窪島らは、子どもたちが「字が書けていない」と断定している。
これは、窪島氏らの指導を受けている子どもたちや子どもたちの親や彼の書いた文章を読んでいる人々への窪島氏の本音であると考えざるを得ないだろう。
子どもたちが、
「字が書けない。」
ということと、
「字を書いているけれど国語の字と違う字でとなっている。」
窪島氏の言葉で言えば、「エラー」「ミス」などとまったく意味合いがことなる。
また、子どもたちの状況についての「事実」とまったく異なることになる。
「ぼくは、字を書いているけど、さぼってなんかいない」
「ぼくは、字を書いているけれど、まちがって書いているのかなあ でもさぼってなんかいないよ」
などなどの本の表題にしてはいないのである。
読み書き障害の子どもたちは、「書けてない」。
これが、窪島氏の本意である。
こんなひどいことが、あっていいのだろうか。
私の子どもを壊さないでください。
先生、もっとLDのことを理解してください。
どうしよう?
学校の理解の遅れに追い詰められて。
等々の親の気持ちに対して、理解するようで、応えるようで、こころの底では、それらに応えていなことを告白しているのである。
「本当のことを言えば書けてないが、努力すれば何とかなるだろう」
などの考えかもしれないが。
なぜ 読み書き障害の原因や
問題解決の具体的科学的方途を一切示さないのか
なぜなら、窪島氏は、読み書き障害の原因や問題解決の具体的科学的方途を一切示さず、ただ現状の自己統計に終始している事を見ても明らかである。
これらのことは教育学研究者、大学教授と言うよりも人間として許されることだろうか。
教育学研究者、大学教授と言われる人のすることであるとは信じがたいが、以上の事は平然となされている。
親や子どもたちのねがいを否定
「本の題名」は、「本の中味を表してつけられる」のが普通である。
窪島氏は充分そのことを知っている。
それにも関わらす「本の中味を表してつけられる」ことなく、逆に本の中味を否定するかのような本の題名をつける。
僕は書けてない、と。
滋賀大キッズカレッジの指導法(SKCメソッド)を「安心と自尊心」としながら、窪島氏は、子どもたちの「安心と自尊心」を完全に否定して「不安と自己不信」を社会的に公表している。
読み書き障害の子どもは、書けないのだ、と。
この本の題名は、誤植でないが故に残念すぎる。
読み書き障害の子どもは、書けないのだ、と断定されている。
彼らの自己と努力が全否定されている。
研究者としてより人間性が問われる
窪島氏は、編集代表としてこのような表題を付けたことを今だ何ら恥じてはいないし、研究者として事実に基づくことから研究をするという常識を「非常識」なものにしているのである。
それが証拠に、この本の題名は改題することなく出されている。
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