Once upon a time 1971
源さんとともに京都府下の障害児教育の現状と課題を知る日程はきつかった。
深夜京都を出て、深夜京都に帰るという時間帯だけ考えても疲れるが、どの地域でも障害児教育の条件整備が悪く、改善が求められるものであった。
そのことは疲労を加速させた。
子どもたちは笑顔いっぱい
元気で、生き生きして、学校が楽しくて楽しくて
ところが、鞍馬山で育った源さんは、元気いっぱい。
初めて教師になったとき二つ峠を越えて片道1時間半の山道通勤で小学校に赴任。帰宅は、夜中に山道を走るように帰ってきただけあって疲れを知らなかった。
だが、帰宅の車中では、
その日行った障害児学校や障害児の子どもたちのことや施設設備のこと。
さらに教育を受けていた子どもたちの笑顔。元気で、生き生きして、学校が楽しくて楽しくて仕方がない姿は、普通学校ではあまり見られなくなった。
もっと、それぞれが交流して京都の教育を高めていかなければならないのでは.
などなど話は途切れることなく続いた。
このことをもとに源さんは、府議会ですべて質問し当局に教育の本質とそれを支えるための教育条件整備を迫り、そのほとんどを実現させたことは後で知った。
霊安室の隣が職員室 哀しみがたえることがない
京都縦断最後の日。
南部の国立病院に行くことになった。
この国立病院の病弱の子どもは早くから小学校・中学校の養護学級が作られ病院内学級として発足していた。
しかし、そのことも併せてきいちゃんの居る病棟(重度心身障害児施設)の子どもの教育の現状を見るためだった。
まず、きいちゃんの病棟に行ったが、私はきいちゃんの名前をさがし続けた。
が、どこにもきいちゃんは居なかったし、名前もなかった。
きいちゃんの病棟は、養護学校からの訪問教育が行われていた。
教職員は、養護学校から毎日来るのではなく国立病院の一室を職員室として借り、きいちゃんの居た病棟の訪問教育をしていた。
教職員との意見交換の冒頭から
「この職員室の隣は、霊安室なんです。」
「死んだかたの遺体が、安置されてあるんです。」
「私たちの取り組んでいる教育の子どもたちが死んだら、隣の霊安室に…言いようのない苦しみに襲われます。」
「訪問教育ではなく、他の子どもと同じように、すべての日(毎日)に授業が受けられるように!」「施設環境をよくしてほしい!」
などさまざまで切実な要求が渦巻いて出された。
「きいちゃん、そんな子知りませんぇ…」
私は、どうしてもきいちゃんのことが気になり、教職員との話し合いを途中から抜け出し、再び病棟に行き、きいちゃんを探した。
看護婦さんにも聞いても他がだれも、そんな子が居たことは知らない、という返事だった。
婦長さんが知っているかも知れないと聞いて、婦長さんにも聞いてみたが「知りませんねぇ」の返事。
たった一言
私は、粘って、入所したのは間違いがないから、居るはずだ、病院を変わったのかも知れないから、調べてもらえないか、と必死に頼み込んだ。
根負けした婦長さんは、「ちょっとまってください。」と行って、どこかに行った。
訪問教育を担当している先生たちも看護婦さんたちも知らないという。
きいちゃんは、どこに行ったんだろうと思い続けた。
どれくらい待ったのかは吹き飛んでしまっているが、看護婦さんが戻って来られてぽっりとひと言。
「亡くなられておられます。」
その後先の記憶はまったく残っていない。
学校には入れるようになったのに
帰路につく車中で、いつもなら話し合うのに黙り続ける私を案じて源さんが「どうしたんや。」と聞いたけれど答える気力も失せていた。
私の頭の中は、
♪ 粋な黒塀 見越しの松にあだな姿の洗い髪
死んだはずだよ お富さん 生きていたとは
お釈迦様でも 知らぬはずだよ お富さん ♪
というきいちゃんの歌が渦巻き続けていた。
なんであんたが…
きいちゃん!
お医者さんが言った「学校に入れたいわね……」が実現出来る時期に来たのに、学校にも入れず、先生と勉強も出来ないで、なぜ死んだんや!
叫びにならない哀しみと言いしれぬ怒りが沸いて消すことが出来なかった。
すべての子どもたちに
教育が可能である、ことを身を挺して証明されてきたのに
先生たちが子どもたちに、教育が可能である、教育が存在するのだ、ということを身を挺して証明した。
それは、それは社会的不理解と教育行政の貧困さとの格闘の歴史でもあった。
でも、それが、実現したのに。
黙したままの私が、源さんにことのいきさつを話すことが出来たのはずいぶん後のことであった。
源さんは、府議会本会議で徹底質問し、訪問教育から、養護学校の分校、そして、養護学校の建設を実現してくれた。
もちろん、源さんだけの力だけではなかったが。
先日、鞍馬を訪れ、亡くなった源さんの話を奥さんから聞いた。
府議会本会議の質問をするときは、三日三晩徹夜で、書き終えると奥さんをはじめにみんなにこの質問わかるか、どう思うと聞いて回っていたとのこと。
源さんのこころには、きいちゃんらのたくさんの子どもの気持ちが込められていたのだということを再認識した。
きいちゃんの歌が澄んだ空にこだますように、障害の重い子どもたちに「生きる歌」を響かせる教育がはじまったのに、その教育を受けられることなく亡くなっていった子どもたちがどれだけ多く居たことだろうか。
それは、あまりにも悲しい。
きいちゃん、お富さんは生きていたではないか!
なんであんたが…
「教育と労働安全衛生と福祉の事実」は、ブログを変更しましたが、連続掲載されています。以前のブログをご覧になりたい方は、以下にアクセスしてください。
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