Once upon a time 1971
障害児の親の会の市議会の陳情があった日のこと。
陳情が終わったお母さんたちが数人やってきた。
その中のひとりのお母さんが、身体障害者手帳を示して「この障害名の、先天性○○○という、先天性を消してほしい。」と言われた。
障害者手帳に
先天性とあえて書く意味はないことは承知していたが
私もその意見は、そうだと思うことは多く経験していた。
しかし、
「あのっ、福祉事務所では、その部分は変えられないんです。」
「医者が書いた名称で申請されて、府から手帳が交付されるからです。」
「交付には審査があって……」
「こんな名前では、うちの子はお嫁に行けません。変えてください。」
お母さんは、泣いて激しく声を荒立てられた。
周りのお母さんたちは、ハラハラして見ていた。
恨み辛みをぶちまける涙の先
「あのっ、障害名の変更は出来ますから、この変更書類とお医者さんの診断書をもらって……」
と言うとそれまでの恨み辛みをぶちまけるように
「今すぐ変えてください!」
とお母さんは泣き続けた。
もう大変な騒ぎになって、お母さんの回りに人垣が出来た。
お母さんは自分が原因でこの子を産んだことになるというのが「先天性」であり、このことは遺伝する、と思われる。娘が結婚ししようとしても「先天性」であったらまた障害児が生まれるから、と結婚を断られる。
だから、この文字は消してほしい、と何度も何度も泣くばかりだった。
辛い時間。哀しみの時間。
だが、お母さんの言うことばの端々から身体障害者手帳を申請するときに「先天性○○○」と医者から言われて何も言えなかったことやその後沸々とわき上がってきた感情をぶちまけていることが見て取れた。
受付、交付という仕事をしている窓口にそれをぶつけるしかなかったのだろう。
いくら障害名を変えても、同じよ
泣かれていることは長く続いた。
気持ちには共感出来ても、言いようもない時間と空間。
その子どもさんのことを知っているが故に、ふと、お母さんはこの障害名すべてを消し去りたいのではないかと思った。
人垣の輪はどんどん大きくなる。
見るに見かねたお母さんが、泣いているお母さんの所ににつかつかと寄って
「うちの子も同じ障害名やけど…」
「いくら障害名を変えても、同じよ」
「悪くとる人はどんな言い方しても、どんな名前にしてもいつしょ。」
「私は、このことで動揺したり、責任を感じたりしない。子どもにもきちんと説明出来る。」
「もう、帰ろう」
と言った。
すると他のお母さんも
「そうやで、同じ、同じ、そのことにこだわらんと生きて行かんと。」
と言い出した。
幼い子どもに不妊手術を可能にした法律があった
それで、お母さんたちは帰って行ったが、改めてAさんの遺伝子などの問題研究の重要性を気づくとともにAさん宅に行ってこの「先天性」「後天性」の意味をもう一度確かめようと思った。
同時に、市内の医者を紹介した。
この医者は、障害児学校の先生で障害者団体の役をしたこともある先生のお姉さんだった。だから泣いたお母さんの気持ちを受けとめてくれると思ったからである。
当時、先天性、という診断は深刻な内容だった。
親は、その診断とともに子どもと死のうとしたり、特に女の子だったら小さいうちに不妊手術をしていたことが多かった。
子どもが大きくなって結婚した。
赤ちゃんが生まれないので産婦人科に行ったら不妊手術されていることを知って、親子が激しく対立したり、絶望的になったりする問題に数え切れないほど遭遇してきたが、どれも悲劇的結果になった。
優生保護法。
戦前の問題を引きづった法律として厳然として残っていた時代のことであるが、今日、過去の出来事として言い切ることが出来るだろうか。
「教育と労働安全衛生と福祉の事実」は、ブログを変更しましたが、連続掲載されています。以前のブログをご覧になりたい方は、以下にアクセスしてください。
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