2012年7月20日金曜日

初めと終わりだけではなく 初めから終わりまでの狭間をしる教育


 教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(27)

              「カッコよく」と「カッコ悪い」の狭間の理解

  E君をはじめ多くの聴覚障害生徒は、

 「補聴器やヘッドホーンをつけることはカッコ悪い」

という考えを持っていた。
 当時の状況を考えると、ひとりの人間として他の人々と同じように、何の気がねもなく日常生活を送りたいという気持を有するのは、当然だった。
 が、しかし、そのことは、現在ある障害を否定したうえから生じることがしばしばあった。

 「カッコよく」ということは、他の「カヅコ悪い」ことに対する優越につながりやすく、反対に「カッコ良い」人との関係では障害を持つ自己に対する卑下にもつながり、

「自分さえなんとかがまんしていけば」

とか

「やっても無意味だ」

「自分は、普通高校に試験で入学できた。他の聴覚障害の高校生と違う」

という自己肯定と自己拒否にしばしばつながった。

 その「あいだ」はなかったのである。

 「先生、カッコ悪いのや」   「じゃあ、なぜカッコ悪いの?」

 現在の社会の状況を見ると、ヘッドホーンをつけるとか、補聴器をつけるとか、が逆転してしまっているようにみえる。
 ウオークマンからはじまった音楽機器の広がりは、健聴者があたりまえのようにつけ、逆に高性能で小型化した補聴器をつけている聴覚障害児者は、
「見てもわからない」
「話しても気が付かない」
ように見える。
 だが、その内面は、1970年代と同じように思える。

 教師が、

 「なぜ補聴器を使わないのか?」

と問いかけると

「先生、カッコ悪いのや」

と聴覚障害生徒は言う。

「じゃあ、なぜカッコ悪いの?」

と質問しても、いつも返事はなかった。聴覚障害生徒みんながだまってしまうだけだった。

 E君は肢体不自由であるため、母校の養護学校へよく行くこともあり、

「M養護学校へ行けぼ、車イスに乗った生徒や松葉づえをついた生徒がいるが、
その生徒に会ったとき君は、カッコ悪いな……。おれの方がカッコ良いそと考えるの」


とあえて話しかけた。

 これらのことは、聴覚障害生徒に十分な配慮と状況把握をして指導した。
 絶対に、無理強いしなかったし、そのことだけで生徒を突き止めると言うことを一切しなかった。
 しかし、聴覚障害教育担当者には、切羽詰まった思いがあった。


       補聴器も、ヘッドホーンをつけないでなぜ授業が出来るのか

 聴覚障害生徒の受け入れを絶対反対している教師から、「補聴器も、ヘッドホーンをつけないでなぜ授業が出来るのか。通常の方法でいいという約束であったはずだ。」と日常的に追求されていたからである。
 それらの先生は、現状をいくらていねいに説明してもぜんぜん受けつけなかった。

 そればかりか京都府教育委員会が言ったことなのに聴覚障害教育担当に文句を言う。
 京都府教育委員会には言えないため、腹いせに聴覚障害教育担当者にジクジクと言い続けていた。

 だが、ここで焦って聴覚障害生徒を追求すると彼らの自由な高校生活が保障できないと考えて、状況を見据えて問題提起することにしていたのである。

    カッコ悪いことなかったで  発達要求とニーズ
         と生徒の本当の要求

 ある日、E君は明るい顔をしてやってきて、

「先生カッコ悪いことなかったで。クラスで集団補聴器を使ったら、みんなカッコ良い、さわらせてくれ、借してくれといってきたで……」

と元気に語ってくれた。

  私たちは、アングロサクソン系の人々が、ニーズということばを使っていたのを知っていたが、そういうことばを使わなかった。
 インテグレーションということばも生徒にに使わなかった。

 現在、ニーズということばが飛び交っているが、needsは、欲求、必要、要求、需要などの日本語に訳されるだろう。
 だが、卒業した聴覚障害生徒が聴覚障害者団体の役員になり、要求書を行政にだすと
「そのようなニーズがあるかどうか、わかりませんのでお答え出来ません。」
と言われるという。
 カタカナ表記は、使う側の解釈でさまざま変幻するようである。

 しかし、生徒の発達要求を知ることは、並大抵の努力をもってしても把握出来ない。

 もちろん本人自身も。



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