2011年11月4日金曜日

偏見や予断を粘り強く解きほぐし 要求を実現した理性


Once upon a time 1971


「笑いながら」「怒りながら」、不当なことを許さない胎動

 山城ろうあ協会が機関紙をもてたことは、「ペンは剣よりもつよし」ということも証明したことでもあった。
 ここで繰り返すが、読み書きの出来ないろうあ者、学校に行けていないろうあ者も。
 今だから書けるが失聴して全く聞こえなくなった医師(当時は聴覚障害があると医師になれなかった。しかし、医師になってから失聴すると医師免許を返還しない限り医師になれた。現在はそういうことは大幅に緩和されているが。)も手を携えて「笑いながら」「怒りながら」、不当なことを許さない胎動がはじまったのである。
 それは今までの、恨みや怒りを晴らす感情的なものでなかったためよけいに人々の共感を生み、市の不当性、誤魔化しが明らかになって行った。


1960年代に京都のろうあ者運動は飛躍

 京都で、手話通訳保障や施設づくりのろうあ者運動がはじまった背景には、すでに述べた取り組みだけではなく、無数の問題を粘り強く、迷いながらも、お互いを励まし合い、助け合い、気の遠くなる地道な地道な取り組みの積み重ねがあったからと言える。
 この取り組みが、1960年代後半に飛躍期を迎えることになる。


こんどは通やくさんが入るのですか、に対してろうあ協会は

 福祉事務所長の筆談
「故意にだまっていたのではありません。話がおくれていたのです。全部ろうあ協会のものではないということです。こんどは通やくさんが入るのですか。こんどは私の方も、福祉係長も一しょに話に出てもらうことにする。仲よくやりたい」
をすでに掲載したが、この筆談で問題にされたのは、「福祉係長も一しょに話に出てもらうことにする。仲よくやりたい」としながら、「こんどは通やくさんが入るのですか。」と書いていることであった。
 市の方が、「仲よくやりたい」としながら、「なぜ、ろうあ協会の責任で手話通訳を呼ぶのか」「市の方が責任を持って手話通訳を呼ぶのがあたりまえではないのか。」と山城ろうあ協会は市を追求した。


行政が責任を持つ手話通訳のはじまり

 このことは画期的な事件でもあった。
 それまでは、市に頭を下げてお願いし、すがりつく、取り組みから、堂々と自分達の要求を言えるようになったからである。

「がまんがまん」
「なんでもがまん」
「やっていただけることだけでもありがたいと思え」
という「殻」を打ち破ったことになるからである。
 道理あるろうあ協会の追求に対して、市は、市に手話通訳が来るたびに「旅費・謝礼」を支給するという全国的にまれにみる予算を緊急に組んだ。
 そして、ろうあ協会との話し合いなどなどに来た手話通訳に市から直接「旅費・謝礼」が支給された。


血みどろの取り組みのはてに

 事件が起きた1968(昭和43)年7月8日の翌年。1969(昭和44)年10月11日に市ろうあ協会は、みんなと相談して「市に対する要望について」を提出する。
 その主な内容は、


1,市に専任手話通訳を置かれたい。
2,ろうあセンターの事業に市としても助成されたい。
3,ろうあ会館をつくり、ろうあ者にいこいの場を保障されたい。
4,市職員にろうあ者を採用されたい。
5,市営住宅への優先入居をすすめられたい。
6,ろうあ者夫婦の子供を保育所への優先入所を行われたい。
7,ろうあ者にクライシグナル(注:乳児が泣いたとき点滅ランプで知らせてくれる機械。当時非常に高価なものでろうあ者の給料からはとても買える金額ではなかったに。)を無償で交付されたい。
8,ろうあ者老人の生活を保障されたい。
9,ろうあ者の要求に基づいた「ろうあ者成人講座を最低1ヵ月1回開かれたい。
10,ろうあ者の福祉保障のための実態調査をすぐ行われたい。


というものであった。

 この要望に基づいてろうあ協会は血みどろの取り組みをする。
そして2年以内に、1,5,6,7、9,10の要求を実現し、その後、そのほとんどの要求を実現していく。

0 件のコメント: