ここで、「27年余前の主張と最近の主張のあまりにも大きな落差はどこから…」の項で引用した彼自身の書いた文章を再録する。
「これまでのように自己の狭く限定された分野での専門性でなく、他分野との結合を進める力量をも専門性の中身と考えることは重要である。そこには当然社会科学的認識と洞察の力量が含まれるであろろう。」
(障害児教育妨害者の「理論」批判 完全参加を目指す教育 全障研出版 1983年8月1日)
とはまったく異なった主張として立ち現れている。
教育行政の責任ではなく
教師が責任が持てないことに責任をもとめる
教師の二重性は,部分的に役割分担として分離され異なる人格に担われることが必要である。
たとえば,学校の中に子どもが安心して自分の時間を持ち,休息や緊張を解くことができる空間を用意すること,そこで子どもを見守り,時に話し相手になる大人を配置すること (この大人は,小中学校において臨床心理士や学校心理士などである必要はないが, 学校と子どもの発達および学習と行動の両面をよく知っている人でなければならない)、 この空間と大人は,教職員全体の共通認識の下で,学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。
さらには, 学校の周辺に必要な時に直ちにコンサルテーションを受けることができる医療や心理及び教育学の専門家とのネットワークを形成しておくことなどである。
学校教育はその役割が縮小するどころか、子どもの人格発達を保障する社会的機関としてますますその役割が大きくなっていく。
と窪島氏は断定するのである。
欧米ではNOと言われる窪島氏の主張
ここには彼が好んで使う「欧米では、」という言葉はまったく打ち消されている。
回りくどくなるので、先に書いておく。
窪島氏の主張は、欧米ではNOと言われる。
欧米の多くの国々では、教師の仕事(労働)は、教育であり、それ以外の仕事(労働)は、他の領域の人々の仕事(労働)である、と明確にされている。
日本の学校教育法もそうであるが。
ところが、窪島氏は、日本の教師の仕事(労働)として権限が与えられていない、「子どもが安心して自分の時間」を持ち、「休息や緊張を解くことができる空間」を用意する、 そこで子どもを見守り 時に「話し相手になる大人を配置すること」そして、「それを学校教育の一部として学校全体の中に位置づいていなければならない。」とまで言い切るのである。
彼が、日本の教育制度を充分知った上で書いているのなら、この教師の二重性なるものは、子どもの問題の責任をすべて教師に求める考え以外のなにものでもない。
特別な理論でもなく使い古された理屈でしかない。
そして、国や行政・教育行政等々の責任を完璧までに免罪している。
各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限の下で、働かされている教師に、各都道府県や教育委員会や校長などの管理職などが持っている権限を持ってやるべきだ、とするのが窪島氏の考えである。
ようは、何もかも含めて教師がやりなさい、それまでの教師の仕事と決めていないで、さらにもう一つ権限のない仕事と仕事として考えることが、子どもの教育なのだ、と。
このようなことを平然と書くのなら、窪島氏は、過去に自己が書き、述べて来たことをどのように考えているのかを、まず精算し、説明し、自己批判をすべきだろう。
窪島氏の教師の過重となるものは、彼が例としてあげている国々では、すべて否定されている。まったく通用しない。
教師は、教育に専念し、子どものことに関わる教育以外の領域はそれぞれの専門職が対応するなどの基本を、窪島氏は充分承知しているはずであるにもかかわらず、あえて、日本で、教師の過重を言う。
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