滋賀大学教育学部窪島務氏の問題点を書いたブログの冒頭部門で次のことを書いた。
主語を「曖昧」にすることは、彼への批判や彼の主張の一貫性のなさを「曖昧」にすることとして書かれたとするならば、窪島務氏の述べている論旨はmaneuver(策略)であるとしか考えられない。
maneuverでないとするならば、「単なる予算獲得の手法としてだけでなく,真剣に教育現場が求めているものに応えようとして」という予算獲得の手段に批判的であった彼が、文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っていることをあまねく公表するはずがない。
福井達雨氏(止揚学園理事長)批判と現在の滋賀県
彼はかって、障害者教育科学(発行 京教組障害児教育部) 第3号(1981年)「福井達雨氏(止揚学園理事長)の虚像と実像 ─この唯我独尊的・反民主主義行動と思想の批判─ 」で、
止揚学園の職員たちが最も「敵視」し、罵詈雑言を浴びせかけた養護学校も「統廃合」されてしまって存在しなくなっている。
窪島氏の大学がある滋賀県での出来事である。
だが、30年の月日の経過があることで黙殺している。
障害者教育科学(発行 京教組障害児教育部) 第3号(1981年)「福井達雨氏(止揚学園理事長)の虚像と実像 ─この唯我独尊的・反民主主義行動と思想の批判─ 」を書いた当時と現在の考えがまったく異なったからであろうか。
約40年間にわたる窪島氏の書いた文章を通読するとそのことが良くわかる。
子どもたちや教育は「物」でない
問題なのは、彼自身が自らの考えが「変遷」したことを明らかにしない事にあるのではない。
彼が意図的に、
文部科学省などが打ち出した障害児学校の統廃合をすすめ予算削減のために意図的に出してきた「特別支援教育」を歓迎し、極めて政治的な判断の下で打ち出したいわゆる「発達障害の概念」を評価し、それを裏打ちする研究なるものを旺盛に行っている。
この特徴は、長く彼と交流・意見交換してきた障害児教育実践をすすめていたベテランの教師や共同研究者に知らせることも討論することもなく、経過をまったく知らない研究者や保護者や教師や市民に広めていることである。
それは、窪島氏の弱点を新たな装飾で凝らし、新しい教育、今まで取り組まれていなかった子どもたちの教育などなどという主張を急激に広げていることである。
スクラップ・アンド・ビルド(破壊と)創造?)
窪島氏の手法は、スクラップ・アンド・ビルにあるが、教育や子どもたちは物ではない。
「壊して」「作る」ことは出来ない。その点で、窪島氏の行為は教育や子どもや教師に重大な「損傷」を与えるとも言える。
だからこそ放置できないのである。
レッドカードが出されている、「書けない」子どもたちと断定する根本的誤り
その典型が、読み書き障害の子どもたちを「書けない」子どもたち、と断定している事から見ても明らかである。
窪島氏は自らレッドカードを出しながら、教育界に出場している。
彼が、読み書き困難、読み書き障害という表現を使い、「思考と言語」とか「教育と言語」などの言語やコミュケーション、はなしことばとかきことば、という従来彼が使っていた用語を使わなくなった。
教育委員会が歓迎するわけ
読み・書き、と分解して、書きを問題にして、「書き」すなわち「文字の分解」をする手法を極限まで強調していることは、学習指導要領の意図にも合致し、少なくない教育委員会から歓迎されている理由である。
それは、窪島氏の主観的意図とは別にして、政財界の求める「合校論」に呑み込まれているからである。
「合校論」に「教育とは一つの統治行為」
「警察や司法機関などに許された権能に近いものを備えそれを補完する機能を持つ」
としているのに
すでに述べた「合校論」には、
ところで、広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。
第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。
国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。
共通の言葉や文字に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。
また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。
合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。
そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。
義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。
国家統制として
「共通の言葉や文字」「最低限度の計算能力」が必要に迎合か
国家統制としての教育にとって、「共通の言葉や文字」「最低限度の計算能力」が必要であり、そのためには、「教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つ」ようにし、義務教育では、「納税や遵法の義務」とともに「国民が一定の認識能力を身につける義務」が必要であるとしている。
国家統制をすすめるうえで、読み書き困難は、「共通の言葉や文字」を持たないことになるため、それに取り組んでいる窪島氏は注目されることになるのである。
読み書きを通して子どもたちの発達の様子が「書けない」わけ
彼の「読み書き困難」「読み書き障害」のとりあげ方には、教育目標が一切書かれていない。
また、読み書きを通して子どもたちの発達の様子も書かれていない。
誰のための、何のためのなどはもちろん、「主語」を抜いて「読み書き困難」「読み書き障害」と「異質な方法」だけを主張しているので、どうにでも利用される。
しかも、彼の主張は、国家統制下(学習指導要領等)の「読み」と「書き」を基準に「困難」「障害」としているため、さらに歓迎されるようになっている。
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