2013年8月5日月曜日

日本最初のろう学校としての輝かしい伝統の母校を こよなく愛し 誇りを持って ろう学校授業拒否事件 ろうあ協会・ろう学校同窓会の京都府教育委員会への要求(2)



  教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー


   京都府立ろう学校の事件に関する京都府教育委員会への要望

   差別的・逃避的態度から理解と深い教育愛を

  教師の差別的、逃避的な態度を反省し、生徒に対する正しい理解と深い教育愛をもって、生徒が障害をのりこえて訴えていることに耳をかたむけ、又我々成人ろうあ者の団体であるろうあ協会や同窓会の意見に耳を傾けるのが当然ではないでしょうか。

 学校側がどれほどこの問題の本質に盲目であるか、又は、故意に目をつぶっているかは、ここでくだくだしく我々の主観的評価をのべなくとも次の事実を見れば明らかです。

  誰が 常識がなく 民主々義をはきちがえている

(一)生徒が「自分たちは、口話、手話を云々しているのではない。
 先生の私たちに対する態度の誠実さを問題としているのだ」とはっきりビラの中で述べているのに、強引に口話、手話の問題にすりかえて、口話研究会とやらを開いて現象を糊塗しようとしていること。

(二)事件の経過の「四」の中でも述べたように、学校長まで出席している場で、主事が後日部会で検討ののち回答すると確約しておきながら。

 その後ニカ月余り討議も何もせず、返事もせず、生徒にさいそくされてやっと主事名で回答を出したが、それは生徒の要求から全く的外れのものであったということ。
 

 生徒のビラによると、この主事は、日頃からしきりに

「ろう生徒は、常識がない」

「民主々義をはきちがえている」
 

などと放言しているらしいですが、これでは

「常識がなく、民主々義をはきちがえている」

のは、一体誰でしょうか、

生徒でしょうか、

高等部主事でしょうか。
 

ろうあである事を利用して
 故意に事実をゆがめ 
     常識で考えられない不当な解釈がされている

 主事および校長は、学校行事を拒否した生徒の行動の非難に重点を置いています。

 本来ならば、生徒をしてこの様な行動に踏み切らせた原因の追求にこそ重点を置くことが教育者として正しい態度ですが、校長および主事がこの様な非常識な態度を示して平然としている裏に、ろうあ者に対する抜き難い差別感が明らかに読みとれるのではないでしょうか。

 この様に、われわれがろうあである事を利用して、故意に事実をゆがめ、常識で考えられない不当な解釈を行い、これでもって自分達の誤りをおおい隠して、 事件を落着させようとすることは、教師が如何にわれわれろうあ者の教育を、ひいてはその人格を粗略に取り扱っているかという事を証明しています。
 
  学校・教師の態度は 必ず将来に重大な禍根を残す

 もし我々ろうあ者が校長や主事が思い上って考えているような常識のない、不健全な人間ならば格別、実際にわれわれなりに常識的な判断を持ち合わせている場合、こうした学校教師の態度は、必ず将来に重大な禍根を残すものと云わなければなりません。

 これが根本的に大事であり、この文書を委員会へ出す我々の本当の気持ちですが、我々は決してこれをもって、ただにろう学校の個々の先生の非をあげつらっているのではありません。

 我々は、むしろ学校の先生方がなぜこんなになってしまうのか、その本当の責任者は教育委員会にあるのではないかと大きな疑問をもつのです。

  教育を受けて卒業した我々が
  主観的に知っている専門的知識・特別な技術

 我々は、教育についてむずかしいことはわかりません。

 しかしろう教育が本当にむずかしい教育だということは、そのためいろいろ専門的な知識と特別な技術がいるものだということは、又、深い教育愛がいるものだということはかつてこの教育を受けて卒業した我々が主観的に知っています。

