利を 時として生命すらおびやかされている

5.差別問題の正しい解決のために

 京都のろう学校における差別問題はたまたま生徒とわれわれ成人ろう者のねばり強い抗議によってそれが正しい形で発展させられて来た。
 けれどもそれは、ろう学校における数多くの差別のほんの一例にすぎず、更に一層深刻な形の差別が社会にあり、われわれは、人間としての権利を、時として生命すらおびやかされている。

  差別問題は 教育委員会
 ならびに文部省の行政方針の欠陥としてとらえるべき

 差別問題は単にろう学校当局や個々の教師の過失としてとらえるべきでなく、かえってろう学校当局や教師をしてこの過失をおかさせたもの、教育委員会、ならびに文部省の行政方針の欠陥としてとらえるべきである。

 ろう教育に何の情熱も関心も持たない人を先生としてろう学校へ送るだけでなく、こんな奴は、ツンボかメクラの学校へという露骨な差別意識が教育委員会の中にあったことを追求する。

 また親や子の教育への願いをふみにじって特殊な技術が必要なこの学校の先生に、研究や訓練の機会もない状態、また子どもの要求を尊重して権利をまもり、可能性を無限に伸ばす道が明らかにされていない今日の状態を追求する。

 親が安心して子どもを通わせることができる学校になるよう要求する。

 文部省や教育委員会は、ろうあ者がどのような生活をしているか知っているのか。
 こういうろうあ者の生活実態を理解しないまま教育を受ける権利を保障しないままでどうして身障者が一人の人間として社会的な権利を保障され、差別をなくせるだろうか。

  ろうあ者に対するあきらめとあなどりのムードが
    ただよっているろう学校

 行政そのものに差別がある。

 差別行政のどん底に置かれている今日のろう学校に、ろうあ者に対するあきらめとあなどりのムードがただよっているのは、いったいだれの責任だろうか。

 このムードがある限り、差別を差別と感じる正常な感覚と切実感は生れるはずがない。

 こうしたぬるま湯につかっている限りこの問題を差別としてとらえることに根強い抵抗があったことは、この事件の経過をみても明らかである。

 われわれは、ここでろう学校、教育委員会、ひいては文部省が、その責任を明らかにし、積極的に具体的な解決のためにこの問題に取り組むよう要求する。

   われわれの人間としての権利を尊重する姿勢を

 われわれに対する認識を正し、われわれの人間としての権利を尊重する姿勢をもって、ろう教育の発展ひいては成人ろうあ者の地位の向上に力をそそぐべきである。

 その時になって始めて、われわれはその崇高な目的に達するために関係諸機関と協力してこの事業の推進に努力を惜しむものではない。

     昭和41年3月3日
                      


     耳の日にあたって
                                                                      ( つづく )
 

0 件のコメント: