Once upon a time 1971
縦割り福祉行政でなく、無責任福祉行政
行政は、タテ割りとよく言われる。
でも、区分主義でもあり、無責任体制でもあると思える。
身体障害者手帳交付の時でもそうだった。
日本の行政は、総合的に人間を見ない。
障害でも、なぜ「表面の身体」だけみて、「身体内面」や他の障害を併せもつ場合をみないのか。
また、併せ持つ場合でも、どちらか重いほうで「等級判定」する。
障害そのものの特徴。
障害児者の生活周辺。
障害児者の社会基盤。
などを一切考慮しない。
戦前、戦中を色濃く引き継いだ身体障害者福祉
近年徐々に改善されているが、基本的には、それらを改めようとしない国、行政の姿勢は、さまざまな波紋を呼び起こす結果になっている。
1971年当時は、身体障害児に身体障害者手帳は交付されたが、児童の場合は児童相談所が行政対応する仕組みになっていた。
知的障害などのある児童は、福祉の対象外だった。
身体障害児手帳交付されて手帳を届けて時々で会う子どもたちは、身体だけではなくさまざまな障害や慢性的な病気を抱えていたが、それは「身体障害」の対象外とされていた。
日本は、戦前、戦中を引き継ぎ身体障害児者という規定をしていたからである。
それは、身体障害者団体の矛盾としてもすでに書いたが…。
言えそうで言えない以上の決意
ある日。
身体障害者相談員から、あるお母さんの相談にのってほしいという連絡を受けた。
役所から、自転車で約30分。緩やかな坂道を上り、左折した所に家があった。
お母さんは、始終うつむいたままで、なかなか話そうとされなかった。
二間の家の隣の部屋から、女の子の歌が聞こえた。
♪ 粋な黒塀 見越しの松にあだな姿の洗い髪
死んだはずだよ お富さん 生きていたとは
お釈迦様でも 知らぬはずだよ お富さん ♪
同じ歌が繰り返し、歌われている。
何か、かなりお母さんは追い詰められている。
しばらく時が流れるのを待った。
何か話そうとする唇は、動きかけて、また閉じてしまっていた。
ぽつり、ぽつり、ぽつり、とお母さんが話し始められた。
重度心身障害児を産んだお母さんは激しく苛まれて離婚
お母さんの話は次のようなことだった。
重度心身障害児を産んだお母さんは、前の夫に激しく苛まれて離婚させられた。
しばらく途方にくれた生活だったが、そういう子どもが居てもいいという人が現れて、再婚した。
生活は貧しかったが、その人との間に子どもも生まれた。
その子には障害がなかった。
だが、時が経つとその子も大きくなるし、部屋も狭いし、寝たきりの子どもに充分かまってやれないし、肩身の狭い思いは日ごとに増すばかり。
本当に心の中では、この子と…一緒にと思うが、また、逆に一緒に過ごせないとも思う。
もう自分ひとりとこの子だけではなくなった。
お母さんは泣き続け、きいちゃんは
歌い続け途切れることのない時間
襖を開けて、その子と出会った。
それが、きいちゃんだった。
きいちゃんは、重度心身障害児で目も充分見えているのか解らない、見えてないのだろうとお母さん。
お母さんと私が見ているのに寝たきりのきいちゃんは、
♪ 粋な黒塀 見越しの松にあだな姿の洗い髪
死んだはずだよ お富さん 生きていたとは
お釈迦様でも 知らぬはずだよ お富さん ♪
と澄んだ声で歌い続けた。
お富さん、と言ってもわからない年代なのに、どこかで聞いたのであろうその歌を繰り返し、繰り返し寝るまで歌う。
身体も大きくなってきた。
このままではこの狭い家に一緒に住めない。
施設に預けるしかない。
でも、それはこの子を捨てることになるのだろうか、とお母さんは泣いた。
それからお母さんと出会うたびに、お母さんは泣き続け、きいちゃんは歌い続けということが途切れることはなかった。
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