2011年10月25日火曜日

滋賀大学教育学部窪島務氏は、読み書き障害の子どもたちがいるクラスを担任し、学期間を通してかれの主張する方法での授業を公開し、実証すべき


 教育における読み書き問題とするならば日本語の体系の中での位置づけを明確にして論じるのが必須事項であるが、彼はそのことをしないのである。
 いや、出来ないのかもしれない、と思わせる部分が多々ありすぎるためあえて触れておきたい。
 

読めない文章を描く背景

 彼は、

 教師は授業では、しゃべりすぎで、子どもの「深層」を把握しないで、上辺だけの「ことば」だけに対処することがありすぎる。
 その背景には、教師が、子どもを分かってくれない、分かろうとしないという脅迫的不安が潜んでいるかもしれない。だから知能検査とその結果などを学び、子どもを多元的に把握していかなければならないとしゅちょうしているようである。

 教師は、教師の話を聞けなかったり、聞いても数秒後には忘れている子どもや 文字や漢字がどうしても書けない子どもに対しては、短期記億に障害があり、3つの音節までは記憶できるが、それ以上は記億できず勘に頼って行動しているなどということがあるなどのことを充分理解しておかなければならない。
 なぜなら、そういう障害がある子どもは、内心で多くの不安と自信のなさに耐えているからである。そのことを理解せずに、直感が優れている子どもという認識ですまされている場合が多くある。
 さらに、継次的な認知処理プロセスに困難があるため約束が守れなかったり,行動の手順がうまく理解できないなどということが起きることもある。
 こういう子どもを教師は、指導を聞かず、約束を守らず、回りの生徒や人間関係を考えないで行動してトラブルを起こす 「自己中心」である生徒と非難し、生徒指導の対象とされるなどのことは、幾度となく観察され繰り返されている、


と言いたいのだろう。

間違いを間違いと教えることの放棄を容認

 ところが、近年、文部科学省や各教育委員会や学校における特別支援委員会や各種会議では発達障害の生徒をそのように見るのは誤りだ、として発達障害の生徒の問題行動を不問にしたり、暴力行為やそれに類似する行為を容認する傾向が増えて来ていることは把握されていないようである。
 いや、窪島氏は、「それは発達障害だからではない」と強調する。
 どのような状況であっても、間違った行為は十分な配慮をしながらも、間違いは間違いと生徒に諭すことはその生徒のためでもある。
 だが、窪島氏らは、あるがままに、と主張する。


他の生徒への指導と同じ指導をしない「特別指導」

 だが、それでは生徒たちは自らの誤りや行為に気づくことなく、エスカレートし、犯罪行為まで犯してしまう場合がある。
 残念ながら、そういう事態になった時に、保護者から先生が発達障害のことを理解していなかったから子どもをそこまで追い込んだのだ、と非難することは年々増え続けている。
 そのため生徒指導や教科の評価では、発達障害の生徒を他の生徒と違って、「特別扱い」する傾向のが日増しに多くなってきている。
 生徒指導では、どのような生徒でも充分な配慮を前提とするのは当然であるが、窪島氏の事例とはまったく異なった事例が多く見られる。
 生徒指導も教科指導も「発達障害だから」として生徒に対する適切な働きかけを「放棄」する点でどちらも共通点がある。


 すべてとは言わないが窪島氏らの言う「発達障害」の生徒は、他の生徒が進級できないという状況でも「発達障害だから」と単位を認め進級させている少なくない事実を、なぜ、彼が訪問した高校で行われているのに沈黙を守るのであろうか。
教育研究者として教育実践証明は「生命線」

 彼の文章を校正しなければ、日本語の意味が通じなくなり、繰り返し書いてきたが、「主語」「主体」が書かれていないために、読む側に知らせることなく、窪島氏の主観的感情をカタカナや専門用語の一部を使って粉飾しているとしか理解できない。
 窪島氏の文章を読む限りにおいて、彼が授業をすると、生徒は窪島氏の言うことが理解できなくて混乱し、内心で不安が渦巻くだろうと推測出来る。

 教育学は、実践そのものであるとする窪島氏は、読み書き障害の子どもたちがいるクラスを担任し、せめて学期間を通してその典型授業を示してもらうことが、教師が理解できる一番の近道だろう。

 そして、窪島氏が読み書き障害の子どもたちがいるクラスを担任し、学期間を通してかれの主張する典型授業を公開する、それでこそ教育はまさに実践なのだと言える。

 かって北海道大学教育学部は、そのような取り組みをした。

 私は教育を指示する側、あなたは指示通りに実践する側。
 そういう時代は終焉を迎えている。


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