 又私たちがこの社会に出てもいろいろと差別を受けなければならないのですから、この教育がイコール教育技術ではすまないということも日々感じています。

 委員会は、ろう教育のこの特殊性に対して果してどのような理解と配慮をもってのぞんで来られましたか。

 私たちは個々の不良教師の非行をのりこえて、この事実を厳しく追求するものです。

  京都府教育委員会が
  「ろう学校の先生であることを恥しい」
                                   ことだと思わさせている 

 ろう学校には、ろう学校の先生であることを恥しいことだと思っている先生が今でも沢山います。
 私たちにはわからないことです。


 このむずかしい、又深い教育愛を必要とする仕事をしていることがなぜ恥しいことなのでしょうか。

 本当を言えば、ろう学校の先生こそふつうの学校の先生よりも尊敬されて当然だと思うのですが……。

 しかしろう学校の先生をそのように思わせているのは、委員会ではありませんか。

 「こんな奴は、ツンボかめくらの学校へでも」

といいかげんな人事で無能教師、非行教師、ロートル教師をろう学校へ配置してこられませんでしたか。

 又この教育に才能も性格も合わない情熱も持ちえないでいる教師をいつまで
もろう学校にほったらかしておかれませんでしたか。


 耳のきこえない子供を教えるための特別な訓練や知識を与えた後、ろう学校へ配置して下さいましたか。
 

 「同和教育」というりっぱなことを言っておられる委員会がなぜろう学校の先生に、肩身のせまい思いをするようなムードを作っておられるのか、我々には不可解なのです。

 以上にのべた我々の見解と立場な十分御検討下さい。
 そして以上の我々の立場にたってのみ、我々の次の要求を受け人れて下さい。


日本最初のろう学校としての輝かしい伝統の母校
     をこよなく愛し 誇りを持っている

(一) ろう教育の特殊性に対する認識を深め、その対策を人事・制度・施設の面に具体的に画策して下さい。

(二)熱意と才能をもった教師をろう学校へ優先的に配置して下さい。

(三)この教育に自信も情熱も持ちえずにいる先生に対しては、本人のためにも適当な人事交流をはかって下さい。

(四)少くとも、今日まで生徒に対して差別的な言動の絶えなかった教師に対しては、教師として失格であるとの判定のもとに断乎と配置転換を行って下さい。

 我々は、日本最初のろう学校としての輝かしい伝統をもっている我々の母校をこよなくも愛し、誇りとしています。

 又その発展のためいつでも喜んで協力するつもりです。

 がこのことは、同時にわれわれの母校を傷付け、伝統をけがそうとするものに断乎として対決することも意味しています。

 民主々義と共に歩む高い理念をろう教育に

 委員会も教師に誤りがあれば、これを正し、すべてのろう学校の教師がその仕事に誇りをもち、自信をもち、又一人一人の生徒を心から愛して、安んじて教育に専念していけるようにしてあげて下さい。

 かつて哀れむべき不具者を教育によって治癒救済してやるのだという貧民救済的な理念を一歩も出たことのないこの教育に、同和教育におけるような、日本の民主々義と共に歩む高い理念をこの教育にも与えて下さい。

 以上のことを府下全域のろうあ者の総意として強く要求いたします。

※ ろう教育に対して、冷静で沈着に考えぬいたこのろうあ協会・同窓会の要望書は、苦しみ抜いたろうあ者を代表する教育への要求(現在、教育的ニーズと書く人々は、なぜかこの言葉を避けているが。教育的ニーズということば自体あいまいでなにを意味しているのか不明である。)は、現代教育の中でも絶えず流れているものではないだろうか。

 
  「 熱意と才能をもった教師をろう学校へ」「この教育に自信も情熱も持ちえずにいる先生に対しては、本人のためにも適当な人事交流を」という人事要求は、現在でも考えなければならないことである。

 
 「 熱意と才能をもった教師をろう学校へ」


と書いた要求には、「 熱意と才能をもった教師」は、学び・研究し・生徒とともに教育を発展させる条件を備えた人であるという教訓が籠められている。

 1970年代を前後して、京都府教育委員会はこの要求に徐々に応えていくが、

 「 かつて哀れむべき不具者を教育によって治癒救済してやるのだという貧民救済的な理念を一歩も出たことのないこの教育に、同和教育におけるような、日本の民主々義と共に歩む高い理念をこの教育にも与えて下さい。」という要求に対して、当時、同和教育の主流であった「差別論」で、本来の要求が「すり替えられていく」。

 それは、運動の高まりとともにそれを抑え込もうとする動きと同調してはじまる。

 残念ながら、このことは手話や手話通訳を学ぶ人々が絶えず引用する「3・3声明  ろう教育の民主化をすすめるために-『「ろうあ者の差別を中心として-』」(略称 3・3声明)に明確に現れている。

 京都府教育委員会に出した要望書の数日間に要望書とは、一部に極めて違和感のある「3・3声明」を以下分析してゆきたい。
                                                                                                          ( つづく )
 


 

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