2012年7月28日土曜日

いじめや暴力は絶対許さないとする教職員の固い決意と聴覚障害教育の発展




教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
 ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー

日本で創造された共同教育 インテグレーション・メインストリーミング・インクルージョン ましてや特別支援教育ではなく(33)

 どんな重い障害児者でも、障害児者になった原因と現状がひきおこされているしくみを正しく知れば、決して親だけの責任とはならない。

  はたして「自己肯定」「安心感」「自尊心」「自己認識」は
   考える力を形成するか

 近年、心理学の一部の影響やその他の運動の影響を受けて「あるがまま受けとめる」「本人が言うまま認め」ということが横行している。
 それが

「自己肯定」
「安心感」
「自尊心」
「自己認識」

を考える力の形成をするという主張が多い。

  ところが、このことばは本人たちの事を充分理解しているようで、裏腹にまだ成人でない子どもたちに自己責任を持たせているとも言える。

 さらに

「問題行動を見て見ぬふりする傾向」

と結びついて、いじめなどの深刻な問題をより深刻化することになっているとも言えるのではないか。

  教職員が事実から逃げることではない
          生徒のねがいを本当に信じることは 

 「本人に聞いたところ、いじめなんかはしていない」と言う。

 「そのことばを信じたい。」


とよく教育現場で語られる教師のことばである。

 思春期から青年期にかけて生徒たちは、教師を見極め自分が誤魔化して言ってもそれを信じる教師とそうでない教師を見分けて、自分が誤魔化して言ってもそれを信じる教師をいい先生という場合があるが、内面は決してそうではない場合が多い。
 

 そして、系統的にいじめられ続けた生徒(必ず暴力がふるわれていた)たちの心境を最大の配慮をして尋ねるということをしていないで、いじめた生徒(暴力をふるった生徒)に聞くことが多い。


     よくないことはよくない
   と教えることの大切さと教職員のエネルギー

 山城高校では、このような事態にしばしばぶつかり、教師間の激しい論議が行われた。

 その中で、あらゆる配慮をして、よくないことはよくない、と徹底的に生徒に教えていくことが大切だということでおおかた合意出来るようになった。

 「自己肯定」「安心感」「自尊心」「自己認識」を考える力の形成をするためにという名目は、結局生徒たちの抱える問題を放置することになり、教師として、なにもしないという楽さを産む。

 逆に、あらゆる配慮をして、よくないことはよくない、と徹底的に生徒に教えていくことは、大変なエネルギーを必要とする。

 
 このことで、聴覚障害生徒も決して例外にすることはなかった。
  
では君はどうして足や耳が不自由になったの

E君が、

「お父さん、なんで僕みたいな子供(障害者)を生んだのや、お父さんの責任やと言ったら、お父さんは、土下座してあやまってきた」

「それで君は満足したの?」

「そんなことはなかったけれど……」

と言った時、E君の言ったことを肯定しないで次のような質問をした。


「では君はどうして足や耳が不自由になったの?」

「小児まひになったから……」

「君より年下の人で小児まひの人がいないけどどうして……?」

「ワクチンをのむようになったから……」

「君のお父さんはワクチンを君にのませなかったの?」

「当時はワクチソはまだ輸入されていなかったから……」

「それでもお父さんが悪いの?」

「…………」

 当時、親は、子どものために、どんなぼあいでも、どんなことをしてでも、最大の努力と犠牲をはらっていた。

 しかし、それでも問題はほんの少ししか解決しなかった。

「あの時、ああしてやれば良かったのに……」

という親の反省は、子どもに対する深い愛情そのものであり、そのことが即、障害は親自身の責任とはならないのである。

 E君への質問とE君の葛藤は、その後大きな影響を与えることになる。





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