久田氏の考えでできる教育内容の充実と広がり
教育実践をする学校や学校の教師からすれば、従来の教育実践を踏まえて、久田氏の考えのほうが、形式論議よりも教育内容のさらなる充実がすすめられる。
久田氏の、
それは障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。
その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。
という考えは、教育実践としてもより有効で効果的であり、教師間の一致と連帯も深まるだろう。
群馬大学教育学部久田信行氏の「発達障害や学習障害の概念規定は成り立たない」とした論拠に基づき、
「障害だからという位置づけではなく、特別な教育的ニーズがあるから、特別の支援を行うという、特別ニーズ教育の原点に戻る必要がある。その際、読字困難、多動など、行動上の状態像で表記し、あるいは、読字支援が必要な子、行動の調整を求める子というニーズに基づいた表記で考える方が、根拠の薄い「障害」と規定するより良いだろう。」
という論理から滋賀大学教育学部窪島務氏の現在の主張を考えると、窪島氏の行っていることは重大な問題と破綻と「繕い」「修正」「転向が浮かび上がってくる。
窪島氏の過去の文章を読んでいない人は、現在の彼は、時には「不登校」「読み書き障害」の研究者であり、発達障害の研究者である、と思われるだろう。
だが、そうではない。
場面展開をして使い分ける文章を比較すると
窪島氏は、書いていること、またやっていることを「場所」や「対象者」「読み手」によって、まったく異なったことを主張し、使い分ける。
そのため「新しい問題」を引き起こしている。
そればかりか、窪島氏は「意図的か」「意図的でないか」は別にして、西氏や久田氏のように文部科学省の文章を読みこなせてないばかりか、重大な「誤りか」「意図的無視」を引き起こしていることは、間違いない。
教師は逃れることができなくなっている、と
そのためまず、彼が教職員組合への記述をあきらかにする。
窪島氏が、1998年に京都市教職員組合の機関紙に掲載された、「教師の指導」の視点から「登校拒否」問題を考えるというテーマの文章の一部を掲載したい。
だだし、参考のためにすでに引用した日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)、(国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-2010年 )を※印で再掲載する。
窪島氏は、1998年に京都市教職員組合の機関紙に次のようなことを書いている。
子どもの息苦しさをすることから
教師は逃れることができなくなっている
子どもににとって本当に息苦しいのは、いわば「善意のおせっかい、」「良心的な押しつけ」です。それは、子どもが 拒否できないしつこさ、「正しさ」を持ってせまってくるからです。
いま、「善意のおせっかい」や「良心的押しつけ」が教育の場で、「子どものため」「発達のため「将来のため」という「教育的配慮」によって行われ、教師もそこから逃れることができなくなっている状況があります。
理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者
の無責任な言動が横行し
また何でも責任を学校に押しつける親がふえているとしながらも
確かに、最近、学校たたき、教師パッシングなど本当に理不尽なジャーナリズムの傾向や一部の「進歩的」研究者の無責任な言動が横行し、また何でも責任を学校に押しつける親がふえているという中で、教師が失敗をおそれないおおらかな対応をしにくくなっているのは確かですが、教師が陥りやすい落とし穴をしっかり見据えることが大切です。
それは、本来の学校の役割、教師の指導の役割を否定することではなく、本来の教師の指導性を正しく発揮するために不可欠のことだからです。
※(4年後に書いたことと比較するために)
身体的不調を訴える不登校・登校拒否児童生徒を前にして,「頑張って登校しなさい」 「登校してくれなければ何もできない」 という子どもに対する教師の言動や学校の息苦しさに対して教師の人間的感性,感受性がなにゆえ作動しなかったのかということについての説明としては不十分である。
なにより,教師がどのように変わりうるのかということについての見通しを示せなかった。
( 日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』2002年 )
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