特別支援教育指導として普通校に来る教師の少なくない実態は
ある普通校へ特別委支援としてやってきた障害児学校の教師が、アスペルガーの生徒の指導について詳細に提示し、その指導を教師に求めた。
自分が実践していないから言える「特別支援教育」
教師たちの中では
「そこまでの取り組みは、とても無理だ。」
という呟きが広ろがったが、管理職の厳しい眼差しの前で何も言えないでいた。
その時、ひとりの教師が、
「先生の詳細な指導についてのはなしがありましたが、先生のその生徒たちへの実践の取り組みを話していただけませんか。」
と問いかけた。
すると、
「私の学校にはそのような生徒はいません。」
「だから、私はそのような実践をしていません。」
と答えが返って来た。
そこで、質問した教師は、
「では、先生のおっしゃったアスペルガーの生徒の指導については、何を根拠にしていっておられるのですか。」
と尋ねると
「本に書いてありました。」
との返事が返ってきた。
そこでさらに、質問しようとすると、周りの教師から
「もういいでは」
「どっちみち、やれるはずないこと言っているのやから」
「出来ないとわかって,来たというアリバイづくりで点数稼いでいるのだから。」
と多くの教師が引き留めた。
その質問した教師は、特別支援教育としてやってきた教師の障害児学校に長く勤めていて、子どもたちのことは充分知っていたが、管理職も特別支援教育指導にきた教師も、そのことすら知らなかったのである。
「形だけ」の「おざなり」の特別支援教育でも
取り組んだことになるからと管理職
「形だけ」の「おざなり」の特別支援教育でも、取り組んだという「こと」だけでいいのだ、と普通校の管理職が質問した教師に言い放ったのである。
これらの事例は、数え切れない程ある。
上から言われるから、ともかく校内研修をやらなければ……となって生徒たちのことを考えているようで、生徒たちを脇にやることがすすめられている。
混乱というほどの抜き差しならない状態に陥っている
さらに西信高氏は、次のことをも指摘している。
また別の例を挙げるならば、適正就学に関連しても、障害の「診断」は医師がするものであり教員は関わらないとする考えも根強いものがある。
医学的診断は、言うまでもなく医師が行う。
しかし、ADHDやLDと診断された子どもで、心臓病や腎臓病その他の重篤な内部疾患の場合のように、医師からその病院に「入院」するように言い渡された子どもは果たして何人いるのか。
まさに各方面の専門家との連携のもとで、乳幼児期から学校教育修了後までを見通した中でのそれぞれの時点でのきめ細かな「教育的」診断が、日々の実践に不可欠なものとして強く求められているのである。
「特別支援教育」は、混乱というほどの抜き差しならない状態に陥っているのではないが、いまここに挙げた例に限らずなお多くの問題をその内部にはらみながら進行している状況にある。
説得力のない なぜ今、「特別支援教育」か
そして西信高氏は、『今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)』(2003年3月答申)などを分析・検討して以下のことを指摘する。
この「概要」では、「特殊教育」を「障害の程度等に応じ特別の場で指導を行う」というように、教育の場、つまり物理的空間に着目して定義している。
しかしながら、「特別支援教育」については、そのような「場」は問題にせず、「障害のある児童生徒一人一人の教育的ニーズに応じて適切な教育的支援を行う」こととされる。
論理的整合性は図られていない。
実際、子どものニーズに応じて「特別の場」すなわち障害児のための学校が必要となる場合もあるのであり、それゆえに特別支援学校として存続させるのである。
この報告の本論をみると、なぜ「特別支援教育」かといえば、対象の拡大、教育の場の多様化、教育目的としての「自立」の強調、地方分権化のもとでの教育委員会の役割の変化、これらが従来の「特殊教育」では包含できない内容として現れているため、と解釈できる。
しかし、これとてもやはり説得力には欠けると言わざるを得ない。
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