子どもの見えない「サイン」は推定しない
「教育における特別なニーズ」という言葉と「特別なニーズ教育」という言葉には、大きな差異が見られる。
前者は、「教育の中にある特別な課題」と受け止められるだろう。
ところが、後者は、「特別な課題がある教育」となる。
すなわち、特別な課題を見出さなければならないということになるのである。
窪島務氏の主たる主張は、よく「子どものサインを見出さなければならない」という論理とよく似ている。
それはその場にいなかったものの言う通常の台詞である。
「では、あなたならそのサインを見いだせたの」
と言えないほど、責任を感じている教師に被せる常套手段だとも言える。
子どもがサインを出すものだと決めつけて、そのサインを見出せないでいた、る、と教師を責め立てる論理とよく似ている。
そこには、子どもたちが、サインを出さない時もあると言うことは、「想定」されていず、そういうことがあっても「想定外だった」と済まされてしまうのである。
発達障害を言いながら
発達とはなにか、があきらかに出来ないで
彼は「教育的ニーズ」ではなく「教育における特別なニーズ」という概念をも使う場合がある。
「その共通の内容は, すべての子どもがそれぞれ固有のニーズをもっていることを前提にして, 通常の教育条件(ある一定の社会的条件における教育に関する条件整備,カリキュラム,教育方法,教師の資質などすべての要因を含む) の下では学習や発達を保障できないほどの大きな学習, 発達の困難を当該の子どもがもっているとき,その子どもは特別な教育的ニーズを有しているという。」
と文章で書いている。
教育における全体と部分を振り分けて歪曲 この理解は正しいのだろうか。
Special Needs in Educationから考えられるのは、「すべての子どもがそれぞれ固有のニーズをもっている」。
しかし、「その子どもたちの中で特別な必要性を持つている子どもを見出し、特別な教育方法をもちいる。」というのが、「ウォーノック委員会報告の答申」であり、その答申にはそれを実現するための条件整備が付加されていないという立場からの反対意見も掲載されていた。
だが、窪島務氏は、子どもたちに全体のニーズを把握して、特別必要とする子どもたちには教育手立てを講じるということが理解できていないのではないか。
もっと解りやすくいうならば、全体と部分を把握して、相互関連を打ち出したイギリスの教育改革から出てきた用語を彼は、部分だけ取り出して強調することに陥っている。
彼は教育現場に極論を持ち込み、混乱と対立を引き起こす教育実践を平然と述べている。
そのため窪島氏は、彼の過去の主張を知らない人々のために自分の過去の研究と「主張」をすべて消し去っている。
特殊教育という用語に
障害児教育という用語を対峙させて使っていたのに
それは、つい最近まで窪島氏が書き、使っていた障害児教育とか障害者教育とかを一切使わなくなっていることにも現れている。
かって文部省が「特殊教育」という用語を使っていた時代、文部省がその名称にそぐわない教育行政を行っていた。
そのため「特殊教育」に対峙する用語として「障害児教育」という用語を窪島氏は、積極的に使っていたのである。
ところが、文部科学省が「特別支援教育」と用語を変更すると彼はいち早くそれに迎合し「特殊教育から特別支援教育」への新時代と絶賛する。
日本の教育は
はたして「今まで見捨てられていた問題」「教育の新時代」
にすすんでいるのだろうか
「新しい課題」「今まで見捨てられていた問題」「教育の新時代」とまで言い切る。
教育は、生涯にわたるがゆえんに、単純に決めつけたり、一時期のひとつの方法で「成果」をおさめたとしても、それを科学的に立証・検討しなければならない。
それが、窪島氏らの研究者としての仕事である。
しかし、かれはそういうことをしないで、特別支援教育を積極的に評価し、その流れに乗って単純な「主張」をする。
悩んでいる人々には、そのほうが受けとめやすいのであるが、それは、研究者としての立場の放棄でもあり、研究者という「権威」を笠に主張する「空洞」な主張でしかない。
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