2013年7月16日火曜日

後輩が寄せた次の手記を読めば それは今も昔も変らない




教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

  われわれは、今の時点で歴史的、社会的に見たこの問題の本質や意義が十分客観的に正しく把えられるとは思わない。
 それはいずれわれわれの今後の努力や、この社会のほんとうの民主化を目指す国民運動の発展によって当時われわれが提起した課題や取組みのあり方が、歴史の発展の法則にかなっていたかどうかを正しく評価され位置づけられるものと思う。


 「授業拒否」の冊子の「はじめに」に書かれたこの部分は、何度読み返しても格調高く、謙虚に書かれている。
 だが、今日に至っても、「歴史の発展の法則にかなっていたかどうかを正しく評価され位置づけられるもの」という提起への評価や意見はほとんど書かれていないで紹介程度に留まっている。

 引きつづき「はじめに」の文章を紹介したい。


  理屈ぬきでそう直感した  「これは教育の基本問題だ。」

 このような時にあの事件が起った。
 子供を聾学校へ通わせている一会員から伝えられた。
 生徒の配布したビラも資料として出された。


 「これは教育の基本問題だ。」

 われわれは自分たちの経験から理屈ぬきでそう直感した。

 しかし、われわれが今行き当っている問題とのつながりは正直にいってまだ意識の表面にのぼっていなかった。

  われわれの未経験  後輩(生徒)たちの問題の出し方

 当惑した……というのがむしろその時のわれわれの受けとめ方だった。

 われわれの当面の関心から外れた教育の場でおこった問題だった。

 われわれ自身、10周年記念式典をめぐる山積する仕事の処理をかかえていた。 しかし、われわれを神経質にしたのは、後輩(生徒)たちの問題の出し方と、教育上の問題の取扱いに関するわれわれの未経験だった。

 後輩たちのビラの内容は生徒なりの素朴な形で教育上の基本問題を提起していた。

 しかし行きがかり上やむを得なかったとはいえ、取扱いをむずかしくする個人批判も含んでいた。

 一方、われわれの中には、われわれの大部分を教育してくれた京都府立聾学校、ひいてはろう教育一般に対する抜きがたい不信感、不満が常に暗く渦巻いている。

 われわれを直接的にそうさせたものは何か、
 後輩が寄せた次の手記を読めば、それは今も昔も変らない。

 
 このことをわれわれははっきりと感じる。

 誰からもかわいがられる聾唖者にするためがんばる

 前略ー僕が高等部へ入学した時だった。

 ランプがついて授業がはじまる。先生が来た。
 話をはじめた。

「私は私の教育の信条に従い、皆さんを誰からもかわいがられる聾唖者にするためがんばるつもりです。

 皆さんはこれまでのようにむやみに文句を言ったり、反抗してはなりません。 そんなことをすれば人様から嫌われます。
 耳が聞えないならば聞えないなりに、うまく生きる方法を考えなくてはなりません。」


 ベルの音。
 別の先生がやって来た。


  耳が不自由なのだから 
       数学、国語などを学ぶのに無理がある

「職業科の勉強は他の教科よりも特に大切だと思うから、そのつもりでいてもらいたい。
 数学、国語も結構だが、耳が不自由なのだから、それを学ぶにも無理がある。 その点技術の習得にはげめば、聾であっても立派に生きていける。
 
 嘘だと思えば君達の先輩をみるがよい。
 
 聾唖者は生きるためにガマンすることが大切だ」


 ずいぶんいろいろなことをしゃべる先生達。

 僕を含めた全員、もっともだといわぬばかりの顔つきで熱心にきいている。

 無邪気な表情。

  聾学校の職業科偏重の教育は僕達に対する差別教育の一つ

 そして、一年生の時はすべて先生のおっしゃる通りに過ぎていった。ー中略-

 僕は今、聾学校の職業科偏重の教育は僕達に対する差別教育の一つであったことを知った。

 そして僕は、職業科偏重教育のみならず、現在の聾学校における教育が、僕達の将来とは全く切りはなされたもの、役に立たないものであることを知っている。

 ……しかし、僕達よりも一足早く社会へ出ていった多くの先輩の中には、毎日毎日、技術という観念に束縛され、朝から晩までわき目もふらず仕事をしている人がいる。

 社会の進歩、発展、歴史の流れにとり残され、社会全体から忘れられた存在となって細細と暮している人達がいる。

  聾唖者をこんな現実に対決していけないほど
                                                   無力にしたのは誰

 自分達の受けている差別にも、おかされている権利にも気がつかず、その日その日をせいいっぱいに生きればそれでよいと思っている人がいる。

 先生のおっしやることに対して批判する力ももてず、ただ盲目的に従っている人がいる。

 僕らの友達はこれでいいのか。

 聾唖者の不幸とはこれらの現実ではないのか。

 一体僕を含めた聾唖者をこんな現実に対決していけないほど無力にしたのは誰なのか-後略-

 この手記は後半で問題をかなり整理して提起している。

 しかし、後輩だけでなく、当のわれわれの中にも暗く渦巻いているろう教育に対する不信感、不満ーは、ほとんどすべての会員がくぐりぬけてきた、前半の部分に象徴されるろう教育の現状から生まれてくるのではないか。

  不信感・不満は
   ろう学校の教育に対して寄せる切々たる願望の裏返し

 しかし、われわれ自身にも問題がなかったか。

 この不信感・不満-は、かつてろう学校で不十分な教育しか受けず、社会へ出てもさまざまな悪条件、差別の中でおしひしげられているわれわれが、人なみの平和でしあわせな生活を願い、教育に対して寄せる切々たる願望の裏返しではないか。







 

                                                      ( つづく )

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