2012年7月10日火曜日

京都府教育委員会に これでもか これでもか と 山のような質問 ありとあらゆる意見


教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(19)

  1970年を前後して、京都府教育委員会は教育制度を変えたりする場合は、該当学校の教職員のはもちろん、広く府立学校の教職員の意見を聞き、教育行政として疑問や質問に応えるように努めていた。
 ベストであったとは言えないが、現在の京都府教育委員会のやり方と比べると雲泥の差があった。

     府教委の人事異動は 広く行われていたため

 すでに、京都府立学校では、すでに少なくない聴覚障害児は入学し、卒業もしていた。
   また、私学でも同様のことも多くあった、と書いたが、他の障害児のほとんども同様であった。

 でも、入学時に問題になるが、入学して卒業すると障害児が入学していたことは忘れられる。

    3年間という月日は、長いようで短い。
 山城高校で聴覚障害児を受け入れる教育制度を京都府教育委員会が提案したときは、府議会の関係もあり極めて短期間の結論が教職員にもとめられた。
 その時、少なくない教職員はすでに京都府立高校で障害生徒を教え、卒業させた経験があることを発言した。
 また、京都府立養護学校の人事異動は、他府県のように障害児学校別枠採用試験方式をとらなかったため障害児学校在籍経験のある教職員は少なくなかった。
 人事交流は、自由に行われていたからである。


  他にも高校があるではないか  ろう学校にどうしていかないのか

 ところが繰り返し述べるが、聴覚障害児を制度として受け入れるとなると大きく意見が割れた。反対意見のほうが多かったが……。
 そこで、出された主な意見を書くと次のようなことであった。

「なぜ、山城高校なのか。他にも高校があるではないか。」
「ろう学校にどうしていかないのか。ろう学校は、そのような子どもたちの学校ではないのか。」
「ろう学校と山城高校ではどこがどのように違うのか」
「京都市の中学校の難聴学級を卒業したら、京都市教育委員会が京都市立高校に難聴学級をつくればいい。なぜ、府立高校なのか。」
「受験する生徒の聞こえの程度は、どの程度なのか。」
「授業は、特別方法をしなければならないのか。それとも今まで通りの方法でいいのか。」
「実験などの危険をともなう場合、どのようにしたらいいのか」
「保護者の理解が得られているのか。」
「生徒たちが、聴覚障害の生徒をいじめないか心配である。」
「グラブは、どのようなクラブでも受け入れるのか」
「問題が生じた時、校長や京都府教育委員会が責任を持つのか」
「私たちは、普通高校の教育の仕事を命じられたのであって、障害児教育をするように命じられたわけではない。」
「受け入れにあたって、人ものをきちんと準備し万全の体制を組むのか。」


   京都府教育委員会
 山のような質問を浴びせられ徹夜の連続で資料を作成

 ありとあらゆる意見が出された。
 それに対して、校長・京都府教育委員会は資料を作成し、ひとつひとつ答えた。

 2011年秋。
 当時、指導主事で山城高校に京都府教育委員会指導部長とともに説明に行ったF元指導主事に当時のことを聞く機会があった。

 F元指導主事は、
 「これでもか、これでもか、山のような質問を浴びせられ、徹夜の連続で資料をつくらなければならなかった。」
 「障害児教育・障害児学校とのあまりの違い。その認識の違いをひとつひとつ  埋めていかなければならないようで、非常に苦しい思いだった。」
 「特に京都府教育委員会に対する責任追及は、すさましく、そこまで言われるのか、という苛立ちもしばしばあるほどだった。」


と話されていた。


  京都府高身障部
  討議資料を作成 府立学校教職員の中で討論をすすめる

 山城高校の教職員の疑問に答えて、当時盲学校・ろう学校・養護学校の組合員でつくる京都府高身障部(当時の名称、その後すぐ障害児教育部へと発展する)も、京都の障害児教育の現状と普通学校での障害児の学習状況、そして山城高校が聴覚障害児を受け入れた教育制度をつくる討議資料を作成し、府立学校教職員に配布し、討論をすすめていった。 

 結果的に1971年京都府立山城高校は、聴覚障害生徒の受け入れを決定。
 山城高校聴覚障害生徒受け入れ検討委員会が発足する。          


 

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