日本教育学会誌『教育学研究第69巻第4号』(2002年12月季刊)で窪島務氏が発表されたものとして、「教育実践学の再構築と しての臨床教育学「特別ニーズ教育」の観点から」という文が、インターネツト上で公開されている。
教育学が無力だったのか 自分が無力だったのか
以下、窪島務氏が、書いている文から、彼の教育についての問題点を簡単に述べたい。
彼は、冒頭の文章で、
「臨床教育学がなぜ提唱されることになったのか」 という設問に対する筆者の結論的な見通しを先に明らかにしておく。それは, とりもなおさず,教育と教育理論の実践性を問うものであるととらえる、としている。
そして、われわれは単なる予算獲得の手法としてだけでなく,真剣に教育現場が求めているものに応えようとして,今まさに,臨床教育学の可能性としてそれが何であったのかを確かめようとしている、とも書いている。
さらに、臨床教育学が論じられること自体,これまでの教育学に対する不信ないし異議申し立ての表明と見るならば,いったいそれはこれまでの教育学のどこに対してなのか, 教育学総体に対する全面否定であるのか, さまざまな議論が可能である。 いずれにしても,不登校・登校拒否,学級崩壊,「キレる」 子どもたちの問題など今日の教育の現実, 子どもの実態に対してこれまでの教育学への無力感,有効への疑念をはらんでいることは疑いない、とまで書いている。
だが、この文以降、彼は、教育現場での実践に対する「教育学への無力感,有効への疑念」を述べるのではなく、論旨を次第に教育学から教師の専門性の欠如へと転化しはじめていく。
文章表現をファジーにするのは自らの自信のなさの表れ
彼の文には、意図的か、読み書きの日本語に習熟していないか、はともかくとして、「主語」が多くの部分で欠落している。
例えば、『いずれにしても,不登校・登校拒否, 学級崩壊,「キレる」 子どもたちの問題など今日の教育の現実,子どもの実態に対してこれまでの教育学への無力感,有効への疑念をはらんでいることは疑いない』の文章を読んでも、誰が無力感、有効性への疑念をはらんでいることは疑いがないのか、不正確な表現であり、文章との脈絡がない。
これは、彼のさまさまな文章(論述・論理がないためこのような表現しか出来ない。)を読んで、推定できるのは、彼自身の教育学が、不登校・登校拒否, 学級崩壊,「キレる」 子どもたちの問題など今日の教育の現実、子どもの実態に対して無力であり、有効性がなかったことを自戒していると窺える。
それは、自己否定に繋がるので彼は「自己保身」に走る。
ある一つだけの文章を読めば、ディレンマの現れと考えることが出来るが、年代別に彼の文章を読みこなすと、「私は、」「私の教育学研究では、」とは書けないというディレンマの現れと理解出来なくなる。
読み手側によって「主語」が
教師・学校・教育行政・文部科学省となるが
窪島氏の文章は、読み手側が、その文章の「主語」を教師として捉えたり、学校であると捉えたり、教育行政であると捉えたり、文部科学省であると捉えたりよく言えば変幻自在の表現になっている。
この主語を「曖昧」にすることは、彼への批判や彼の主張の一貫性のなさを「曖昧」にすることとして書かれたとするならば、窪島務氏の述べている論旨はmaneuver(策略)であるとしか考えられない。
maneuver(策略)でないとするならば、「単なる予算獲得の手法としてだけでなく,真剣に教育現場が求めているものに応えようとして」というかって予算獲得の手段としての教育研究に批判的であった窪島氏が、文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っていることをあまねく公表するはずがない。
現に彼の地元では、特別支援教育の名の下に養護学校の統廃合や高校の統廃合、養護学校に通う子どもたちの通学を保障するスクールバスの切り捨て等々まったくを「異質な存在」として、「特別支援教育」の流れに身を委ねていることは、かっての窪島氏が教授たちと取り組んだり、発表したことを知るものには、信じられない主張であり、行動だろう。
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