教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー
日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(19)
高校三原則の小学区制を崩すのか、それとも維持して聴覚障害児を受け入れる高校制度をつくるのか京都府教育委員会で検討をはじめた。
同時に京都府教育委員会は京都市教育委員会に京都市立高校に聴覚障害を受け入れるように働きかけたが、京都市教育委員会は梨の礫だった。
「特別具申」制度を活用することが出来る
京都府教育委員会は、高校入試の諸制度を調べた結果、G項という部分があることに着目した。
すなわち他府県や京都府下で高校入試をうける場合、4月には転居して現在の居住地に住んでいない場合、高校に行けなくなる。
その場合は、転居する証明があれば、他府県や京都の学区外からでも転居先の高校を受験できるという項目であった。
そのことに着目して聴覚障害があり、聴覚障害の保障がある教育制度の高校に受験できるという「特別具申」制度を活用することが出来るというものであった。
それで、小学区制を残したまま受験できると言うことになった。
ところが、そこでまた新しい問題が生じてきた。
合格ラインと居住区の学校
京都市内の高校入試の合格点は、京都府下の合格点より高かった。その場合、京都府下で合格できても特別事情具申を出して京都市内で不合格となる。
ところが、特別事情具申を出さなかったら自分の居住区の高校は合格出来るというケースが出てくることが充分予測された。
そこで、京都府教育委員会は、特別事情具申を出して京都市内で不合格であっても居住区の高校で合格ラインに達していたら居住区の学校で合格するようにした。
非常にややこしいことを書いて高校入試制度を知らない人々には、解りにくいと思わられるかもしれないが、このことがあとあと生徒たちの自身に繋がることになる。
高校教育保障の最前線だった定時制
さらに、それでも不合格の場合は、定時制の二次試験を受けてもらうということも打ち出した。
京都市内の夜間定時制は、一次試験ではすべて定員割れで3月下旬の二次試験が行われていて少なくない学校では、二次試験でも定員割れをおこしていたからである。
このことは、1960年代に高校入学を希望する生徒が全員高校に入学することが出来るようにという「高校全員入学運動(全入運動)」が全国的に盛んであって、京都でも多くの個人や団体が京都府・京都府教育委員会に申し入れ議会請願がなされ、採択されていたことと大きく関係していた。
最悪、定時制に行かなければならないことに激しい抵抗
この時、蜷川知事は、
「一五の春は泣かせない」
と言い、高校増設を積極的に行っていた。
一方、難聴児親の会では、最悪、定時制に行かなければならないことに激しい抵抗があった。
全日制は、3年間。定時制は4年間であったからである。
難聴児親の会は、定時制が4年間ということに少なくない誤解があった。
定時制は、全日制と同じ教科・内容を学のだっが、夜間(京都府下には昼間もあった)という条件のため開講講座が制限される。
そのため全日制と同じ卒業単位を同一の教育内容にするためには、4年かかった。
卒業証書には、○○高校卒業と書かれていても、全日制課程とか定時制課程とかは一切書かれていなかった。
親の中には、夜の通学、それも一年も多いという抵抗もあったが、時間をかけて学ぶことや働いている生徒と一緒に学ぶことで自分の子どもが影響を受けることを歓迎すべきだという意見も出ていた。
「どこかの高校だろう」と思っていたが
山城高校への打診で山城高校の教職員はびっく
結果的に京都府教育委員会は、京都府広報に「聴覚障害生徒の高校入学選抜とその受験方法を発表」。
京都府議会で公立高校での難聴学級問題についての再質問がなされ、京都府教育委員会・知事は。1971(昭和46)年4月受け入れ開始を京都府議会で答弁。
京都府教育委員会は、「聴覚障害児の後期中等教育保障の構想と方針」を明らかにした。
そして、京都府立山城高校に聴覚障害生徒の受け入れを打診した。
この段階では、京都府立の高校の教職員の間では、
「どこか高校だろう」
と思っていたが、山城高校への打診で山城高校の教職員はびっくりしてしまい、激しいやりとりがはじまるのである。
現在の京都府立高校では、高校の編成や統廃合は校長も知らされていなということがあるが、当時はそうではなかった。
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