2011年10月24日月曜日

かって滋賀大学教育学部窪島務氏は、今の自分の主張を批判していた


財政削減のための日本の現実は、自分の専門外?

 先進国の一部では、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、普通校に入学した障害のある生徒のために約100億円が使われるのである。
 この点では、日本の教育行財政制度とは根本的に異なる。
 日本では、障害児学校1校を廃校にした予算が約100億であるとすれば、約100億円が削減・節約できたとする。
 このようなことを知ると、彼が先進例と出す国々とのインクルージョン教育、インクルーシブを日本に機械的に当てはめられないことは明確であり、機械的に当てはめられることによって障害児教育予算が削減されることは明白である。
 このように書くと窪島氏の常套手段で、それは教育学の分野ではない、と言い逃れをするのであろう。

 もしくは、まったく、触れようともしていないのである。



人権蹂躙や管理主義に見え隠れする「教師権力論」



 教育では、常識である教育形態と教育内容の関係を彼はあえて切り離して述べる。
 それは、以下のことを書いていることからも解る。


 「特別ニーズ教育」を有する子どもを含むすべての子どもの内面的ニーズや自我の充実に基づく学習と発達の援助的指導を実現することがなければ,少人数学級はまだマシどころか,多人数ゆえの管理の目こぼしさえなくなり,硬軟両面の管理主義をいままでの多人数学級以上に格段に強める危険をはらむという点である。この管理主義は,事実関係としてのシステム的なもので,個々の教師の主観から独立して作動する。

 すなわち、彼は特別ニーズを有する子どもからすれば、小人数学級になると管理主義がさらに強まり、多人数であるが所以に管理されなかった特別ニーズを有する子どもたちの「目こぼしさえなくなる」とするのである。
 彼は、大人数学級のほうが、特別ニーズの子どもたちが、「見のがされ」ていいと言いたいらしい。 




窪島氏の主張に従う以外に
               教育は出来ないのか



 さらに、窪島氏は、

少人数学級が実現されれば,「丁寧な指導ができる」と表現されるその「丁寧さ」 の中に潜む危険性である。
 この「丁寧さ」は,子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定しないならば,子どもだけでなく,教師をも息苦しくさせる。


とまで言い切る。
 それなら、先にあげた彼の国民的課題としての発達障害問題-読み書き障害など学習障害を中心に-( 医学評論 2010年7月 注:欧米の例を絶えずあげる窪島務氏・久保田璨子氏が、ここでなぜ日本在住者を含まないで国籍を有する国民と限定して他民族、多言語を排除するナショナリズムのテーマを出しているのか大いに疑問であるが。)で、


 担任教師は「お母さん、気にしすぎです」という態度を人権蹂躙とまで決めつけるのであろうか。
 担任が、「目こぼし」しているからそれでいい、ていねいな指導に潜む危険性がないからいい、となぜ書かないのだろうか。

 これでは、不確実性の中の確実性としての窪島氏の主張に従うことが、「子どもの内面,自我,発達的矛盾,信頼などの媒介項を意図して教育的かかわりの中に措定」すると言っているしかとりようがない。

実践から距離を置いていた、と言って教育実践を批判する敗北主義

窪島氏は、

 筆者は, 80年代の教育学は決して生産的とは言えない教育学の概念の再検討に向かったととらえている。その一つの特徴は,教育実践から距離を置くという傾向であった。それを,かつて「教育学の危機」と表現したことがある。その背景に,子どもの変化とそれに対応し得ない学校教育へのいらだち,絶望が教育学研究者の中にもあったように思われる。

と彼の教育学が実践から距離を置いていた。
 もっとあからさまに言えば彼自身の教育学なるものが教育実践と乖離していたということだろう。
 にもかかわらず教育学実践を批判するのは理解の範囲を超える。
 事実、彼が取り組んできた障害障害児教育に対する研究は、教師にあまり受け入れられることはなかったし、批判も多かった。

 もともと、彼は障害児教育実践から距離を置いていたのであって、最近、胸裏を置いたわけではない。
 彼は、そのことを素直に認めようとはしないし、批判を迂回したことに対する批判は数多くある。

 しかし、彼は、そこからの脱却を「発達障害」という「新しい用語」に飛びつくことで自らの活路を見出したということが彼の本音であるようである。
 それなら、そのように書けばいいのである。




40人を越える学級人数をそのままにしてという
国際的文書や具体例はない、と言っていたはずだが



 このことについて、ここでくどくど書くよりかって窪島氏が書いていたことを引用するだけで充分だろう。

教育的統合における「在籍」の問題

 社会生活イコール学校教育ではないのであるから、教育的統合が固有の性格をもつことは当然のことである。
 にもかかわらず、障害児教育ではこの「あたりまえ」のことが看過されて、地域では子どもも大人も老人もいろいろな人びとがいっしょにともに生活しているのがあたりまえなのだから、学校教育でも、障害のどんな重度の子も健常児もともに学ぶことがあたりまえであるという短絡した議論がすべての障害児を普通学級に在籍させるべきであるということの論拠としていとも粗雑に出されている。
 もう一つその有力な論拠としてもち出されてくるのが国際的動向とやらである。
 ところが主要な国際的動向を概括してみると、教育的統合と社会的統合を混同することやすべての障害児を普通学級へなどという暴論を唱え、障害児教育の意義を否定する傾向が、根本のところで国際的動向に反していたり誤っていることが明らかになる。
 まず次のような問いからはじめるのがよいだろう。
 「すべての障害児を校区の普通学級に在籍させねぼならない」
と主張する者は誰でもよいが、障害児にたいする医療や教育やリハビリテーシヨンの必要性を否定し、40人を越える学級人数をそのままにして「ともかく普通学級に在籍させることが第一義的に重要である」ことを論証してくれるような国際的文書や具体例を提出してみたまえ、と。



イタリアは20人以下の学級でなければならないと



 もっともラディカルなイタリアでさえ障害児を受け入れる学級は20人以下でなければならないという条件をはじめ、多くの条件づくりをその要件としている。
 わが国の場合、「在籍」こそが問題となっていることに注目する必要がある。
 1983年1月の日教組教研集会の障害児教育分科会で、ある県のレポーターは「どう教育するかでなく、どこにいるかが重要なのだ」と主張した。


 学習の可能性と教育的指導の否定、「在籍すること」の第一義的主張は諸外国の議論ではあまりおめにかかることのないものである。

 この文章は、かって窪島氏自身が書いた文章なのである。 


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