窪島氏は、
文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定しているが,これらの数字は,日本が障害児に対して「分離的」であるという一般的通念に反して, この国の障害児教育は量的な面ではきわめて「未発達」であること,逆にもっとも素朴で未発達な形態でのインテグレーション,インクルージョンが支配的な国であることを示している。
と書き、「文部科学省は一貫して障害を有する子どもが通常学級に在籍することを否定している。」と断定するが、文部科学省の資料に普通学級に在籍している障害を有する生徒が都道府県別に集約されていることも知らないことはすでに述べた。
さらに文部科学省の研究報告には、障害を有する子どもが通常学級に在籍する教育報告も少なくない。
もしも、彼の言うように文部科学省が障害を有する子どもが普通学級に在籍することを一貫して否定していたとするならば、1960年代半ばから文部省(当時)が取り組んだインテグレーションを彼はどのように説明するのだろうか。
文部科学省の硬直した姿勢を批判するようでいて、現実的には
「ではそれならば、文部科学省は、障害を有する子どもを障害児学校や障害児学級で教育出来る条件整備をしてきたのか。すべての障害児を受け入れる学校や学級をつくってきたのか」
という問題には答えきれないだろう。
なぜなら、文部科学省は障害児学校や障害児学級の設置には、一貫して消極的であった現実がある。
文部科学省は多くの障害児が普通校に在籍していることを黙視してきたのが現実だろう。
彼は、文部科学省の硬直した姿勢を批判しているようで、現実には障害児学校・学級設置に極めて消極的だった文部科学省を、まるで積極的に障害児を受け入れる教育上の条件整備をしてきたかのように「美化」しているのである。
だから、彼の大学のある県で、障害児学校の統廃合がすすめられている現実を直視し、書きもしないのである。
インクルージョンなどの意味を真に知っているのか
続けて窪島氏は、
すなわち,障害を有していたり,その他の特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級にいるということである。この異質集団をあるべき学級として理念化したものが, インクルージョン教育,インクルーシブ学級である。
しかしながらインクルーシブ教育のハイライトは制度問題ではなく,カリキュラム問題,教育課程程問題である。
すなわち,重度の知的障害(「すべて」のという修飾語を冠するかどうかも問題である)を包摂(インクルード)してすべての子どもの学習と発達を保障するカリキュラム教授方法はいかなるものであるのか,またそれは可能であるのか, 実践上の争点となっている。もちろん,そのことが直接に一斉授業の否定につながるものではない。一斉授業が悪であるという評価が一斉授業=画一的であるという誤った観念の上に形成されている疑いがある。
教育制度と教育内容に対する無知識の危険
彼は、ここでも集団の概念を曖昧にしている。
それは、学校内に障害児学級が設置されていた場合には、基礎単位集団として障害児学級を捉えることが出来るし、学校集団を基礎集団として捉えたならば、異質集団とも捉えることが出来る。
それらの基準を何ら明確にすることなく異質集団を論じようとしている。
そればかりか、「インクルーシブ教育のハイライトは制度問題ではなく,カリキュラム問題,教育課程程問題である。」とも書いている。
彼は、日本では教育制度上の問題が、カリキュラム、教育課程と同一線上に置かれて取り扱われていることも知らないのである。
カリキュラムとカリキュラム教授法などの言い方をしているが、言いたいことは教育内容と教育方法なのではないかと考えられる。
日本の教師たちは、学習指導要領の法的拘束性という縛りの中で教育課程を編成せざるを得ない現実に置かれてきた。
だが、その教育課程の下で、創造的な教育実践が行われ、法的拘束性の名の下で科学的教育方法が行われてきたことは承知していないようである。
今日までの教育実践を全面否定する危険な主張
ここで明らかに出来ることは、窪島氏の硬直した思考である。
彼は
1、「障害を有していたり,その他の特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級」で教育を受けてきていたと事実をまったく見ようとしない。
2、「障害を有していたり,その他の特別な教育的ニーズを有する多くの子どもが通常学級」で教育を受けてきていたのは、戦前、戦後に数多く見られるが、その教育保障のほとんどが行政的裏付けなしに教職員の努力によってすすめられてきた。
3、そのため教職員から、子どもたちの教育を保障するためのさまざまな改善・改革提案がなされ、少ない改善・改革を教育行政が受けとめざるを得なかった。
などのことをまったく考えていない。
彼の思考は、ドイツやアメリカやイギリスやユネスコから日本の教育を見る外国輸入教育思考であるとも言えよう。
さらに、その思考は、外国輸入と同様に文部科学省からみた思考形態で一致している。
教師の責任と人権蹂躙を主張することがすべての子どものニーズの配慮に繋がるのか
以下、彼は同様に教育実践が行われている学校現場からの視点は見受けられない。
だからつぎのように断定したことを彼は書いている。
ユネスコのインクルージョン教育の提唱は,単に学校理念の提示にとどまらず,教育方法にまで踏み込んでいることが特徴である。
いかなる一斉授業であってもそれだけでは特別な教育的ニーズを持っている子どもの学習保障には不十分であることが含意されている。
日本の学級は実は異質集団であるにもかかわらず,等質あるいは同質であるという虚構の上に構築された教育実践と教育学によって,質の差を問わない「ちがい」に押し込められてきた。
少なくても,今日の日本の学校が,すべての子どもの「ニーズに応じる」ことができる歴史的段階になく,限られた行財政制度の中で様々な教育施策に優先順位が必要とされる歴史的に制約された社会状況にあって,「特別なニーズ」の強調はさけがたい。
逆に,特別なニーズに対する社会的合意が成立するところで,すべての子どものニーズに対する配慮が広がる可能性がうみだされる。
行政改革の名の下に教育荒廃を引き起こす理屈に符号
窪島氏は、
1、ユネスコは、一斉授業であってもそれだけでは特別な教育的ニーズを持っている子どもの学習保障には不十分であると提唱している。
2、日本の学級は、等質あるいは同質であるという虚構の上に構築された教育実践と教育学によって押し込まれてきた。
3,逆に, 特別なニーズに対する社会的合意が成立するところで, すべての子どものニーズに対する配慮が広がる可能性がうみだされる。
という硬直した思考である。
彼は、質の差を問わない「ちがい」 に押し込められてきた責任を教師に求め、教師の人権蹂躙と断定するのは、このような思考から生み出されている。
彼は、過去の教師の実践的蓄積と成果や教訓を評価する土台のうえに「特別なニーズ」論なるものを書くのではなく、過去の教師の実践的蓄積と成果や教訓を全否定して、自らの主張する「特別なニーズ」を進めることで「すべての子どものニーズ」も配慮されるのだという。
窪島氏の「特別ニーズ」による「一点突破」で子どのたちの配慮がなされるという背景には、それまでの教育実践を否定して新たに作り直すという、破壊と再構築をして新たなものを創造するという考えが見られ、まさにそれは日本政府の「行政改革路線」と符号が一致する。
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