欧米では、言語や文字の強要での激しい戦いがあり、言語の自由が勝ち取られてきた国々がほとんどと言っていいぐらいである。
欧米と比べて日本ほど言語の国家統制が強い国はないとも言える。
これは彼の好んで使う「特異」な状況とも表現出来る。
日本では、アイヌ民族のアイヌ語も公用語として認められないばかりか、強制連行されてきた朝鮮・韓国やさまざまな国の人々の言語の自由を公的に認めてはいない。
このことを踏まえないで、初等教育で国が定めた子どもたちの「漢字と書き」を重視して、読み書き障害を取り上げていくというのであるから、結論が先にありきの研究であるといわれても仕方がないだろう。
これでは、「学習指導要領に則った漢字と書き」の問題点は浮上しないであろう。
また彼の「読み書き障害」や「読み書き困難」とする子どもたちの問題には、「学習指導要領に則った漢字と書き」の問題は一切触れらない。
「学習指導要領」の漢字の教える時期や数、年齢的認識や言語や手指との発達の関わりから来る書きの困難などなどのことを、多くの教育研究者が問題点を上げているのにこれも一切触れない。
変貌した教師のための教育実践センターの行く末
滋賀大学教育実践総合センターの目的として、かって京都新聞の記事に以下のような記事が掲載された。ここでは概略だけを掲載する。
滋賀大 悩める先生に「駆け込み寺」
子どもとの関係や授業の進め方に悩む学校の先生が気軽に相談できる窓口を、滋賀大教育学部(大津市平津二丁目)が4月1日から学内に設ける。
同学部によると、悩みやストレスを抱える教員は増えているが、解消する受け皿が少ないといい、大学自らが教員の「駆け込み寺」になろうという計画だ。
文部科学省初等中等教育局は「教員への相談窓口を大学で開設するのは珍しい」と話している。滋賀大教育学部は付属の教育実践総合センターで子どもの相談を行っており、以前から教員への相談も検討していた。大学の生き残り策の一つとして地域との連携を深める「ティーチャーズ・オープンキャンパス」構想も掲げ、その第一弾として相談窓口を始めることにした。
相談窓口は「教師支援・相談室」と名付け、センターの専任教官二人を置く。
電話で受け付けた後、面接で相談にのり、内容に応じて学内の他の教官を紹介する。
教科の指導については専門的な立場から助言し、精神面での相談は心理学専攻の教官が対応するなど、学内の人材を生かす。大学側は教官の研究内容が分かる一覧表を、事前に県や市町村の教育委員会へ配り、相談の際の参考にしてもらう。場合によっては学校への出張相談も行うという。
相談窓口の担当で教育実践総合センター長の窪島務教授(教育学)は
「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」
と話している。
今の教員は研修や会議が多く、忙しい。
悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい
と言っていたのに、今は
この記事では、
1,悩みやストレスを抱える教員は増えているが、解消する受け皿が少ないといい、大学自らが教員の「駆け込み寺」になろうという計画だ。
2,大学の生き残り策の一つとして地域との連携を深める「ティーチャーズ・オープンキャンパス」構想も掲げ、その第一弾として相談窓口を始める。
3, 相談窓口は「教師支援・相談室」と名付け、センターの専任教官二人を置く。電話で受け付けた後、面接で相談にのり、内容に応じて学内の他の教官を紹介する。教科の指導については専門的な立場から助言し、精神面での相談は心理学専攻の教官が対応するなど、学内の人材を生かす。
という理念から出発したものであり、この理念を受けて責任者であった窪島務氏(教育学の専門教官)は、「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」と話したとされている。
教員のための支援センターとして発足したはずが、今は
この記事を読む限りは、教育実践総合センターは主として教員のための支援センターとして発足したことになり、窪島務氏もそれを認めていたかのようにとれる。
だが、それ以降、窪島務氏は、「今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい」というはなしと裏腹に、教員の責任を追求し、教育委員会などに招かれた研修に積極的に参加。
そこでは、間接的、直接的、意識的、無意識的に教員を責め立て、悩みを抱え込ませ、教員の自己責任追及をしている傾向が時間とともに次第に濃厚になる。
今の教員は研修や会議が多く、忙しい。悩みを抱え込む前に気軽に相談してほしい、と言った窪島氏の姿は見られない。
そればかりか、保護者に教員の責任に目を向けるように「扇動」する姿が目立つ。
かって障害児教育について語っていた窪島氏ではなくなった
以下順次、そのことを明らかにして行きたい。
窪島氏の「主張」で特徴的なことは、「学校長」「学校の管理職」「教育委員会」の責任は、ほとんど触れていないことに注目しておいて欲しい。
ましてや、かってのように文部科学省を批判する、ことはしない。
ここで、あえてこのことを書いておくのは、窪島務氏が、教育実践と言いながら、教員がとうてい教育実践出来ないことや責任をとれないことを絹糸で締め上げるように教員個人を苛むことをしているのではないかと考えられるからである。
窪島氏は、政府・文部科学省の意図通りに主張し・行動している。
それは、「軽度発達障害」を文部科学省が「発達障害」と言い換えたとたん、自らの書いた文章を反故にして、すぐ同調していることにも表れている。
その一方、政府・文部科学省に批判的な紙誌には、批判はしないで、曖昧な表現や「暗示」で文部科学省に批判的な振る舞いをする。
自ら教員であるのに、教員でないかのように主張する様子に、今日の教育課題に立ち向かう姿は見いだせず、かっての窪島氏の評価を延長線上で理解している人々の考えを変えることが急務だと考える。
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