2011年11月1日火曜日

信じて、頼って、たどり着いてきた親や子どもたちに、だだ期待を持たすだけと「告白」


時間と共に一見複雑で専門的知識の粉飾は、歴史とともにその本質が見えてくるのは必然である。
 その意味では、窪島氏の主張には、読み書き障害の子どもたちの気持ちの推定はあっても、その子どもたちと取り組んだ教育実践や彼の「論理」に基づく子どもたちの変化・発達はほとんど述べられていない。
 このことに多くの人々が気づかれただろうか。


子どもの教育実践に携わっていないことを「告白」

  さらに、読み書き障害児の指導と称する文章の中に、子どもたちに対する指導によって子どもたちが何を獲得できるように取り組んでいるのか、という教育目標がまったく出されない。
 これでは、窪島氏らを信じて、頼って、たどり着いてきた親や子どもたちにだだ期待を持たすだけ、という非教育的行為と言われても仕方がないだろう。
 文字を知ることで、生きる喜びを知る子どもの姿は、窪島氏の文章には登場していない。
 だが、そうではない教育は、日本各地で取り組まれている。そのことは天空に届くほどあると言っても過言でない。


 自分自身が実践した事を書けないで
  他の人が実践した事を例にあげているのか

 教師の教育実践を批判しながら、窪島氏の文章には、子どもたちとの生き生きとした具体的な取り組みは書かれていない。
 注意深く読むと、少しばかりの具体的例は、「滋賀大キッズカレッジでは、」と書かれていることから、彼が実践して得た教訓でないことも窺える。
 なぜ、彼は自分自身が実践した事を書けないのだろうか。
 他の人が実践した事を例に挙げるのだろうか。
 大いなる疑問がある。


具体的事例から自分の解釈への飛躍

 「立命館大学研究シリーズ ヒューマンサービスリサーチ」
「読み書き障害の新しい概念と滋賀大キッズカレッジの教育的指導─発達主体の定位と「障害」の位置づけを中心に─」(2008年6月)で、
窪島氏は次のように述べている。


 雪という字を書いてもらうと、
「“ゆき”知ってる。“雨”に“ヨ”やろ」
(4年男)として、頑張っても失敗してしまう、一生懸命直そうとして、先ほどの例のように、
「ここ『ヨ』やな」
と言いながら1本多くなってしまうというふうなエラー、間違いが起きてくるところです。
 それは、その子ども自身が主体的にその自分の弱さ、記憶の悪さなどに対応しようとして、必死になって機械的な記憶にたよっている姿です。
 そのことによってLD症状が強化されてしまうのです。
 LD指導がLDをつくるということが英語圏では時々いわれますが、そういうことが起きている可能性があるということを理解しておくことが重要です。


一生懸命な子どもに 問いかけて やらして 何もしない

 この文面はさらっと読み流してしまいがちであるが、「雪をかいてもらおうとした」という文章が、前文にある。
 すなわち、

「雪をかいて」
と言ったのは窪島氏であると読み取れる。(彼は誰かの話を又聞きして述べている可能性もあるが。)
 ここでは、なぜ、「雪をかいて」といったのかの説明はなにも書かれていない。そのため機械的問いかけをしたのは、窪島氏ではないか、とも思えられる。

 窪島氏の問いかけだとしても、「LDの子ども」は、
「“ゆき”知ってる。“雨”に“ヨ”やろ」
と言って書いた。
 するとその子は、
「ここ『ヨ』やな」
と言いながら「ヨ」に1本の横線を多くなってしまった。
 それを窪島氏は、「エラー、間違い」が起きて、としてLDの子どものことを書いている。


人間信頼を生まないコミニケーション

 だが、たのんだ人間が、
「“ゆき”知ってる。“雨”に“ヨ”やろ」「ここ『ヨ』やな」
とたのまれたことに応えた子どもが「「エラー、間違い」と断定する前にすべきことがある。


子どもとコミュニケーションしないで憶測

 書いた子どもとどのような話をしたのかである。
 が、そのことはまったく書かれていない。
 コミュニケーションしていないようである。
 その子自身が書いた文字に対して、その子自身がどのように「認識」(「認知)しているのか確かめようとしないで、窪島氏は断定している。


 
「ありがとう」
「書けたね」か「その字はどう、思っているとおりに書けた?」
などなどその子と話して、
 その子は「ヨと書いた」と認識して、言い切っていたのか。
「ヨが書けてないのかな」
「これ間違っている?」
と言ったのか、などなど。

そのような子どもとのコミュニケーションを通して知ろうとしないで、
「その子ども自身が主体的にその自分の弱さ、記憶の悪さなどに対応しようとして、必死になって機械的な記憶にたよっている姿」
と断定する。
 なぜ、自分の弱さ、記憶の悪さなどに対応しようとして、必死になって機械的な記憶にたよっている、と言い切れるんかの説明は全くない。


子どものニーズに応えないで
 ニーズを言う自身の姿を鏡に映して

 子どもとコミュニケーションしないで、断定するのは、問いかけた人に、子どもが「必死になつて応えている」ことに対して大変失礼な行為であり、非教育的ではないか。
 ここには、教育者としての姿は見られない。


子どもの問いかけはたんなる資料づくりのためか

 むしろこの子は、こうなんだという先入観の元にわざわざ書かせて、自分たちの書きの「エラー、間違い」の資料づくり(写真に撮り、発表する)のために問いかけたにすぎないと言われても否定できない記述である。
 問いかけられたことに素直の応じた子どもが、書いた結果に何も言いわれないことは、子どもに不安感を抱かせる、という教育上の配慮がここにはない。


自分の思考回路にある「不安感」や「安心感」を子どもに投影

 窪島氏の言う「不安感」や「安心感」は通常考えられるものではなく、彼の思考回路にあるらしい。
 さらに、「問い」に対して「応じた」子どもに対して「何も言わない」し、なんのアクションも起こさないとなれば、窪島氏は、子どもたちを実験の対象、LDの子どもの説明のための「材料づくり」としてしか見ていないことになる。
 事実、この「ゆき」なる文字は、ホームページに間違い・エラーとして掲載され、何の説明もされていない。


 この非情な報告は、行間を読みとらないと浮き上がってこない。でも、そう読める。


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