窪島氏の指導法は、漢字などのもともとの表意・表音文字が簡略化されたことを承知しないで、分解した文字に「自分たちなりの意味づけ」「思い込みの意味づけ」をして、子どもたちにイメージ化させようとするので非常に問題がある。
文字の形成の基礎知識もないまま「決まった漢字」を条件付け
例えば、
窪島氏は、漢字の表意文字と表音文字の特性を何ら研究することなく「親」という文字の意味合いを「ドラマで使われた表現」を批判検討することなく、解釈している。
しかし、親は、「祖」とも書くなどさまざまな表現形態と意味合いを承知しないで、文字をイメージ化させている。
しかし、これでは子どもに文字を教えるだけの手段としてのイメージ化でしかなく、漢字ドリルの変形でしかないと言われても答えようがないだろう。
文字をひとつ、ひとつ、見ているのであって繋がりとしての文字を見ていないが所以に、文章として指導していない。
自己の内面を表現する手段として、文章を
自己の内面を表現する手段として、文章を指導できるだけの力量がないのかもしれない。
窪島氏は、「読み書き障害」の「特性」に拘るあまり、ユニセフの国際的識字運動や日本の識字の取り組みの教訓をベースにすることはないのである。
そのため日本の識字の取り組みの中で、文字を書くことを獲得した女性が、それまで何となく見ていた夕陽が、あまりに美しいことを知って感動した記述があることすらも知らないでいるらしい。
文字の獲得だけを目標にする指導は、教育といえるだろうか。
子どもの発達や子どもたちの豊かな認識を高めていこう、というような目標などは書かれていない。
何がエラーで、何を注意するのかが
明らかでない脆弱で危険な枠組み
2、窪島氏らは、読みか書き障害の子どもたちの書いた文字が、「エラー、注意しましょう、」とする基準を何ら明らかにしていない。
そして次のようなことを書いている。
正しい場合でも正しいという確信がない。
正しい字を書いている場合でもあるいは正しい読み方をしている場合でも、自分が正しいという確信がない、自信がないのです。
ですから、ちょっとした相手の反応に対して、正しいのにそれを直して間違った字にしてしまうのです。
この子どもたちは知的には低くありません。
むしろ高い子どもが多く、理解はいいのです。
周りの反応を見て、すぐに自分のやったことが間違っていると思ってすぐに修正します。 それは常に間違う可能性があるという不安からそうするのです。
正しい場合でも正しいという自信がないのです。
(読み書き障害の新しい概念と滋賀大キッズカレッジの教育的指導─発達主体の定位と「障害」の位置づけを中心に─)
窪島氏の言う「正しい字」「間違った字」とはどういう字が「正しい字」であるのかの基準にしているのかが、まったく書かれていない。
「正しい」「正しくない」「書字エラー」「錯読・錯書」とする根拠は
窪島氏らは、発達性読み書き障害(dyslexia)児の錯読・錯書に関する研究などの「錯読・錯書」も「書字エラーにおける漢字文字特性の役割について」などの「エラー」も共にその概念・根拠・基準を明らかに出来ないで書く。
ちなみに、「錯」とエラーの文字の意味には日本語表記として違いがあることも承知していない。
文化としての文字を調べもせず
文部科学省の「一番最近決めた漢字」を正とする
さらに基準を明らかにしていないと一例をあげておくと、窪島氏が「書字エラー」と決めつけている子どもたちが書いた文字の中には、以前はそのように書かれていた文字がある。
その子の書き方のほうが、人間の身体機能にマッチした書き方であることすらも、国が意図的に漢字をつくったことや、歴史的に書き文字にはさまざまな書き方があったことも分析もしないで「書字エラー」と決めつけているのである。
そうやね。
こういう書き方もあるよ。
昔の人はあなたのように書いていたんんだけれどね……
などの会話は「正しい場合でも正しいという自信がない」傾向の子どもへの教育でないのか
「書字エラー」と決めつけと、そうやね。こういう書き方もあるよ。昔の人はあなたのように書いていたんんだけれどね……などの会話はそこに存在しなくなるし、その子どもが、自分なりに書いたことに対する努力を褒めることもなくなってしまう。
このような取り組みは窪島氏以外ではやられていないのだろうか。
そうではない。多くの教師は非常に苦労してこのような実践を積み重ねている。窪島氏はそれを見ないだけである。
彼はそれらを知らないでいることに驚きを覚える。
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