2011年11月7日月曜日

手話は、手先の動きではない 全身で表現するコミニケーション


Once upon a time 1969

 「又 来よったワ 10年前の資料で説明 あきれました!!この態度!」のところで、市役所内の福祉事務所をたずね時に、窓口の女の人が僕たちを見つけて、いやな顔つきでとなりの女の人に「又 来よった」とか何とかささやき、二人でこちらを見てから、のろのろと対応に出てこられた。ぶっきらぼうに「用件は!!」
という山城ろうあ協会の取り組みを掲載したが、ろうあ者は、「いやな顔つき」「のろのろと対応」「ぶっきらぼう」などの様子について「誤解だ」とする考えもある。

「又 来よったワ」事件は、本当にあったこととして確信

 しかし、私は、
「いやな顔つき」「のろのろと対応」「ぶっきらぼう」
の対応をした人とも話をしたことがある。またその時のろうあ者がOさんだったから、両者からのちのち話を聞く機会があったが、どうも「いやな顔つき」「のろのろと対応」「ぶっきらぼう」は本当のことであったと思った。

 
無表情の手を動かすだけの手話は嫌われる



 ろうあ者は、表情やその人の状態を聞こえる人より鋭く捉えることが多かった。
 「聞く」とことに主として依存している場合と「見る」ことに主として依存している場合とでその差が出てくるようである。
 私の手話学習は、ろうあ者の「手真似」を「まねる」ことからはじまったと書いたが、まさに手話学習は全身を使ったコミニケーションだった。

 なんの表情もないままの「うれしい」と少し笑顔の「うれしい」や顔中くしゃくしゃにして「うれしい」と言う場合は、同じ「うれしい」でも、うれしいの伝わり方や受けとめ方が違ってくる。
 無表情は、一番ろうあ者から嫌われた。それは、その当時ろうあ者の置かれていた社会状況にも関係していた。
 そのため初級手話教室(1984年4月20日 発行全日本ろうあ連盟)を作成するときに手話のひとつでさまざまな意味あいが表現できる、と言うことを掲載するため考えあぐねた。
 幸い、当時下西美也子さんが、撮影に協力してくれたのでそれを掲載する。


感性を捉える手話通訳こそ

 あごの下に手を添える。普通は、「待つ」と言う表現であるが、「待つ」「さびしい」「ひま」の三つに「訳」した。
 彼女の表情が無表情だったら「待つ」という手話表現は、「待つ」だけで終わる。
 だが、彼女の「待つ」は、愛しい人を「待つ」という表現だったように見えて、後で聞いてみたら「その通りです。」と言われ、その後結婚した。
 だから「さびしい」も少し笑顔なので「さびしくて、」という表現になっていなかった。

 「ちょっぴり さびしくて」が適切だったのかも知れない。
 撮影の関係で、上半身しか写っていないが、足の位置や組み方や少し足を曲げて待つ、などなどのよって、待ちわびているのか、待ちくたびれているのか、もう待てないのか、が表現出来るのである。


 手話通訳者はそれを音声語で表現するのだから、繊細な神経と感情が求められるのである。
 「待つ」といってしまえば、全身で表現しているろうあ者の手話を表現した、とは言えないだろう。
 


 ここに、手話通訳者としての感性が表れてくる。
 
 手話は、手先の動きではない。全身で表現するコミニケーションなのである。

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