教育としてのろう教育・聴覚障害児教育・障害児教育
ー 京都のほどんど知られていない障害児教育から学ぶ教育 ー
昨年、私が担任した一年生のクラスにK君がいた。
彼は前年度欠席が多くて、原級留置になった生徒である。
そのK君と初めて会った時、正直いって、私は今年もまた去年の二の舞になるのじゃないかなという感じをもった。
「別に…」 「なんとなく…」
それは、今までみてきた原留生徒の中で、二年めからは順調にトントンといった例が比較的少ないこと、おまけに前年度のことについて、どんな事情だったの?と聞いても
「別に…」
とか
「なんとなく…」
という受けこたえしかしないK君のシラけた態度からの予想だった。
案の定、一学期が始まってみると、欠席が目立った。
五月の連休明けには、ますますひどくなり、欠席が5日ほども続いた。
しびれをきらせて5日めに家庭に電話すると
「えっ、5日間?毎日学校が終る頃帰って来るので、てっきり行ってるもんやと思ってました」
と母親。
それから数日後、K君が父親からの伝言をもってきた。
「山城高校定時制史上初の一年優勝」という目標を生徒に提示
毎日の出席を確認したいので、とはんこを押す欄が作ってある。
その日から毎日、担任か副担任が彼の出席を確かめて印かんを押し、家庭で印かんを押してもらってくるという事が始まった。
このことをきっかけにして、彼はとにかく
「一応の目的」
をもって、毎日登校するようにはなった。
しかし、教科によっては、授業に全くとりくもうとしないという状況も教科の先生から出された。
毎日学校へ来ても話すのは同じ職場で働くクラスメートとだけで、それもほんの二言、三言だった。
そんな彼が、担任の発行するクラス新聞に初めて登場するのは、一学期の期末テストが終った後のクラス対抗球技大会の記事である。
今もはっきりと記憶しているが、あの時の彼の表情や声に私は少なからぬ驚きを覚えた。
教室では無口で笑顔など見せたことのない彼が、大きな声を出して、クラスのメンバーをリードしていた。
そして彼が、決定的な変化を遂げたのは、二学期の体育祭のとりくみを通してである。
我々一年の担任、副担任団は「山城高校定時制史上初の一年優勝」という目標を生徒に提示し、このスローガンのもとに共同通信を発行するなどして、準備の段階から指導に、クラスの枠をはずして学年集団としてとりくんだ。
その結果
「体育祭なんかやる気ないわ」
と言っていた生徒たちもしだいに応援練習やリレーの練習、ゼッケン作りに参加し、目標の一年優勝をなしとげたのだった。
クラス委員でもなかった彼が、そのころようやく得た二、三の友人と共に、自ら実行委員の中に加わってきた。
一年初優勝をめぎす学年全体のとりくみが熱気を増す中で、彼は応援団や練習やデコレーション作りに生きいきと動き回った。
そして、優勝の喜びを味わうことができたのだったが、学年の中心になってがんばった彼らと、それ以外の無関心派の生徒の間には一つの溝ができていた。
「僕らはこんなにがんばったのに。先生、なんであいつらをおこらへんにゃ」
と彼らは私につめよってきた。
「あの子らをおこって、それで解決になるの?」
と私は私なりに、問題を投げかけるつもりであったが、彼らはいっこうに聞き入れようとしない。
副担任の先生から
「君たちが一年優勝をめぎしてがんばったことはりっぱだ。君たちの努力が一年優勝の原動力になったんだ。
その力を更にすばらしい力にと、みんなで決めたことを守ろうとしないクラスの仲間に腹をたてる君たちの正義感と責任感は本当にすばらしい。
僕たちも君たちの、約束を守らないと怒るそのエネルギーにはほれぼれするよ。
しかし、それに従わなかった生徒を叱ったり、腹を立てたりすることからは何も生まれないのと違うか。
人間はみなそれぞれ違う。
最初からみんながみんな同じことがやれるわけではない。
体育祭に出場しなかった子を責めるより、どうしたら次からはぼくも出よう、私も出よう、という気になるか、全力を出しきれるか、を考える方が先やないか。」
と話を聞くうち、横できいていたK君は、
「僕、先生のいうとおりやと思う」
とポツリと言った。
興奮していた生徒もそれでニッコリうなずいた。
( つづく )
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